東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ
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■中川伝道所メッセージ
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《いのちを与える救い》2018年6月10日 飯飯塚俊雄牧師  

使徒2:13〜41

キリストの教会が地上に誕生して、最初の説教である。ペテロが口を開いた。

一、ペンテコステは預言されていた出来事である(使徒2:14〜16)。
神はヨエル(使徒2:28〜32)を通して、「わが霊をすべての人に注ぐ」と約束、それが現実となった。青年には幻を、老人には夢を。御言に立つ信仰に揺るぎはない。

一、イエスはキリストである(使徒2:22〜23)。
十字架に死なれたイエスは預言された通り(詩篇16:10)復活された。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみなそのことの証人です」。福音は事実に基づく歴史的宗教である。24、31、32節にも復活を強調する。

一、ユダヤ人の敬愛するダビデとイエスの比較。
“爐諒茲呂修海砲△襦イエスの墓は空である。彼は預言者の一人、イエスは救世主。I活の主は昇天し、約束の聖霊を注がれた。ここにユダヤ教とキリスト教の決定的相違が。

この主なる救主を架けたのだ!聴衆に罪の自覚が起こり、どうすべきかと叫ぶ。すかさずペテロは「悔い改めて主を信ぜよ」と。

《初代教会の強さに学ぶ》2018年6月3日 飯飯塚俊雄牧師  

使徒2:3〜13

 遂に、その日は来るべくして来ました。主が昇天、栄光の主権者として着座されて十日目、「わたしに代わるお方を送る」と約束されたその日が来たのです。

 聖霊はその場に居た全員に下られました。

一、突然でした。激しい嵐のような響き。"風"(ヘブライ語 ר֫וּחַ ルーアハ)とは聖霊の象徴で「その思いのままに」吹かれる神として絶対の主権を表わします。

一、炎のようでした。そして各人の上に留まりました。"舌"は言語を意味し、キリストを語りださせる証しの霊です。"火"は全ての自己中心性を焼き尽くします。この事実は大勢の目撃者によって証人を得ました。甘いぶどう酒に酔っているとあざける者に対して、神の偉大な御業を天下に宣べ伝える契機となりました。

一、この出来事は世界宣教の門出となり、その日三千人もの受洗者を生み出しました。

 神はみからだなる教会を地上に創設するにあたって、教会的ペンテコステを行われましたが、力あるキリストの証人を造るために、今も個人的ペンテコステを与えておられます。

《本当の自由》2018年5月27日 森敏先生  

ヨハネ8:31〜36

 キリストは「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」と言われました。罪には習慣性があり、結果、良心は麻痺し、やがて私たちの全人格をむしばみます。これが罪の奴隷の状態です。

 さらに罪は「死」という報酬をもたらします。霊的な死、永遠の死です。「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」というパウロの叫びは、私たち自身の叫びでしょう。自分で自分を罪から救うことなどできないからです。この叫びに対し、神はキリストを送って下さいました。

 そして、キリストは宣言されました。「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」

 罪のない神の独り子が、私たちの身代わりに罪の処罰を受けてくださり、私たちを罪の結果から自由にし、更に、この方を受け入れた者に内住され、この現実の生活の中で、罪の支配からの自由と解放を与えて下さいます。

《天からの聖火、燃ゆる心》2018年5月20日 飯塚弘道牧師  

使徒1:8

 主イエスの予告通り、確かに聖霊は来て下さいました。祈りひれ伏す百二十人の一団に天から炎のような舌は定着したのです。新しい力を受けた彼らは別人のようになりました。

一、宣教の主役は主イエスです。世界宣教は主のご聖霊が私たちの内で主権を執られます。

 若枝教会はその使命を受けて前進します。この事業の基礎は、十字架と復活の主です。事業内容は、罪の赦しと悔い改めです。事業範囲は、エルサレムから始まって全世界。従業員は、あなた方であり、私です。事業のスタイルは、主の証人となることです。事業資金は、聖霊ご自身。資金が無ければ、どんな業務も計画倒れです。

