東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ ■中川伝道所メッセージ

《主の恵みの年とナザレの人々》2019年3月10日 飯塚俊雄牧師  

ルカ4:14-30

サタンの誘惑に勝たれたイエスは郷里ナザレに赴き、幼少の時から通いなれた会堂で、「主なる紙がわたしに油注がれた」(イザヤ61:1-2)を朗読し、「今日、この御言が実現しました」と宣言された。キリスト(救世主)というギリシャ語はユダヤ語ではメシヤ(油注がれた者)の意味で、ぴったりです。

この日から「主の恵みの年」が始まりました。「今は恵みの年」が始まりました。「今は恵みの時、見よ、今は救いの日」(第二コリント6:2)なのです。罪にうちひしがれている人、人生の無意味さに幻滅している人は、本当の自分を取り戻し、「見よ、すべてが新しくなりました」と言えます。

五十年に一度の「ヨベルの年」が今やキリストの十字架と復活により、霊的に現実化されました。しかし、当時のナザレの人たちは主の言葉を道ばたに落ちた種子のように拒絶しました。一時は恵みの言葉に感嘆したのですが、偏見とねたみと不信仰により、その恵みの言葉を受け入れませんでした。メシヤの来臨と救いを待っていたのです。

《暗き世の光キリスト》2019年2月24日 飯塚俊雄牧師  

マタイ4:12〜17

取税人であったマタイは主イエスの全生涯の舞台を、殆ど北のガリラヤ地方にしぼって福音書を書いた。南方のエルサレムに行くのは、十字架に死ぬためだけ。なぜイエスのガリラヤ伝道にだけ意義を見出したか。三つある。

一、先駆者ヨハネが捕えられ、働きが終息した時を本番のメシヤの宣教開始の時と受け止め、ヘロデの本拠地に「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣言、敵地に乗り込まれた。

一、ガリラヤの民に伝道する使命のためである。イザヤ9:1は成就した。ゼブルン族とナフタリ族の両部族の境界線にカペナウムがあり、拠点とした。正に異邦人の世界、暗黒の民、死の陰である。そこに光をもたらす。紀元前9世紀アッスリヤに侵され、混血民族となり、宿命的に迷信、偶像に走る民、明かりの無い彼らの心の闇に光を投じるため。正しい神知識と神信仰が無いならば、科学によっても迷信は克服できない。魂を空き家にするだけである。

一、悔い改めよの声は響く。悔い改めの実無くして、暗黒の心に光を見た者などいない。

《喜びを友として》2019年2月17日 飯塚弘道牧師  

ピリピ1:1〜11

ピリピ書は使徒パウロがローマの獄中で書いた手紙ですが、主題は「喜び」です。喜べるはずのない状況にあってなお喜び、感謝する霊性の持ち主こそ人生の真の勝利者です。

この手紙は、挨拶で始まり、感謝、祈りが続きます。千キロも離れたピリピの教会を思い出すたびに感謝、感謝が湧くのはなぜか。

使徒16章11、12節がそれである。欧州に初めてキリストの福音が、パウロとシラスの二人によって渡った。これこそ世界の歴史を変えた最大の事件でした。教会形成には次の三つが不可欠です。

一、働き人の従順。パウロたちは行き詰まりを感じ、立ち止まる。夢に見た「来て助けよ」の幻を聖霊の導きと信じて従う。

一、御霊による救霊のみ業。ルデヤがまず救われ、女奴隷、そして看守。静かな回心もあれば、劇的な回心もある。

一、反対勢力。救霊の戦いの進むところ、光と闇がはっきりし、闇は牙をむく。犠牲なしには働きは進まない。あの痛み、あの苦しみは無駄ではなかったと知る時、感謝は溢れる。

《人生に勝つ生き方》2019年2月10日 飯塚俊雄牧師  

マタイ4:1〜11

主イエスが受けられたこの誘惑には、どんな意味があるのだろうか・神の愛子(あいし)と宣言され、救い主として公的に就任されたイエスに、神の敵サタンが攻撃して来ないはずはない。だが、主はメシヤとして公的に勝利された!

