東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ ■中川伝道所メッセージ

《成人になった日のモーセ》2019年1月13日 飯塚俊雄牧師  

ヘブル11:20〜28

 三千数百年前のモーセという人物が、今なお私たちに感動と勇気を与えるのはなぜか。成人した時の決断が最高のモデルだったからである。誰もが避けて通れない四つの原則。

一、自分とはだれか。自己認識である。彼はヘブル人であるのにエジプトの王宮に育ち、バラ色の将来が。でも正直にありのままの自分を受け入れ、王宮を捨てた。

一、自分は何になるべきか、人生の目的。彼は神の民と共に生きる道を決断した。

一、自分は何を人生の至上課題とするか。究極の価値観である。キリストのゆえに受ける苦しみをエジプトの宝に勝ると評価した。

一、彼は自分のビジョンに勇敢であった。不屈の忍耐力。見えないお方を見ていたから。

これら四つの原則を明確に選択できた秘訣は、燃ゆる柴の経験であった(出エジプト3:2)。燃えても燃えても燃え尽きない臨在される神の神秘。現代人は昔の人たちより、ずっと豊かですが、決して幸福ではない。「超越」という存在、神を見失ってしまったからです。

《三つの十字架》2019年1月6日 飯塚俊雄牧師  

ルカ23:32〜34、ガラテヤ2:19〜20

 キリストの十字架は、ただ一度の出来事です。人類を滅びから救うために、御子イエスの死の代価で贖うという超自然的な恵みは一回限りで完全でした。しかし、私たちが信仰に成熟するためには三つの十字架体験が必要です。

一、私のための十字架。これは、神に背き、神を無視した罪と恥の生涯を、神が主イエスの死に免じて赦す、と言って下さる身代わりの十字架です。信じて、感謝して悔い改めるなら、永遠のいのちが頂けます。

一、私も共につけられた十字架(ガラテヤ2:19〜20)神のこどもとして光栄ある人生をスタートしたものの、なお自分の中に自己中心性があることに痛みを感じます。犯した罪は赦されても。犯させた本性も主は解決してくださいます。
「われキリストと共につけられたり。もはやわれ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり」。これが潔めです。信仰の奥義です。

一、十字架を負う歩み。これが主が見せて下さった勝利者の道です。

《全能の神治め給う》2018年12月30日 飯塚俊雄牧師  

黙示録19:1〜9

 自国第一主義、民族の分断、テロの多発、難民の流入に手を焼く指導者、クールな人々。世界はかつてない週末の様相を呈している。

 今年の前途は暗いと七割以上の人々が思っている事実の中にも、私たちは救い主を仰いでいるが、同じお方が私たちの永遠の伴侶であり、万物の支配者として歴史に終止符を打たれることを知っているだろうか。「主は王となられた」(6節)と既成事実として預言している。

 歴史の初めと終わりを御手に握っておられるのは、十字架で死んで下さったイエスである。主は罪に汚れた宇宙をきよめ、贖われた私たちをご自身の花嫁として、新天新地を備えて下さる。それを宇宙の完成される日と言う。

一、その時、サタンは抹殺され、滅亡する。

一、全き勝利、完全な歓喜、私たちは高らかに十字架の主を讃える。それを先取りして、古き自分との訣別こそ今なすべき決断である。

一、あぁその日、地上でのすべての悲哀、涙、不条理の意味が明らかにされ、神の最善が成されたと知り、慰められ感謝に溢れる。

《クリスマスの奥義》2018年12月23日 飯塚俊雄牧師  

ルカ2:1〜20

 人となられた赤子イエスは、神の権威を身に帯びて居られた。

一、もみじのような可愛いみ手で、赤子イエスはヨセフとマリヤをナザレの村からベツレヘムへと引き寄せた。旧約の預言を成就させるためである(ミカ5章)。ローマの皇帝アウグストスは旧約聖書もマリヤも知らなかったが、神のみ手に支配されていた。

一、赤子イエスは降臨にあたり天軍を引き寄せ、福音を告知なさった。全能の創造主が一介の赤子となり、全人類を罪と死の束縛から解き放つために、十字架の死へと向かわれる。天使たちは極限の愛に驚嘆し、心から神の栄光を歌い、福音のニュースを告知する。

一、赤子イエスのみ手は、羊飼いたちを、福音の証人とするために、馬小屋へと引き寄せた。救い主のしるしは、飼い葉おけに寝ている赤ん坊。埋葬用の布にくるまれて。実に、主イエスは死ぬために来られたのである。私たちを天の栄光へと導くために。羊飼いたちは赤子イエスを礼拝し、歓喜にあふれ、家庭、職場に戻り、最初の証人となった。