 そして、主の言葉はみな成就したし、必ず成就します。

一、約束の力は三つのかたちとなりました。潔められた品性です。彼らは砕かれたのです。一致、結束し、祈り合い、愛し合いました。何があっても必ず勝利しました。

一、遂に彼らは地の果てまで進みました。

《魅力ある女性の生き方》2018年5月13日 飯飯塚俊雄牧師  

使徒9:36〜43

 ヨッパの海辺にタビタ(かもしか)という女性がいた。目の美しい人だった。われを忘れてきびきびと動く人だった。優しい心がいつも燃えていた。海難で夫を亡くした貧しいやもめやその家族を思い、彼女は下着や上着を縫っては無償の愛の奉仕に徹していた。

 愛とは思いやりが行動となったもの。神はその愛を見える形にされた。それがキリストの十字架である。信じる者に与えられる罪の赦しと永遠のいのちである。タビタは過労のあまり死んだ。家族のいない彼女。人々は早速、隣町に来ているペテロに注進に及んだ。

 ペテロはやって来て、人々がどんなにか彼女の死を悼んでいるかに感動した。屋上に三日も安置してある遺体に向き合い、神に祈り、主イエスがされたように「タビタ、クミ」(タビタ、起きよ)と力強い信仰の一言(マルコ5:41)。

 彼女は陰の人であった。しかし、小さな自分の賜物を活かし、キリストの愛を以て証した。主は誰にでも何らかの賜物を与えておられる。タビタの心で行こう。

《キリスト昇天の意味》2018年5月6日 飯飯塚俊雄牧師  

使徒1:3〜11

 キリスト教会は、その首(かしら)であるキリストが聖霊によって、みわざを続けていく手足です。それは、キリストの証人となる事であり、だれもがそれを使命として生きる事です。

 主は復活されたあと、ご自分が天地の主導者でいます事を宣言し、常時、私たちと共にいることを約束し、宣教命令を発せられました。そのあと、祝福の両手を挙げて昇天。

一、昇天の主は私たちの先駆けとして天の栄光に入られた(へブル6:20)。私たちも主と同様に栄光に入れることの証しです。

一、主は永遠の大祭司として、私たちのために執り成して居られる(へブル10:10)。私たちは憚らず恵みの座に近づけます。

一、主は近づく者を完全に救うことが出来ます(へブル7:25)。血潮による赦しを信じて、気落ちせずに近づき、再起しなさい。

一、主は、契約の言葉を私たちの心に刻み込んで、仲保者となり守らせて下さる。

一、昇天の主は今や教会の首(かしら)です(エペソ1:22)。私たちはぶどうの木に連なる枝々。

《主の大事業に生きる》2018年4月29日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ24:44〜53

 主イエスはご復活後、天地の主権者である宣言をされ、いつも共にいるという約束のあと、大宣教命令をお下しになりました。

一、この福音は、キリストの死と復活という歴史的出来事の上に立っているので、信仰によって、誰でも体験できます。

一、罪の赦しと悔い改めが、無償で提供されます。キリストの十字架を、自分のためと感謝して信じるだけで永遠の命が与えられます。

一、福音の進路はエルサレムから全世界をカバーします。ユダヤ民族の枠を超え、すべての異邦人に信仰の門戸が開かれました。

一、福音は一夜漬けではありません。旧約で予告され、新約で承認されたものです。旧約は新約に隠れ、旧約は新約で実現しました。ですから、未来に関わるご計画、つまり、再臨も審判も絶対に確実に実現します。

一、主が父である神から派遣されたように、主は、聖霊によって私たちを派遣されます。

ご覧のように、主のなさることは見事な二重性です。心に留め、聖霊を待ち望みましょう。

《走り寄る神》2018年4月22日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ15:11〜24

 聖書の中で神の愛を最も美しく語った主イエスのたとえ話、放蕩息子の帰還。父を見捨てて自由を求めた放浪の日々、財を失い、友に捨てられ、孤独の果て、肉体も霊性も飢餓となる。
人は生ける全能者である神の創造の結晶である。この神を「父」と教え、人間の尊厳性とは人格と自由意志を以て神を父と呼び、霊の交わりに生きることにある、と主。

