東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

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《主の愛のお取り扱い》2018年4月8日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ21:15〜19、詩篇73:25

「イエスは再び彼に『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。・・イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』」
(ヨハネ21:16)

<はじめに>
 このヨハネ21章は、ペテロが十字架にかかる前の晩、「主を知らない」と3度も裏切った傷心のペテロに、主はご愛を以て、ペテロを取り扱い、『再召命』に導いたところです。主を愛することは、『献身の生涯』を全うする秘訣です。

1、献身の生涯の秘訣 “あなたは私を愛するか”
                                                                
復活した主イエス・キリストが夜明けのテベリヤ湖畔(ガリラヤ湖沿岸地域)で、人を怖れ主を拒んだ、傷心のペテロに愛を持って諭すドラマは美しいしい一枚の挿絵です。
実に深い愛をもって、ペテロを懇ろに取り扱われた光景は何とも素晴らしい物語です。
昔、良く用いられた七輪を思わせる、コンロに炭火を起こし、魚を焼いてペテロを待ち受けるイエス様の姿は何という優しいしもべの姿でしょうか。

「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」(マルコ16:7)

復活した主イエス・キリストはこのお言葉の如く、ガリラヤ湖の岸辺でペテロにご自身を顕わしました。どんなにペテロを愛していたか、主の方から愛を示し、赦し、宣教の力を満たしました。

2、甦りの主イエスとペテロとの三回のやりとり

 主は自ら、食事を用意し、食事を済ませた後、特別シモン・ペテロに深いご愛をもって迫りました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」アガペー(神の愛)の愛を同じ言葉で二度(15,16節)問いかけた。

それに対し、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と、フイロー(人間的愛情)の愛で、精一杯心より応えました。

そして三度目のイエスの問いはフイローの愛で良いから、フイローの愛でシモンに問いかけました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」ペテロは、イエスが三度目(17節)も、「わたしを愛しているか」と言われたので、心を痛めて、「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」と、愛する主に何もかも投げ出し、委ねました。

その回答を主は受け入れ、ペテロに牧者としての使命を与えました。「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。主を愛さないで群れを導き、宣教の迫害、殉教の覚悟は備えられないのです。
主はペテロにどのような死に方で、神の栄光を表すかを示し、「わたしに従いなさい」と言われました。

「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(18)

この主の預言の如く、信頼し得る伝承によると、ペテロは64年のネロの迫害において、十字架につけられて殉教しました。

《全生涯を導かれる主》2018年4月1日 渡邊泰範牧師  

詩篇23:1〜6

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23篇1節)

<はじめに>
 詩篇23篇は大牧者なる主イエスが与える恵みです。私たちは詩篇22篇の経験を受けるべきものでありますが、良き牧者なる主イエスが十字架の苦しみを受けたことにより、この詩篇23篇の復活した、生ける主の大いなる恵みを受けることが出来るのです。主は臨在の恵みをもって、「わが世にあらん限り」すべて、全生涯導かれると約束されます。

1、主は私の牧者

 詩篇23篇は、これほど美しい詩を他に見ないほど、霊的な豊かさがあります。
この詩篇23篇は「エホバはわが牧者なり。われ乏しきことあらじ。」と、文語訳で親しまれてきました。
多くの聖徒は臨終間際にもこの詩篇を愛唱して天に召されて往きました。クリスチャン生活には世にあって、多くの戦いがあります。失敗、失意、落胆、体の弱さ、親しき友との別れ、そして親しくお交わりしてきた多くの聖徒との別れは淋しいものです。 
しかし今日も、その戦いのさ中にあって、失意どん底に陥っている時も、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と、神さまは聖霊を通して、静かに私たちの霊魂に語りかけて下さいます。
スポルジョンはこの詩篇23篇を「小鳥の中のナイチンゲールに相当するものだ。」と言っています。夜、美しい声で鳴く、ナイチンゲール(和名;サヨナキドリ 小夜啼鳥)のように、泣いて夜を過ごす多くの悲しむ者の耳に、この詩篇は心地よく響いて、希望を与え、喜びの朝を迎えさせてきたからです。 