一、もしあなたが神の子であるなら、とは、天の御声を野次る囁きである。神の子なのだから石をパンに出来るはずではないか。事実に基づく条件文で詰め寄ったのである。
パンの問題は私たちにとって重大である。しかし、パンが解決した時こそ、罪と死と苦難の最重要の問題が起きる。主は「と書いてある」と誰でも使える武器で勝っておられる。

一、先の主の答えに対する揚げ足取りの誘惑である。「そんなに神の言葉にしがみついているなら、飛び降りて見よ」。神の宮のただ中でアッと言わせたらどうだ。主は申命記6章16節から「神を試みるな」。十字架と苦難とか言わず人の心を掴むのだ。

一、ちょっと頭を下げればいいんだ。目的のためには手段を選ばずだ。福音か政治力か。

《恵みとまことに満てるキリスト》2019年2月3日 飯塚俊雄牧師  

マタイ3:13〜17

一、バプテスマのヨハネの洗礼と主イエスの洗礼はどの点で違っていたのでしょう。
ヨハネは「メシヤがそこまで来ているぞ、悔い改めにふさわしい実を結べ」と人々に説きました。彼は雪原に立つ一本の巨木のような存在で、人々を悔い改めさせることを使命とし、その叫びは畏怖そのもので、ある人々には恐怖でした。
しかし、主のバプテスマは悔い改めを迫りながらも、優しさ温かさがありました。語る言葉も人柄も明るく喜びに満ち、子どもたちをも惹きつけました。

一、なぜ神である罪なきイエスがヨハネからバプテスマを受けられたのでしょう。
ヨハネには旧約と新約の橋渡しとして、メシヤの先駆者として偉大性がありました。
主イエスの受洗はナザレの私生活から公生涯に立つ転換点であり、メシヤ執任式でした。真に人間と一体になるため罪の中にまで入って下さいました。それは十字架で罪を贖う予表でした。天が開け聖霊が降り、御父の「わが悦ぶわが子」の承認を得て、メシヤ再確認の時となりました。

《神に会う備えをしよう》2019年1月27日 飯塚俊雄牧師  

ルカ3:1〜30

 荒野に叫ぶ声、ヨハネは旋風のように現れ、ユダヤの全地を揺さぶった。彼はメシヤ、イエスの先駆者として、「神なる救い主が来られる、主の通られる道を真直ぐにせよ。悔い改めにふさわしい実を結べ」。舌端火を吐く彼の権威あることばに人々は群がり、悔い改めのバプテスマを受ける。

 もしや、この方こそメシヤではないかといぶかる人々に、彼はきっぱりと「私のあとから来るお方こそメシヤです。私はそのお方の靴のひもを解く値打ちもない」と名言。やがて主イエスのお姿を拝して、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と紹介、「この方こそ、私たちの罪を赦し、聖霊のバプテスマを施して下さるお方」と指さす。神の御前には無に等しい自らを告白し、不義を責めることにおいては王といえど恐れない無私一筋。

 こうして彼はヘロデ・アンティパスの手によって殉教する。女性の生んだ人の中の最高、と主は賞賛されたが、主の十字架の贖いと聖霊の恵みにあずかる天国の子らは彼に勝ると(マタイ11:11)。ああ恵みよ。

《人生の至福に生きる》2019年1月20日 飯塚弘道牧師  

ピリピ1:19〜26

 はたちの私は怪我の傷をいたわりながら、進み行く教会のにぎわいをよそに、一人音楽を友として、本当の生き方を模索していました。そのような時、ある方の好意により、アメリカでの聖会に出席させて頂いたのです。そこで聴いたメッセージ。それが今日の私を生かし、使命に立たせているすべてです。