 現代人は、与えられた自由意志を悪用して神なく生きようとする。ただ一度しかない人生を浪費し、霊的孤児となって人生をさすらい、孤独と罪悪感と虚無(ニヒル)の底にうめいている。

 この息子は、自分なりの自由に憧れて父を見捨てたあげく、罪の奴隷となり、だれもが嫌う豚の餌番となった。パスカルが四世紀もの昔、「神を離れた人間の悲惨」と言った、それである。しかし、彼にも人間性が残っていた。「オレには親父がいたんだ」。我に返ったのである。「詫びよう」。これこそ最も美しい心である。父は待っていた。待ちきれず走った。イエスは神が人となる迄走った。

《霊の火を再び盛んにせよ》2018年4月15日 飯塚弘道牧師  

競謄皀藤云

 福音の勇者パウロの殉教を目前にした手紙です。暴君ネロにローマ大火の責任をなすりつけられ、ローマの獄中にある彼の心にかかること、それは自分亡き後の愛弟子テモテの事であった。肉体的には病弱、情緒的で線が細く、恥ずかしがり屋の彼。もしや迫害のために尻込みし、妥協するのではないか。

 問題は彼の霊性である。神のみ心に全面的に明け渡し、聖霊に満たされ強靭な信仰を。パウロは霊火再燃の秘訣、四点を伝授する。

一、信仰の遺産を回顧せよ。Look back
 祈りの祖母、母が受け継いだ純粋な信仰、それは今も君に宿っているのだ。思い起こせ。
一、福音の出所とご期待を仰ぎ見よ。Look up
 主イエスの受肉来世によって明らかにされた福音は、永遠の神のみ心から出たものである。私たちはそのために選ばれているのだ。
一、まわりにいる忠実な人々を見よ。Look out
 オネシポロはエペソからローマに来てくれた。
一、義の栄冠の待つ聖前を見よ。Look ahead
 かの日は決算の日、栄光にあずかる勝利の日。

《十字架に神の栄光を見る》2018年4月8日 飯飯塚俊雄牧師  

汽灰螢鵐2:2

 かつて主が十字架の死を予告した時のこと。ペテロは血相を変えて反対、主に「サタンよ退け」と激しく一喝された。そのペテロが私たちの罪を負って、自ら進んで十字架に死なれた主を語る。復活の主にお会いしているから、十字架の意味が分かったのである。事実、主は十字架に死ぬために来られた。

一、私たちを神のもとに導くためである。私たちの疎外感や故郷喪失感、虚無感は神から離れていることに原因がある(イザヤ59:2)。
一、キリストは私たちの罪のために死なれた。罪から来る報酬は死である(ロマ6:23)。
一、キリストは一度だけ死なれた。十字架上の「完了した」の叫びは、過去から未来までのただ一度、絶対的、最終的の意。
一、十字架は神の愛の啓示である(ロマ5:8)。
「聖書によって神の愛が心に注がれている」人生何が起ころうと、神は私たちへの愛を実証された。神の愛を信じるに足る根拠は出来た。
一、十字架は神の永遠の勝利である(黙12:11)。今やサタンの頭は砕かれ、死は栄光への花道となった。

《キリストの復活の証人》2018年4月1日 飯飯塚俊雄牧師  

ヨハネ20:19〜23

 十字架の死を敗北と思った弟子たちは、人を恐れて戸を閉じる絶望した虚脱者であった。そこへ、思いがけなくも復活されたイエスが入って来られ、彼らの中に立たれた。状況は一変した。手には生々しい傷あと。「平安(シャローム)あれ」の力強い一言。彼らは「主を見て喜んだ」。驚嘆、狂喜、感動、そして礼拝。それが二千年後の今日まで続いている。
「よみがえられた主イエスは、贖いの血潮をたずさえて、今もこの場に立っておられます」、これが今日、私たちがここで礼拝を捧げる理由である。弟子たちの喜びは、主が共に居てくださるのだという臨在信仰となった。