2、証し:私の詩篇23篇

救われて間もなく、日曜学校の奉仕に励んでいた時、弟から借りた高価なスポーツタイプの真新しい自転車を、ちょっとした隙に盗まれてしまいました。
信仰に反対していた両親に、どうお詫びしてよいか、悩みました。当時の給料の三倍もしましたが、弁償しました。神様に泣いて祈りました。
「愛する天のお父様、今後、信仰生涯、やって行けるでしょうか。」父なる神さまは即座に、『主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。』と、大いなる慰めをもって、強く語りかけて下さいました。また主は、『あなたの一生涯、全責任をもって守ってあげる。』と、み言葉を啓いてくださいました。
主の救いに与かって、間もなく経験した深い悲しみは、大いなる主よりの慰めのメッセージとなりました。
この時、以来このお言葉は私の最大の慰めの言葉となりました。

詩 ♪『主はわが牧者』
 主の臨在の喜びに満たされ、
 主を賛美します。 
 悩みのときに主に祈る時、
 主は直ぐに応えて下さいました。
 主は私の牧者と言われます。
 主に慰められ、悲しみは、
 賛美に変りました。
 主は生涯、守られると言われます。
 私は主に信頼し、主のみ手に委ねます。

全く主にお任せし、主にお委ねした時、主は全責任をもって導き、豊かなご臨在をもって導き下さることを知りました。

《受難のキリスト》2018年3月25日 渡邊泰範牧師  

イザヤ53章1〜12節

「私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
(イザヤ53:4〜5)

<はじめに>
 ”イザヤ”とは「主の救い」という意味の如く、イザヤ書は極めて福音的であります。特にこのイザヤ書52章13節から53章12節は「しもべの歌」と呼ばれ、また旧約聖書中重要な箇所であり、新約聖書以上にメシヤなるイエス・キリストの贖罪死(私たちの罪を赦すために、キリストが身代わりとなって、私たちの罪の罰を受けて十字架にかかって死んでくれたこと。)について明らかに述べています。

1、悲哀の人、キリストと人の不信仰

「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」
(イザヤ53:1)
イザヤの内にいます聖霊はここに嘆き訴えられます。多くの預言者たちが、今に至るまでしばしば宣べ伝えてきたこの救い主イエスを信じなかったのです。
 しかし全能の主の聖手は事実イエスによって顕れたのです。イエスによって重い皮膚病はいやされ、盲人は見え、聾者は聞くことが出来るようになった。

「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」(イザヤ53:2)

主のしもべイエスは人々が想像していたように天より栄光をもって降臨されないで、芽生えのように柔らかに、弱々しい赤子として一人の婦人のお腹からお生まれになった。
乾いた土地とは、当時ユダヤがローマの属国となっており、ことにベツレヘムは実に賎しい小さな村であったことを指している。

 若枝とはひこばえのことで、古木の幹から柔らかい若枝がひょっこり出てくることをいいます。ユダヤは一旦、切り倒され、ローマの属国となりましたが、民はひこばえ(樹株)のようにそこに残っていて、ダビデの裔より生育された事を示します。

 このようにして生まれたイエスは肉体としては少しも美しいというべき点はなく、人の目を引くような見栄えはありませんでした。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人でした。」(3節)

2、キリストの謙遜

「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)

これはピラトの庭のキリストの姿です。ここに彼は謙って自分から口を開かないとあります。これは我慢ではない。全く謙って自分から甘んじて自分を罪人の地位に置き、その罰を当然のこととして受けられました。

彼はご自身を卑しくして私たちと全く一体となり、神の子であることを全く念頭に置かれなかったのです。
羊は屠り場に引かれて行く時さえ抵抗せず、毛を切られる時にも騒がないといいます。そのように、主イエスは子羊のように、柔和、従順で、どんなことを仕掛けられても、何の不平も言わず、刑場に引かれて行かれたのです。そして十字架の極刑に処せられました。

《主イエスの十字架と勝利》2018年3月18日 渡邊泰範牧師  

詩篇22篇

「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」(詩篇22篇1節)