 今、ローマの獄中にいる使徒パウロは告白します。
私にとっては生きる事はキリスト。

一、キリスト者であるということは、個人的な経験です。人は人、しかしこの「私にとっては」。主と結びついたら誰も恐れません。

一、それは、現実的なことです。「生きることは」見て下さい。キリスト中心でしょう。どんな事もキリストと共有です。一つのいのちの交わりです。ここに「きよめ」がある。

一、それは、キリストご自身が全責任を持って下さることです。私を愛して死んで下さり死を破って復活されたキリストは、永遠まで保証して下さる。だから、どんなことでも、「できる」のです。これが信仰の奥義です。

《成人になった日のモーセ》2019年1月13日 飯塚俊雄牧師  

ヘブル11:20〜28

 三千数百年前のモーセという人物が、今なお私たちに感動と勇気を与えるのはなぜか。成人した時の決断が最高のモデルだったからである。誰もが避けて通れない四つの原則。

一、自分とはだれか。自己認識である。彼はヘブル人であるのにエジプトの王宮に育ち、バラ色の将来が。でも正直にありのままの自分を受け入れ、王宮を捨てた。

一、自分は何になるべきか、人生の目的。彼は神の民と共に生きる道を決断した。

一、自分は何を人生の至上課題とするか。究極の価値観である。キリストのゆえに受ける苦しみをエジプトの宝に勝ると評価した。

一、彼は自分のビジョンに勇敢であった。不屈の忍耐力。見えないお方を見ていたから。

これら四つの原則を明確に選択できた秘訣は、燃ゆる柴の経験であった(出エジプト3:2)。燃えても燃えても燃え尽きない臨在される神の神秘。現代人は昔の人たちより、ずっと豊かですが、決して幸福ではない。「超越」という存在、神を見失ってしまったからです。

《三つの十字架》2019年1月6日 飯塚俊雄牧師  

ルカ23:32〜34、ガラテヤ2:19〜20

 キリストの十字架は、ただ一度の出来事です。人類を滅びから救うために、御子イエスの死の代価で贖うという超自然的な恵みは一回限りで完全でした。しかし、私たちが信仰に成熟するためには三つの十字架体験が必要です。

一、私のための十字架。これは、神に背き、神を無視した罪と恥の生涯を、神が主イエスの死に免じて赦す、と言って下さる身代わりの十字架です。信じて、感謝して悔い改めるなら、永遠のいのちが頂けます。

一、私も共につけられた十字架(ガラテヤ2:19〜20)神のこどもとして光栄ある人生をスタートしたものの、なお自分の中に自己中心性があることに痛みを感じます。犯した罪は赦されても。犯させた本性も主は解決してくださいます。
「われキリストと共につけられたり。もはやわれ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり」。これが潔めです。信仰の奥義です。

一、十字架を負う歩み。これが主が見せて下さった勝利者の道です。

《全能の神治め給う》2018年12月30日 飯塚俊雄牧師  

黙示録19:1〜9

 自国第一主義、民族の分断、テロの多発、難民の流入に手を焼く指導者、クールな人々。世界はかつてない週末の様相を呈している。

 今年の前途は暗いと七割以上の人々が思っている事実の中にも、私たちは救い主を仰いでいるが、同じお方が私たちの永遠の伴侶であり、万物の支配者として歴史に終止符を打たれることを知っているだろうか。「主は王となられた」(6節)と既成事実として預言している。

 歴史の初めと終わりを御手に握っておられるのは、十字架で死んで下さったイエスである。主は罪に汚れた宇宙をきよめ、贖われた私たちをご自身の花嫁として、新天新地を備えて下さる。それを宇宙の完成される日と言う。