 さらに、主は御父から派遣されたご自身の使命を弟子たちに託される。その使命を果たすには「力」が要る。だから「聖霊を受けよ」と命じられ、息を吹きかけられた。五十日後、この予表通り、主はみ父から受けて、約束の聖霊を与え、親しく彼らの内に宿り、彼らを霊に燃える者と変貌された。「無学の凡人」が、「天下をひっくり返した」のである。

《十字架、ここに神の愛がある》2018年3月25日 飯飯塚俊雄牧師  

ロマ8:39

 十字架は神が私たちのためになされた、ただ一回限りの完全な救いの手段です。でも私たちとの関わりにおいて三つの段階があります。

一、身代わりとしての十字架。十字架は私の身代わりとなって神なるキリストが死んで下さり、私の罪を赦して拭い去り、永遠のいのちを与えて下さった、というのが福音です。
そのためには罪を罪として謙虚に認め、神にお詫びしなければなりません。心に秘めた罪はどんなに言い訳を考えてもだめです。潔く告白し主の血潮に頼る時、神からの平安は宿り、神に義とされた歓喜に溢れます。

一、キリストと共に古き自分も磔けられている十字架。十字架は犯した罪を解決するだけではない。罪を犯させた古き自我も処理されねば、自分の本性が出て来ます。肉の行いは明白です(ガラテヤ5:24)。キリストにつくバプテスマによってキリストの死に合体し、新しいいのちに甦らせられたと認めて生きるのです。

一、前を行くキリストの後に従い自分も負うべき十字架、これが栄冠への道です。

《東京若枝教会の使命》2018年3月18日 飯塚弘道牧師  

使徒3:1〜8

 生まれたばかりの教会には、開かれた門とキリストの御名の権威が与えられていました。現代も変わりはありません。

 四十年も足の利かない男は物欲しげにペテロとヨハネを見上げました。二人は彼の目を見て立ち止まり、「私たちを見なさい」。この見つめ合いこそ今年の「若枝教会」の使命です。そこに愛の配慮があります。「お金はないけれど、私にあるものをあげよう」と。キリストの御名の権威を行使するチャンスがあります。

 今までのペテロたちは、人々が主に触れて頂こうとやってくるのを叱ったり、うるさがったり邪魔したりでした。しかし、ペンテコステの日に一切を手放して、自分を明け渡した彼らに聖霊が与えられてからは、別人のように人の魂に愛のまなざしを注ぎ、励ましの手を差し伸べ、「私にあるものを上げよう」と言える人に変えられました。

 祈りの座に共にいて下さる主は執り成しの権威を。主に求めるなら与えられるという祈りの力。贖罪のために祈る力は私たちに与えられている特権です。

《われに迫る十字架の愛》2018年3月11日 飯飯塚俊雄牧師  

ロマ5:1〜11

 仏教も天理教も神道も、みな教祖の教えを学び、それを行うように、キリスト教も同様にその崇高な教えを学び実践することだと教える人たちがいますが、そうではありません。
 キリスト教はキリストご自身と向き合い、一つになることです。キリストは私たちの罪を負って死ぬために、神の座を捨てて来世された方です。すでに贖いを成し遂げ、死を破って復活して居られます。ですから、救われるためにはこの事実を感謝して受ければよいのです。十字架はむごいと誰でも思います。しかし、私たちの犯した罪は、神であるお方がそこまで苦しまねば解決できませんでした。