<はじめに>
 詩篇22篇はすべての聖徒に愛されている詩篇23篇に隠されて、あまり親しまれていない事を覚えます。ところが詩篇22篇の主イエスが私たちに代わって、ゴルゴダの丘で十字架のご苦難を受け、死なれた故に、詩篇23篇の復活した牧者なる主イエスの臨在の恵みに与かれるのです。

1、父なる神に捨てられるイエス

 1〜21節の受難の描写は、ゴルゴダでの主イエスの受苦と一つひとつが照合できます。主イエスにとって、十字架上の最大の苦悶は
「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。」(詩篇22:1)
にありました。この叫びが十字架上のイエスの第4言でした(マタイ27:46)。

 捨てられる理由のない、何一つ罪なきお方が父なる神から捨てられる。それは彼が捨てられることにより、捨てられて当然の罪人なる私たちが捨てられないという、人類救済の道が開かれるためでした。
「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る。」(詩篇22:7〜8新共同訳)

 神に捨てられ、神の沈黙から人々に軽んぜられ、嘲笑されているイエスの苦難が描かれています。
「救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。」(詩篇22:21)
苦難の絶頂にあったイエスが、なぜ私が十字架に磔(はりつけ)され、神に捨てられた父のみ心が新ためて分かったように、『あなたは私に答えてくださいました。』と、詩篇の記者は記しています。

 小島伊助先生が嘗て、「福音誌」でここを強調され、大変、詩篇22篇が開かれ、恵まれたことを思い出します。
「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(ヨハネ18:11) 
イエスは十字架を前にして、ペテロに語られました。父より御受けになった杯なる十字架は飲むべき決意を告げています。

2、十字架上のイエスの勝利と賛美

 詩篇22篇の前半はまるで十字架に処刑される主イエスを見たかの如く描写されていますが、後半では一変して勝利の賛美で満ちています。
神が祈りに答えてくださるという確信から、突然、詩人は苦痛の描写から感謝と賛美に変えられて行きます。
「私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中 であなたを賛美します。」(詩篇22:22)
詩人は会衆の中の苦しむ者、貧しい者への配慮を忘れず、神の王国の成就にまで、主を賛美します。
「子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」(詩篇22:31、32新共同訳)

 イエスの十字架の第6言「すべてが完了した」を思わせます。『主が成し遂げてくださった恵みの御業』を全世界、後世にも高らかに語り伝えると記します。

《われらキリスト者の責任》2018年3月11日 渡邊泰範牧師  

コロサイ1:24〜28

「今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。」
(コロサイ1:26)

<はじめに>
 前回はキリストの優越性について学びました。
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。」(コロサイ1:18)
まず、この手紙が獄中から送られたもので、コロサイから1,600Km離れていました。コロサイ教会の事情はエパフラスによって伝えられ、今、彼はパウロの居るローマにいます。
 彼の報告は一面、パウロを喜ばせましたが、他面、悲しみと危惧の念もありました。私たちはパウロの牧会者の心があるだろうか。パウロの果たすべき責任とは何だったのでしょうか。

1、キリスト者の果たすべき責任

『神の言葉を余すところなく伝える。』ことです。
パウロは神のみことばである、キリストご自身を完全に広める責任を託されたのです。
福音に二つはないのです。罪人向きの福音とか、教会用の福音などないのです。福音は一つです。福音には高さがあり、深みがあり、幅もあります。だから私たちはこの全幅の福音をしっかり伝えねばなりません。

 信仰の義認だけでなく、聖化の恵みも。御霊(みたま)による新生だけでなく、聖霊に満たされる歩みも伝えることです。

 健全な教理と同時に、キリスト者としての社会活動も。しかし、このような任務を完全に遂行しようとすれば、必ず犠牲が伴います。
「自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている。」
(コロサイ1:24)とはそのことです。
「自分の身をもって」とは、身体的な苦難を意味しています。
勿論、この場合の「キリストの苦しみ」は十字架上のキリストが私たちを贖うために受けられた苦しみではありません。キリストの贖罪の死は完全無欠であります。これに対しては人間も天使も何一つ加えることは出来ません。

