東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

東京若枝教会

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メッセージ配信  

4月1日 聖書研究祈り会  

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聖歌396
聖歌399
聖書朗読 ルカ23:34
メッセージ「神である人の祈り」

来週は受難週ですので、今夕は、主イエスが十字架の上で父なる神に祈られた、とりなしの祈りから教えられたいと思います。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。

私たちが人間として生まれて以来、この日、この時、主イエスの十字架の上で、これ以上神聖な祈りがささげられたためしはありません。
これは人間の祈りと言うより、むしろ、神に対する神の祈りです。
父よ、という呼びかけは、神の独り子ですから言えた親しみのことばです。それは、御自分を死なせることをさえ、よしとされた、み父のご意志に心から同意しておられた事を示しています。

クリスチャン作家として、力強い生涯を送った三浦綾子さんは、この祈りに、神を見たと告白し、クリスチャンとなりました。
日本が戦いに破れ、小学校教師として、教えるべきことばを失った彼女は、生きるのぞみも失い、同時に結核を病み、脊椎カリエスとなり、長年、ギブスベッドにくくりつけられた日々を、虚無と絶望の日々を送ったのでしたが、ついに、十字架上のキリストの祈りに
心の目が開かれ、太陽は再び没せずと言い、輝かしい作家となられたことをご存知と思います。

主イエスはこの祈りによって、十字架はその根源において、神が愛でいますこと、私たちのどんな罪も赦すあがないの力であることを実現し、保証して下さいました。

主イエスは実に、この事のためにこの世に生まれて来て下さったのでした。
この時の、キリストの死は、全人類の将来に、そして歴史全体に決定的な影響を与える大事件でした。

ですから、自然そのものが、主の死に反応し、太陽は顔をかくし、やみが三時間も全地をおおったとあります。
人間が自分の犯した罪に震えることもしないので、地面が罪の重荷に耐えかね、地震がおきたと言っています。
キリストの死は、今までの律法の時代に終わりを告げ、恵みの時代の幕明けを宣言しました。
至聖所の神殿の幕は上から下まで真二つに裂け、罪人の私たちも、自由に、罪の赦しときよめを求め、直接のみ前に入る道が開かれたのです。

ところが、このような大事件を目の前にし、十字架のすぐそばにいながら、「彼らは自分で何をしているのか、自分で分からないのです。」と主イエスに見られているのです。
主イエスを十字架につけた人たちは、「何をしているのか、自分で分からない」人たちでした。
それは、自分のしていることがどんなに愚かで罪深いものであるか、気づいていないということです。

また、イエス様の祈りが自分のためだということが分からないということ、そして、自分の犯した罪が神の子を十字架につけたのだということが分かっていない、霊的に無関心であるということです。

どうして、彼らは、こうしたことが分からなかったのでしょう。

1 彼らは、自分の目先の利益、自分の保身にとらわれていたからです。
  ローマ総督のピラトは、自分の保身のことだけしか考えていませんでした。
  ユダヤの指導者たちは、自分の立場、宗教のこと以外は考えませんでした。
  兵隊たちは、イエス様の着物を手に入れることしかアタマにありませんでした。
  人々は、指導者たちの大声に扇動されて恥もなく動くだけでした。

2 救いが必要なのは、今、十字架につけられている三人の人たちで、自分たちではないと思っていました。

3 神そのものを畏れていませんでした。
  神がすべてをご存知で、必ず白黒をつけられる日があるという畏れがありませんでした。
良心が麻痺していたのです。
しかし、これらの人たちも数日後ペンテコステの日、ペテロの説教に応答し、初代教会のメンバーになって行きました。

なぜ、イエスさまは、わたしを信じなさいと言われなかったのでしょう。大音声をあげて言われてもよかったはずです。
しかし、主はそうされず、「父よ、赦してあげて下さい。」と。
私たちは、この主の愛に赦されねばならぬ罪人であることを知りてこそ、主を、信じることができるからです。

3月29日 聖日礼拝  

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賛美歌545
賛美歌491
交読文55
牧師の祈り・主の祈り・信仰告白
聖歌459
聖書朗読 第汽撻謄1・2〜3、14〜15、22
メッセージ「主に従い行く楽しさ」
聖歌518
祈り・頌栄・祝祷

「主に従い行く楽しさ」 第汽撻謄1章2〜3、14〜15、22節
この手紙は大それた罪を犯しながらも見事に立ち直り、力ある使徒として用いられたペテロの手紙で、慰めと優しさに満ちています。
 しかも、この手紙は暴君ネロの迫害が激しくなる64年頃に書かれ、読む者を励まします。
 現代は、「従順」は正に失われた言葉です。
一、それは私たちの選びの中にあります。「キリストに従い、御霊のきよめにあずかっている人たち」(2節)とは私たちのことです。
 私たちは聖霊によって主に従うために選ばれました。選民イスラエルは選ばれた責任を忘れ、自分の安全と特権に溺れました。主はモーセを通して従順を促し、身分に伴う責任を自覚するように訴えました。「信仰と従順(トラストアンドオベイ)」はコンビです。勝利の方程式です。
一、私たちが従うべきお方は受肉された主イエスです。主の苦難とそれに続く栄光。受肉がなければゲッセマネもゴルゴダもなく、私たちの救いもありませんでした。
一、従順は、心と生活を通して実証すべきです。(1節)世俗社会に対して(14、15、22節)。愛に燃える生き方で(15、22節)。従順は自分を直視し、誤りを認め、悔い改め、主の血で洗われ、他者との関係修復で実証されます。

聞こえていますか、あなたを呼ぶ声  

人はだれでも愛されたいと思います。愛なしでは生きられないように造られているからです。人はだれでも永遠を思います。永遠に生きるように造られたからです。人はだれでも真実なものに感動します。真実な神が私たちの創造主だからです。
 事実、私たちを造られた神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と語りかけておられます。
 ここに私たちの人間としての尊厳があります。
 砂漠に放置された時計は、どんなに正確に時を刻んでも、それを造った人間と向き合い役に立たない限り、空しいと思うでしょう。
 私たちがどんなに発達した文明の中にいても、どこか孤独で空虚で不安な理由は、私たちを限りなく愛しておられる神に背を向けているからです。私も思春期に大きな挫折の中で、聖書を通してこの神にお出会いして、六十数年、喜びと希望に生かされて来ました。
 教会こそあなたの生きる意味と生きる喜びを与える唯一の場所です。
 東京若枝教会は、あなたをお待ちしています。
     牧師 飯塚 俊雄

教会紹介  

私たちの教会は1968年、練馬区関町の借家の八畳の板の間から始まりました。
牧師は、ベテランの飯塚俊雄牧師と、音楽性ゆたかな飯塚弘道牧師です。
地域の方々に愛され、親しまれ、今や毎週の聖日礼拝には90歳をこえる方々から、働き盛りのパパやママ、青年、学生、中高生、小学生はもちろん、赤ちゃんにいたるまでたくさんの人々でにぎわいます。
牧師の心は温かく、お話はわかりやすく、慰めといやしと希望のメッセージはきっとあなたの心にも届くでしょう。

※当教会は統一教会、モルモン教、エホバの証人、幸福の科学とは一切関係ありません。
また当教会では駐車場整理の都合上、車でお越しの方から車の鍵をお預かりします。ご理解のほどお願いします。

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