一、その時、サタンは抹殺され、滅亡する。

一、全き勝利、完全な歓喜、私たちは高らかに十字架の主を讃える。それを先取りして、古き自分との訣別こそ今なすべき決断である。

一、あぁその日、地上でのすべての悲哀、涙、不条理の意味が明らかにされ、神の最善が成されたと知り、慰められ感謝に溢れる。

《クリスマスの奥義》2018年12月23日 飯塚俊雄牧師  

ルカ2:1〜20

 人となられた赤子イエスは、神の権威を身に帯びて居られた。

一、もみじのような可愛いみ手で、赤子イエスはヨセフとマリヤをナザレの村からベツレヘムへと引き寄せた。旧約の預言を成就させるためである(ミカ5章)。ローマの皇帝アウグストスは旧約聖書もマリヤも知らなかったが、神のみ手に支配されていた。

一、赤子イエスは降臨にあたり天軍を引き寄せ、福音を告知なさった。全能の創造主が一介の赤子となり、全人類を罪と死の束縛から解き放つために、十字架の死へと向かわれる。天使たちは極限の愛に驚嘆し、心から神の栄光を歌い、福音のニュースを告知する。

一、赤子イエスのみ手は、羊飼いたちを、福音の証人とするために、馬小屋へと引き寄せた。救い主のしるしは、飼い葉おけに寝ている赤ん坊。埋葬用の布にくるまれて。実に、主イエスは死ぬために来られたのである。私たちを天の栄光へと導くために。羊飼いたちは赤子イエスを礼拝し、歓喜にあふれ、家庭、職場に戻り、最初の証人となった。

《クリスマスのおそれ》2018年12月16日 飯塚弘道牧師  

ルカ1:36〜38

 クリスマスそのものは天地を揺るがす大歓喜でした。でも、神が見える人となる出来事は人の心に聖なる恐れを起こしました。

一、羊飼いたちの恐れ。(ルカ2:8〜12)夜の闇の中に突然輝いた天の栄光、神の臨在のしるし。汚れた日常性に慣れた私たちはこの聖なる介入に恐れずにおれません。ペテロも、ある日、不漁のあと、主の言葉に従って網を下ろした時、思わぬ大漁に突然心の眼が開け、イエスの中に神の栄光を見て叫び、ひれ伏しました。「私から離れて下さい」。この聖に対する戦慄こそ、神への熱愛へと変えられます。み言葉に従って主を尋ねて行った羊飼いたちは主を見て歓喜しました。

一、マリヤの驚き。(ルカ1:26〜31)彼女の恐れ、とまどいは空前絶後の使命に従うことへの決断にありました。婚約者との仲も一切を献げ得たのは、神には不可能はないの一言でした。聖霊に心を明け渡す時、私たちも内住の主を、生涯宿すことができます。

一、ヨセフの苦悩。マタイ1:18〜21、マリヤの身に起きたことの意味を知った彼は毅然としてマリヤを守る人となりました。

《天の明るさに生きる》2018年12月9日 飯塚俊雄牧師  

ルカ2:8〜20

 クリスマスの夜の、天の明るさは、神の真実さと愛を讃える明るさです。神であるみ子が地上に来られる宇宙的大事件に、み使いたちは感動し、力いっぱいの賛美を献げます。

一、その夜の天の賛美。主の降誕が無ければ、私たちを罪の審きと死の恐れから救う救いはなかった。
,換瀉造蓮地上に天の栄光を、私たちの内にもたらした(競灰螢鵐3:18)。
地上に天の平和を、私たちに平安な心をもたらした。

一、地上における讃美。
〆能蕕忙身したのは、羊飼いでした。彼らはみ使いの告知を聴くと、疑わず、直ちに応答し、暗い夜道を走り、救い主に会いに向かった。
∪峪劵ぅ┘垢鮹気慧てた彼らは、赤子イエスを約束のメシヤと信じ、感謝し、自分たちの救い主として受け入れ、喜びに溢れた。
最後に、家庭に戻った彼らはすでにキリストの証人であった。大切なことは、示された知識に従って行動することです。賛美する人生はそこから始まります。
「み父がみ子を世の救い主として、つかわされた」(汽茱魯4:14)

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