《クリスマスのおそれ》2018年12月16日 飯塚弘道牧師  

ルカ1:36〜38

 クリスマスそのものは天地を揺るがす大歓喜でした。でも、神が見える人となる出来事は人の心に聖なる恐れを起こしました。

一、羊飼いたちの恐れ。(ルカ2:8〜12)夜の闇の中に突然輝いた天の栄光、神の臨在のしるし。汚れた日常性に慣れた私たちはこの聖なる介入に恐れずにおれません。ペテロも、ある日、不漁のあと、主の言葉に従って網を下ろした時、思わぬ大漁に突然心の眼が開け、イエスの中に神の栄光を見て叫び、ひれ伏しました。「私から離れて下さい」。この聖に対する戦慄こそ、神への熱愛へと変えられます。み言葉に従って主を尋ねて行った羊飼いたちは主を見て歓喜しました。

一、マリヤの驚き。(ルカ1:26〜31)彼女の恐れ、とまどいは空前絶後の使命に従うことへの決断にありました。婚約者との仲も一切を献げ得たのは、神には不可能はないの一言でした。聖霊に心を明け渡す時、私たちも内住の主を、生涯宿すことができます。

一、ヨセフの苦悩。マタイ1:18〜21、マリヤの身に起きたことの意味を知った彼は毅然としてマリヤを守る人となりました。

《天の明るさに生きる》2018年12月9日 飯塚俊雄牧師  

ルカ2:8〜20

 クリスマスの夜の、天の明るさは、神の真実さと愛を讃える明るさです。神であるみ子が地上に来られる宇宙的大事件に、み使いたちは感動し、力いっぱいの賛美を献げます。

一、その夜の天の賛美。主の降誕が無ければ、私たちを罪の審きと死の恐れから救う救いはなかった。
,換瀉造蓮地上に天の栄光を、私たちの内にもたらした(競灰螢鵐3:18)。
地上に天の平和を、私たちに平安な心をもたらした。

一、地上における讃美。
〆能蕕忙身したのは、羊飼いでした。彼らはみ使いの告知を聴くと、疑わず、直ちに応答し、暗い夜道を走り、救い主に会いに向かった。
∪峪劵ぅ┘垢鮹気慧てた彼らは、赤子イエスを約束のメシヤと信じ、感謝し、自分たちの救い主として受け入れ、喜びに溢れた。
最後に、家庭に戻った彼らはすでにキリストの証人であった。大切なことは、示された知識に従って行動することです。賛美する人生はそこから始まります。
「み父がみ子を世の救い主として、つかわされた」(汽茱魯4:14)

《世の光キリストは来られた》2018年12月2日 飯塚俊雄牧師  

競灰螢鵐1:8〜9

 キリストの救いとは、永遠のいのちを頂けるということです。さらに、根源的に神の聖憤から解放されることです。私たちには良心があります。ですから、本能的に裁きに対する恐れを持っています。しかも、この救いは、神からの贈り物です。人間は自力で自分を救うことは出来ません。キリストが私たちの罪のために死んで下さったので、私たちの罪が赦される。信じられないほどの一方的な恵みです。

一、主は富んで居られた。これは神としての永遠の本質です。

一、あなた方のために貧しくなられた。神であるキリストが受肉して人となられ、十字架と復活によって贖罪を成し遂げて下さった歴史的事実。

一、「それは、私たちが富む者となるため」とは、救いの目的です。ただ神のなされた愛の事実を驚きを以て認め、信じて感謝し、今までの罪をお詫びしさえすれば、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」である私たちが(黙示録3:17)神の栄光の世継ぎとされると言うのです。断る理由などありますか。

《起きて歩きなさい》2018年11月25日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ5:1〜9

 主イエスはスカルの井戸辺で、虚無的な一女性の心に天の泉を湧き上らせ、サマリヤ・リバイバルの淑女と変貌されたあと、単身、エルサレムに来られた。目指すは38年も空しくベテスダ(恵みの家:חֶסְדָּא בֵּית)のほとりに臥す男性である。痛ましい情景。人を押しのけて間欠温泉に入ろうとそのぎを削る修羅場である。

一、主は彼を”見られ”、”知って”、彼に「よくなりたいか」と問いかける。直りたいという意志を持っているか、願望を確かめられた。彼はすでに、自分はどうせだめだと、あきらめと絶望感に打ちのめされている。体の麻痺よりも意志がマヒしている。これが現代の教会と見る。礼拝には行く、しかし、生ける神に出会い、新しい御霊の力にあずかる期待が乏しい。