一、それは無条件の愛です。今まで無茶苦茶な生き方をやって来た人もお咎めなしです。

一、それは犠牲の愛です。私たちは高貴な方に愛されると値打ちが高められます。神は私たちを全世界より尊いと値積もっておられます。

一、それは私たちとの合体を目的とした愛です。聖なる神と罪人の私たちが一つとなり、永遠に生きる。十字架無しには不可能です。

《理想的な日曜日を楽しもう》2018年3月4日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ6:1〜5

 聖書は古くても常に新しく、神の言葉を素直に食べる人には大きな祝福を与えます。
 安息日とは今の日曜日と共通しますが、イスラエル民族は土曜日に、キリスト者はキリストの復活にちなみ、週の初めに守っています。

一、安息日は救いの神を覚える日です。
イスラエルの民がモーセによって、エジプトでの奴隷生活から救出されたように、私たちはキリストによって罪と死と亡びの束縛から救い出されたことを銘記する日です。

一、安息日は神を喜ぶ日です。日曜日は聖なる日、神専用の日です。全宇宙を造られた神は七日目を休まれ(シャバト)ました。即ち、その完成を祝い、喜び合う日とされました。神に、いのちをありがとうと申し上げ、礼拝をささげ、感謝を分かち合う日なのです。

一、安息日は神との契約を覚える日です。神は約束を守られ、永遠の祝福へと導かれます。猿は自力で母猿の背にしがみつき疲れて落下する。母猫は仔猫の首をくわえて移動する。神の御手にある私たちも絶対に安心です。

《新しいぶどう酒は新しい皮袋に》2018年2月25日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ5:33〜39

 マタイは主の招きに応えて、立ち上がった歓びを感謝会という形で、主と取税人仲間を招いた。その祝宴の場に、パリサイの律法学者たちがやって来て、「本当に今までの罪を詫びたのなら、むしろ断食すべきだ」と文句をつける。主はご自分を花婿にたとえ、接待客に、どうして断食を勧めることが出来ようか、やがて花婿が十字架に死ぬ日、花嫁たちは自発的に断食するようになると。

ユダヤ人にとって断食の日は年に一度(7月10日)、大祭司が全国民の罪を至聖所に入って告白するその日だけでよかった。それを形式化し、戒律化して週に二度もするように押し付けた。
しかし、今や神の恵みの日が到来した!

一、真のキリスト者は主の花嫁である。栄光の主と一つとされている。この主を喜ぶことこそ、私たちの生きる力である。
一、主は人間の一部を改良するのではなく、丸ごと変えるお方。古い生活を脱ぎ捨てキリストをすっぽり着よう。
一、福音は新しいぶどう酒。そのたぎる喜び、生命力は新しい皮袋にこそ。

《川がある人生》2018年2月18日 飯塚弘道牧師  

詩篇46篇

 この詩は最も壮大な信仰の雄叫びである。このスピリットを握りしめたルターは勇敢に宗教界改革を成し遂げた。「川がある」ということばは、明確な歴史の出来事に基づいている。見るところ、エルサレムには川が無かった。紀元前701年、強大なアッシリアが18万5千の大軍を以て、エルサレムを取り囲んだ。陥落は時間の問題であった。川が無ければ人は生きていけないからである。

一、ところが、川があった。王ヒゼキヤが危機に備えて地下に水路を造っておいたのだ。遠くヘルモン山の雪解けの水がギホンの泉となり、町のど真ん中を満々と流れていた。
一、隠れた所に主イエスとの生ける水のパイプを持っている人は幸いである。大木は見えない根に支えられている。生きた信仰とは、主との見えない交わりによって支えられる。
一、主から、いのちの水を飲んでいる人は、現代のシロアムの池である。主がそうであったように、私たちも救いを証しする水路を内に持つ者でありたい。

《主の目優し、主の手強し、従う》2018年2月11日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ5:27〜32

 キリストとの結びつきには、さまざまなタイプがある。ある日突然、主の迫りを受けて従ったのはマタイ(”神の賜物”という意味)である。

一、主のまなざしの温かさ。主は彼の心の痛み、悩みを見ておられ、声をかけられた。
 アルパヨの子レビ。生粋のユダヤ人で祭司の家柄であった。その彼が取税人に身を落とし、人の憎むローマの手先になるとは。

