東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

東京若枝教会

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 ようこそ!教会は心のくつろぎの場です。
  教会は魂の深い渇きが満たされる場です。
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メッセージ  

お知らせ  

新型コロナウイルス対策を踏まえた教会活動の注意事項に関するお知らせ (2023/11/24 更新)


ジョイタイムに関するお知らせ (2022/1/19 更新)

 感染予防対策をしてお待ちしております。詳しくはジョイタイムをご確認ください。

ママとキッズのホッとタイムに関するお知らせ (2023/4/7 更新)

 感染予防対策をしてお待ちしております。詳しくはホッとタイムをご確認ください。

礼拝メッセージ  

4月6日 聖日礼拝 富居博典伝道師  

「主の弟子となるために」 ルカによる福音書14章25節~35節

過越しの祭りに合わせてエルサレムへ向かうイエス様と共に、大勢の群衆が一緒に歩いていた。その時彼らの方を振り向いて、主の弟子となるためにどうあるべきかを明確にされたのです。その条件とはどのようなものか考えてみよう。
1、イエス様を第一とする(26)
「自分の父、母・・・自分の命までも憎まなければ」とあるが、これらの人々を感情的に憎むことではない。むしろ家族や自分の命は大切であり、何よりもイエス様を選び優先させる者こそが弟子にふさわしいのです。
一、イエス様に従う(27)
「十字架を負う」とはどういう事でしょうか。それは罪責の念に苦しむことでもなければ、イエス様のために苦しむことを勧めているのでもない。愛のゆえに十字架の贖いを成し遂げて下さったイエス様に付き従うことです。
一、イエス様に頼る(33)
「自分の財産をすべて捨てなければ」とあるが、無一文になれと言っているのではない。有形無形を問わず自分の何かに頼るのではなく、いつも神のご計画を計算に入れて主に寄り頼む事を願っておられるのです。私たちはこの地上にあって地の塩としての貴重な役割が期待されています。他人と比較せず委ねられた賜物を余すところなく用いて奉仕していきましょう。

3月30日 聖日礼拝 桑原晴美伝道師  

「神の最高傑作」 エペソ人への手紙2章10節

一、エペソは、小アジア地方の主要な都市でパウロが異邦人伝道に燃やされた場所の一つである(使徒19章)。この手紙は一つの会衆というよりは、小アジアの諸教会全体に回覧されるように書かれたようである。
一、2章の1-10節は「死から命へ」という小見出しがついている。(聖書協会共同訳、新共同訳)私たちはキリストにおいて死から命に移された者である。私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活によって罪赦され、新しい命に生かされた。キリストにあって死から命に移された者である。
一、私たちは「神の作品」である(10節)。英語訳の聖書にGod‘s masterpieceと訳されているものがある(NLT訳)。masterpieceは、最高傑作と訳されるが、特別な一つしかないもの、ユニークで、質の高いという意味がある。最高傑作である唯一無二の一人ひとりが集まり、キリストにおいて一つとなるところに教会は立つのである。
一、神の作品である私たちは良い行いをするために造られた。神が備えてくださった良い行いとは何か、私たちは具体的に神に聞く必要がある。日々の生活の中にも、神はあらかじめ良い行いを備えてくださっている。謙遜に実行する者でありたい。