 主はかつて、「あなた方はこの世にあって苦しみを受けるだろう」と言われました。その意味であります。「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ6:17)とパウロは告げる。

2、その任務の具体的な内容

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)ことと言います。私たちは聖書を神の言葉と言っています。しかし、私たちを救うのは書物ではありません。一人のお方キリストです。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5:39)と言われました。私たちを救う神のことばは受肉(人となられた)された神のことば、すなわちキリスト・イエスであります。

 このキリストとは歴史的キリストであります。
「神は昔、預言者たちによって・・この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」(ヘブル1:1〜2)
キリストとこの世の宗教との歴史的相違点はここにあります。キリストは歴史の中に生まれ、歴史を歩み、十字架につけられ、死んで葬られ、復活されました。
(飯狃嗟宰匯奸ゝ祷会メッセージ要旨;201711.1)

《わが内にいますキリスト》2018年3月4日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ14:20

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります」(ヨハネ14:20)

<はじめに>
 私たちは神の栄光の中にキリストの中にある者です。同時にまた、キリストはこの罪に満てる世に、ご自身の霊によって私たちのうちに住んで居られるのです。天的な意味で信仰は私たちをキリストに結合し、この地上の生活にあっては聖霊がキリストを結び合わせて下さるのです。
これはまことに神秘的な真理であり、奇跡であります。私が主に在り、主が私の内にいますという事を信じるには、自らの信仰を相当大きくしなければなりません。その恵みを信じることです。

1、キリスト教は中に住まわれるキリストご自身

 初めての方にキリスト教とはどういうものであるか、簡潔にご紹介したいと思います。
キリスト教とは単なる教えではありません。キリスト教はキリストご自身です。
人が造った偶像を拝むものでもなく、実体がよく分からないが、その教えを信じて唱えれば、幸福が得られるという、抽象的なものでもありません。

キリスト教は今も生きて、働いている、生けるキリストご自身です。そして、今もキリストを信ずる者に、主は私たちの中にいまし、私たちの罪を赦し、神の子となり、復活の望み(二度と死なない体に甦らせてくださること)に与らせて下さっているのです。

 罪が赦されて神の子となり、やがて神の国(天国)に迎えられて、二度と死なない栄光の体に甦る日はいつの日でしょうか、それはもう一度、イエス・キリストご自身が私たちを迎えるため、雲に乗って来る時(再臨と言います)です。

2、聖霊によってキリストを受け入れること

 人間的(肉)な標準でキリストを知ることと、霊によってキリストを知ることは大きな違いです。弟子たちはペンテコステ(聖霊降臨日;キリストが復活してから50日目)までは肉によってキリストを知っていました。

 今でもキリスト信者の多くは、肉によってキリストを受け入れます。あるいは、他の人から教えられ、あるいは自ら聖書を読んで、肉によってキリストを受け入れます。これも幸いなことです。肉によってキリストを知る者は時に心の中で寂しさを覚えます。キリストを見ることが出来ないからです。けれども霊によってキリストを知る者は孤児ではありません。心の中にキリストを持っているからです。

3、聖霊によってキリストを受ける者に住まわれる主

 聖霊によってキリストを受け入れるなら、三つの結果が現れます。『あなた方は私を見ます』(19節)。『あなた方も生きるからです』(19節)。『その日には・・わたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります』(20節)。

 「見る」、それは道であるキリストを指します。「生きる」、それはいのちであるキリストを指します。「分かります」、それはまことなるキリスト指します。

 では、聖霊を豊かに受ける秘訣は、主を信じて、従う事です。『神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。』(使徒5:32)。そして、主を愛することです。『だれでもわたしを愛する人は、・・わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」(ヨハネ14:23)

《主の御心をなしたまえ》2018年2月25日 渡邊泰範牧師  

「『わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように』と祈られた。」(マタイ26:42)