 主はそうならざるを得ないすべてをご存じで、反社会的な人物の彼に、従えと招かれた。

一、彼はその呼びかけに一切を捨てて、立ち上がった。後顧(こうこ)の憂いを断ち切ったのである。

一、彼の決心から生まれたもの。清い心である。心は晴れやかに。平和が宿った。

彼の喜びに溢れた生き方は、エリコのザアカイの心に渇きを起こし、新生、献身へと導く。今までの仕事は失ったが、多くの人を泣かせたそのペンは聖別されて、マタイの福音書となり、全人類にキリストの福音を届けるパイプとなった。彼の福音書は旧約と新約を結ぶ絆である。主の招きを受けて立ち上がる幸いよ。

《人生、立ち上がる力》2018年2月4日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ5:17〜26

 福音とは、罪を赦す神の恵みのことです。この奇跡の事実が絵を見るようにあざやかです。「きょう、驚くべきことを見た」。この畏れと感謝と賛美が今も全世界のすみずみから聞こえて来ます。主が赦罪の権威を今も生きて行使しておられるからです。

一、恐れないでイエスの前に行こう。長年の病苦、孤独と不安。彼は四人の友人に、連れて行ってくれ、イエスの間近に、と頼む。よし、してあげようと四人。人だかりで進めないと見るや、屋上を壊してつり下ろす作戦に出た。彼ら五人の信仰を主は喜ばれ、「子よ、あなたのすべての罪は赦された」と宣言。

一、最前列にいた律法主義者たちはこの言葉に嚙みついた。「神以外の誰に赦罪の権威があるか」、その通りである。赦罪とは神との関係の正常化である。神なく生きる人生のひずみを正せるのは神以外にない。人となられた神なるイエスこそ、そのお方である。

一、キリスト者であるあなたに、もしや明確な赦罪の喜びと平安が無いなら、いま、主に近づこう。

《あらしを静めるキリスト》2018年1月28日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ8:22〜25

 「向こう岸に渡ろう」と主。一日の激しい活動を終えた夕方である。うかつに聴いていた弟子たちは目先の嵐におびえる。主が語られ、主が共に居られる。これにすぐる平安は無い。

 ガリラヤ湖だけの話ではない。「わたしが居るところに共に居らせる」の約束。私たちはこの世の波浪を超えて必ず栄光の御国にゴールインする。それが信仰者の強みである。 歴史の終局も主の御手にある。究極の勝利はすでにわが手中にある。毅然と生きよう。

 あの夜、強烈な嵐の前に荒くれの弟子たちも死ぬばかりに恐れた。
だが主は静かに眠って居られる。神にして、人であられる主の姿である。私たちの人生の危機管理はどうか。

 恐れは私たちから生きる力を奪う。ジョン・ウェスレーも、いざ嵐にもまれた時、自分の真相に目覚め、真剣に聖霊の満たしを求め、力ある証人とされ、彼の感化は現代に及んでいるではないか。恐れがあるなら、主に叫べ。ご臨在の主を認めよ。心安かれの御声を聴け。天地の主は、心の風波を静め平安を賜う。

《「時代の挑戦に応える」−来たりつつある主−》2018年1月21日 飯飯塚俊雄牧師  

黙示録1:13〜18

 初めがあれば終わりがある。歴史は神が始められたから、神が終わりをしめくくられる。「わたしは初めであり、終わりである」(8節)
歴史のクライマックスは神なるキリストの受肉、降誕であり、十字架と復活である。

 ヨハネは老齢となり、いまパトモスの孤島に幽閉されている。ロマ皇帝ドミティアヌスの迫害、弾圧下で多くの殉教者が出ている95年の頃、彼は主の日に御霊に感じ、終末に向かう神のご計画のパノラマを見た(17節)。世の初めからの権威、胸に金の帯は聖なる愛、宇宙を支える全能のみ手で教会を支え、歩み給う主。