3月23日 聖日礼拝 富居博典伝道師  

「神ご自身が備えてくださる」 創世記22章1~19節
時に私たちは信仰が揺さぶられるような試練に遭うことがある。今回のアブラハムは正にそのような状況にあった。愛するひとり子イサクを「全焼のささげ物として献げなさい」と神は仰せられたのです。それはアブラハムにとって犠牲以外の何物でもなかったが、それに勝る神への信頼があった。そしてイサクを屠ろうとしたその瞬間にみ使いに制止され、角を藪に引っ掛けた一匹の雄羊を発見した。父なる神様は全焼の献げものとして羊を備えておられたのです。
一、み言葉の約束と言う備え
イサクを献げてしまえばその後の子孫は途絶え、み言葉の約束は成就しないと考えるのが普通です。しかし神には人を死者の中からよみがえらせることが出来ると考えたのです。(へブル11・19)み言葉を通して私たちに備えていてくださっているのです。
一、神の愛による備え
アブラハムに神を恐れる信仰を見た主は、献げる事を止めさせ、一匹の雄羊を備えられた。この羊こそがゴルゴタの丘で死なれたイエス・キリストの予表と言えます。
一、祝福を備えて下さる
この試練に合格したアブラハムはすべての国民の祝福の担い手として認められた。アブラハムが信仰の父と言われる所以です。それはこの地上に留まらずいのちの冠(ヤコブ1・12)を得る祝福です。私たちに神様の備えがあることを信じて歩みましょう。

3月16日 聖日礼拝 井川比奈子姉  

「主を認めて生きる」エステル記4章7~17節

 私たちの人生には「この時のためだったのだ」と感じる時がある。一方で「なぜこのようなことが」と嘆き、神に意味を問いかけても答えが得られないこともある。大切なのは、どのような道においても、そこに主がいると認めることだ。
*「これが道だ。これに歩め」(イザヤ30・21)
 明確に主に導かれた経験は私たちに感謝と使命感を与える。困難におそわれても完全に倒れてしまうことはなく、確信に支えられて歩むことができる。しかし、明確な導きがなくてもその道に主の姿を見よう。そこにも、あなたに委ねられた使命があるはずである。(箴言3・6)
*「別のところから助けと救いが起こる」(14節)
 私たちは能力的に代わりがいないから選ばれたのではない。主の召しは「他の人でもできるが、私はあなたにやってほしい」という召しである。問われているのは自分が主体的に応じるかどうかであり、他者との比較ではない。使命を別の人に引き継ぐことも、途中で使命が変わることもある。
 今、自分がなすべきことは何か。エステルは王妃という立場と命を失う覚悟を持って、自分の使命を果たすために立ち上がった。何かを手放す痛みを伴うとしても、主に向き合ってみ心を尋ねながら、み旨にかなう選択をしていきたい。

 

聞こえていますか、あなたを呼ぶ声  

人はだれでも愛されたいと思います。愛なしでは生きられないように造られているからです。人はだれでも永遠を思います。永遠に生きるように造られたからです。人はだれでも真実なものに感動します。真実な神が私たちの創造主だからです。
 事実、私たちを造られた神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と語りかけておられます。
 ここに私たちの人間としての尊厳があります。
 砂漠に放置された時計は、どんなに正確に時を刻んでも、それを造った人間と向き合い役に立たない限り、空しいと思うでしょう。
 私たちがどんなに発達した文明の中にいても、どこか孤独で空虚で不安な理由は、私たちを限りなく愛しておられる神に背を向けているからです。私も思春期に大きな挫折の中で、聖書を通してこの神にお出会いして、六十数年、喜びと希望に生かされて来ました。
 教会こそあなたの生きる意味と生きる喜びを与える唯一の場所です。
 東京若枝教会は、あなたをお待ちしています。
     牧師 飯塚 俊雄

教会紹介  

私たちの教会は1968年、練馬区関町の借家の八畳の板の間から始まりました。
現在の牧師は音楽性ゆたかな飯塚弘道牧師です。
地域の方々に愛され、親しまれ、今や毎週の聖日礼拝には90歳をこえる方々から、働き盛りのパパやママ、青年、学生、中高生、小学生はもちろん、赤ちゃんにいたるまでたくさんの人々でにぎわいます。
牧師の心は温かく、お話はわかりやすく、慰めといやしと希望のメッセージはきっとあなたの心にも届くでしょう。

※当教会は統一教会、モルモン教、エホバの証人、幸福の科学とは一切関係ありません。
また当教会では駐車場整理の都合上、車でお越しの方には駐車票の掲示をお願いする場合があります。ご理解のほどお願いします。

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