一、主はこの人に命令された。「起きて、そのわら布団をとり上げて、歩け」。
自分の無力を訴えた彼に対する命令である。主はこのことばで、決意によって新しく行動する勇気を彼に与えられた。彼は釘づけとなっていた寝床からきっぱりと起き、歩き出した。

《キリストが下さる平安》2018年11月18日 飯塚弘道牧師  

マタイ11:28

 勇者ダビデさえ、「もし羽があったら、遠くに飛んで行って、心の休みを得たい」と弱音を吐いた時がありました。だれでも、そうでしょう。涙とため息は人生につきものです。

 今こそ、主イエスの招きに応え、与えて下さるという安息を頂こうではありませんか。

一、主の下さる安息は主の上に憩うことです。つまり、平安の土台をキリストご自身に置くことです。砂の上に家を建てたら見かけは立派でも人生の試練に必ず崩れ去ります。神の永遠のみことばの上こそ、揺るがぬ土台です。

一、主の中に安息するのは、さらに深い経験です。これは主の臨在を不断に意識し、聖霊によって私たちに内住されるキリストと交わることです。「わたしの愛に居れ」と言われた主は、ブドウの木、私たちはその枝です。私は五年前、瀕死の試練に合いましたが、永遠の御腕の支えを実感し、再起できました。

一、主と共なる永遠の御国での究極の安息があります。豪華客船でも風波に揺れます。しかし天の港に着く日、主の御顔が待ってます。

《幼子の心になる》2018年11月11日 飯塚俊雄牧師  

ルカ18:15〜17

「だれでも幼子のように神に国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない」。主イエスは子どもの心を新しい視点で、その価値を認め、子どもこそ大人の教師だと言われる。

 今、イエスは十字架の待つエルサレムへの途上である。祝福を願う子ども連れの親たちに関わっている余裕などない、と弟子たちは忖度(そんたく)したのだが、イエスは幼子たちをさえぎる弟子たちに『憤られた』。

一、キリストは幼子を招いておられる。
子どもの幼児期に神の愛を教えるなら、その後の人格形成に揺るがぬ土台を持つ。自分が神に愛されている貴重な存在だと知るから。

一、キリストは幼子の心を持つ人になれと招いておられる。
〕鳥劼凌瓦箸蓮向きを変えて自分を低くする心。謙遜な心である。⊃人の前における素直さ。それを受容する心である。

これこそ、不安に打ち勝つ平安な人生。天国を先取りする希望の人生ではないか。「世界を動かすものは希望である」。(ルター)

《永遠に主イエスと共に》2018年11月4日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ14:1〜6

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」。
十字架の死を間近にして、神と同格者であるイエスは権威を以て、弟子たちの心を支えるために、天国とはどのような所であるかを語られます。

一、天国を、わたしの父の家と言われ、沢山の住まいがあると。「父」という言葉に温かさ、霊の故郷(ふるさと)に帰る嬉しささえ感じます。

一、天国は豊かな将来を保証する場です。人間の知性が考え出した単なる思想ではなく、そこから来られた方の言葉だから確実です。

一、あなた方のために場所を用意しに行くとは、私たちの憧れ、期待、願望のすべてを満たして下さるという保証です。そのためにはまず、赦罪の恵みと潔めにより、救われた者にふさわしい私として下さるというのです。

一、また来て、迎えます。永遠に一緒に住むためです、とまで主は言われる。真珠の門扉でも黄金の歩道でもない。最大の魅力は主イエスの御顔を間近に仰げる場、それが天国です。なつかしい人たちも待っています。

《こんなにもすばらしい救い》2018年10月28日 飯塚俊雄牧師  

へブル2:1〜4

 聖書が証言する神は三つの人格をお持ちです。ひとりの神が三つの人格とは、父なる神、子なる神、御霊(みたま)なる神です。この三位一体の神の第二位格(いかく)がイエス・キリストであり、父なる神と同等のお方で、人となって下さった神、生ける救主、神の永遠の御子です。

 ですから、イエスはご自身について、「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と語られました。このキリストだけが、神を離れて空しくなった人間を、神との交わりに連れ戻すことができる権威と能力をお持ちです。だから人間の姿となられ、しもべのかたちをとり、罪びとの代わりとならねばなりませんでした。愛がそうさせたのです。すべては自発的に、です。

 神は聖いお方です。私たちは神を無視し、神の愛と尊厳を侵(おか)して来ました。赦しが無ければ、永遠に滅びるしかありません。神の出番が必要でした。遂に、イエスは自ら進んで私たちの代わりに、死ぬために来て下さいました。それが十字架です。贖いの死という土台が出来た今、神との平和に通じるドアが。

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