<はじめに>
 神の御心というのは、理解すればそれですんでしまうものではなく、実行に移さなければならない性質のものです。『主の祈り』の中で、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と、祈るように、主イエスに倣って、私たちも御心をなして行くことです。天国というところは、御心が完全に行われるところです。

1、御心に従う生涯

 私たちの信ずる神は生ける神なので、神のみ前に立つ復活したキリストの執り成し(私たちの罪を赦し、生ける神との交わりを快復した和解者として、キリストは大祭司として執り成す)によって、私たちの祈りは応えられるのです。祈りは私たちの模範者なるイエス・キリストに学びましょう。

 イエス様は誰よりも祈りの人でした。イエス様はゲッセマネの園で何を祈ったでしょうか、『あなたのみこころがなりますように』と祈られました。この背後にはイエス様のどれ程の葛藤があったかを忘れてはなりません。イエス様の祈りは血の汗を流しながらの祈りでした。

イエス様のご生涯は終始一貫、『あなたのみこころがなりますように』という祈りでありました。
『わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。』(ヨハネ6:38)
イエス様の生涯は父のみこころを行うことでした。

 イギリスのジョン・ウエスレーは神様に用いられた素晴らしい聖徒でした。臨終の時、集まっている弟子たちに、「私は天国に行く資格がない。」と言われました。彼らはびっくりしました。「それでは一体だれが天国に行けるのだろうか」と考えました。
するとウエスレーは「しかし、イエス様が私のために死んで下さった。(But Jesus died for me.)それで天国に行く資格がある。」と言われました。

 イエス様の十字架なしに誰ひとり天国に行ける人はいないでしょう。傷のない子羊のように献げられたキリストの血は、すべての罪を赦し、聖めるところの驚くべき力があるのです。父なる神様がイエス様の服従を喜びなさった如く、私たちも主のご再臨(主イエスがもう一度来られること。)を前にして、主のみ旨に従いましょう。

2、御心に従う秘訣

 ジョージ・ミューラー(祈りで、多くの孤児を養った。)が90歳になったとき、お祝いに集まった人々が、「あなたの毎日の幸いな生活と、素晴らしい神様の秘訣は何ですか」と聞きました。そのときジョージ・ミューラーは、「神様の恵みによって、正しい良心を保ち続けたことと、神様のみ言葉を愛する者として頂いたことです。」と答えたそうです。
私たちも本当にこの年、いつ主がおいでになるかわからないこの時に、神様の恵みによって、このような生涯を送りたいものです。
主の弟子ペテロはイエス様が十字架にかかる前夜、「そんな人は知らない」(マタイ26:74)と三度も拒みました。ペテロはイエス様の言葉を思い出して、激しく泣きました。私たちも何と意気地のない、弱い人間でしょうか。自分の力でやろうとするときに必ず失敗します。自分の弱さを深く悟り、真剣に祈り、聖霊の力に満たされましょう。

《主の愛を知る》2018年2月18日 渡邊泰範牧師  

ローマ人への手紙5章8節

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

<はじめに>
 主のご愛を知った時、クリスチャンは喜びが与えられ、姿も顔もキリストのように変貌して行きます。主なる神の愛は、十字架上で深く注がれました。私たちが罪人であったときでさえ、キリストは私たちの罪のために、死んでくださったのです。

1、クリスチャンの喜び

 クリスチャンの喜びは罪が赦され、罪なきものとされた時、与えられるのです。罪なき者とされる恵みを、聖書はこのことを「義とされる」(ローマ4:3)と書いてあります。義認信仰と言います。
信仰によって神に義とされ、神と和らぎを得て、神と親しく交われば、当然、クリスチャンには喜びが湧いてきます。
神との和解からくる、「神に対して平和を得ている」(1節)恵みを体験しますと、クリスチャン生涯の最終的な恵み、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」(2節)と、クリスチャンに与えられる三つの喜びに与かります。