一、その主の右手の触れを感じた。個人的、現実にわが愛に居れと言われる主。
一、主の臨在を感じただけでなく、「恐れるな」のみ声を聴いた。
かつてその胸によりかかったお方であった主イエスの真のお姿とみ手、そのお声に、彼は死人の如く倒れ伏した。そのみ手に「死と地獄(ハデス)」の鍵を持たれる主が来られる。私たちには祝福された栄光の日である。

《「時代の挑戦に応える」三つの発見》2018年1月14日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ5:1〜11

 「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた」の聖言を地で行くように、神はガリラヤ湖の漁師ペテロを選んで、当時の学問、権力の拠点であるローマを、福音によって征服させられた。そのためには、ペテロ本人が変えられねばならない。主イエスの愛に魅きつけられ、その聖さに打たれる、魅力と戦慄の経験である。

一、彼はキリストの中に、神を見た。徒労に終わった一晩の働き、胸にこたえるその言葉、そして、真昼の海に少し漕ぎ出して網を下ろせと。果せるかな、空前の大漁。
一、罪人である自分の発見。彼は主のみ前にひれ伏す。イエスを神と認めたからである。今も祈りの中で、私の罪を赦して下さいとひれ伏すなら、その信仰は本物である。
一、新しい使命の発見。主は「恐れるな」と。
「今からあなたは、人間をとる漁師になる」。生かすために捕らえるのだ。彼はローマ全土に、福音の網を張り、無数の魂を捉えた。

《みのりある人生を生きる》2018年1月7日 飯飯塚俊雄牧師  

ヘブル11:22〜28

 現代は、人間の根っこが問われている時代です。高度な科学技術の結果、人間が手にしたのは、自分の手に負えない行き詰まりでした。富の格差、医学の発達のかげで泣く孤老や死を求める人たち、前途に希望を持てない若者。何かが間違っている。何を間違えたのか。人間の立つ位置を見失ったのです。

 神の人、モーセは三千年以上もの昔、どんな人であれ、神の御前に自分が無に等しい者であることを認めて、心から従う者を神は尊く用いなさることを身を以て示しました。

一、成人になった日。彼は自分の本性(アイデンティティ)を確認した。身は王宮にあり、王位を継ぐべき立場であったが、正体は貧しいへブル人であることを自覚し、パロの娘の子と呼ばれる生き方を拒否した。うわべだけの人生よ、さらば。

一、神の計画に生きる道を選び取った。降りかかる事態は不可避であっても、対処する方法は自分の決断で選べる。境遇を支配できる。

一、彼は優先順位を決めた。神の民との苦しみを選んだ彼は、見えない神を仰ぎ続けた。

《新年礼拝メッセージ》2018年1月1日 飯飯塚俊雄牧師  

黙示録19:1〜9

 半年先の世界がどうなっているのかさえ思い描くのが難しい、混迷の年明けである。しかし、聖書を通して、神の永遠のプランを知っている私たちには、よし足許には逆流が逆巻いていても、栄光のゴールがあることに平安と希望は揺るがない。

 二千年前、ローマ皇帝ドミティアヌスの迫害下、パトモスの孤島に幽閉された使徒ヨハネは天からの啓示を書き残してくれた。
 ハレルヤ、私たちの神である主、全能者が王となられた(6節)。このお方がご自分の花嫁として私たちを迎えて下さるのである。

一、移り行く世にあって永遠に不変なもの、それはキリストの十字架、すなわち父なる神の愛である。それが歴史の中心である。
一、サタンが完全に滅ぼされる。すなわち、神との間を引き裂き、人間の尊厳を奪った罪の問題が完全に解決されるのである。
一、地上でのすべての悲哀、涙、不条理に、心からのアーメンで納得し、すべてが慰められる日が来ることを保証している。

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