2、三重の喜び

1)神の栄光にあずかる希望を喜ぶ
「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」(ローマ5:2)
 小島伊助師は「『今立っている、神の栄光にあずかる希望』とは、『聖化』の恵みです。『キリスト者は神により全く新しく生まれさせられたばかりでなく、主のご再臨(キリストがもう一度来られる事)を待ち望む、新生に生きる姿でなければならない。』」と言っています。
 私たちの霊的祝福のすべては、キリストの十字架と復活にかかっています。
罪が赦されるということは、過去の一切の罪を棒引きして頂くことです。義とされる事とは、罪を犯さなかった以前に戻していただき、無罪と宣告されることです。
キリスト者は、『私の罪のために、イエスは十字架で死んでくださった。』と、信ずることによって、義とされ、罪が赦された者となったのです。

2)患難をも喜ぶ 5:3〜10               
「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。」(ローマ5:3) クリスチャンに患難は付きものです。キリスト者が信仰を持ってこの世で生きるとき、患難に会うことをキリストが愛する弟子たちに告げています。
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)
キリスト者は神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいるだけでなく、現在の苦難さえも喜ぶのです。

3)神を喜ぶ
「そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」(ローマ5:11)
 ついに、「そればかりではなく」と、勝ち誇るキリスト者の三重の喜びの頂点は「神を喜ぶ」ことです。
未来における神の栄光を喜ぶだけでなく、現在、神ご自身を喜ぶのです。「主を喜ぶことはあながたの力です」(ネヘミヤ8:10)

《すべての人を照らす光》2018年2月11日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ1:1〜13

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:4)

<はじめに>
 イエス・キリストは人々の光としてこの世に来られました。キリストの弟子ヨハネは『光』を福音のテーマとしてイエス・キリストを描きました。それ故、光であるキリストを繰り返し語りました。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

1、啓示の光

 キリストの来臨は、私たちに神を現わし啓示するためでした。
「わたしは・・です。」と、イエス・キリストが宣言することばは、ヨハネ福音書には七つあります。それはイエスが神であることを現わしています。
 昔、神がモーセに語られた時、「神はモーセに仰せられた。わたしは、『わたしはある』(エゴー・エイミ;Iam that I am.)という者である。」(出 エジプト3:14)と、ご自分のことを言われました。神は自己存在者、永遠の存在者であるという事です。
神は唯一であり、創造主であり、神への畏れを強くもっているイスラエル人の中で、『わたしは、世の光です。』とは、驚くべき宣言でした。
 光というのは、“火の柱、雲の柱”でエジプトを脱出したイスラエル人を導いたという、神の臨在を象徴するものでした。
 
2、暗きに打ち勝つ光

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)
 闇の力といえども、まことの光を消すことは出来ないのです。闇の中にいる者に光を与えられたイエスの御業がヨハネの福音書に二つ記されています。
 一つは罪が赦された姦淫の女性(8章)、開眼された盲人(9章)。姦淫の話しは二重の意味で人間の暗黒を表しています。
 一つはイエスと女性を訴えている群衆。彼らは自分の罪を棚にあげて、訴えることしかしない。
もう一つは罪を犯したその女性です。自分の罪を白日のもとに照らされて、身のおきどころのない人。
 「イエスは言われた。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
訴えた群衆は離れ去ったが、残された彼女はイエスに罪を赦された。

3、いのちを与える光

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:4)
 光であるイエスは人に命を与えるのです。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)このみことばは神が自然の中にご自分がおられることを教えています。
 これらはお百姓などには尊い恵みを教えているが、人々の救いの光となって来られたキリストは霊的ないのちであることを教えています。
 それは主イエスを信じることによって与えられます。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
 私たちの魂に与えられるいのちは永遠の命です。『神の子』とするいのちです。
(2017.12.20東京若枝教会祈祷会 飯狃嗟宰匯侫瓮奪察璽戸彁櫃茲蝓

《天国に至る道》2018年2月4日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる福音書14:1〜9

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネ14:6)

<はじめに>
 主なるイエスは自ら、『道であり、真理であり、いのちなのです。』と、言われました。この道とは聖人、君子の模範者ではありません。
道であるイエス様は天国への道であることを示されました。「イエス様によらなければ、誰も天国に入れない。」と言われました。
 主イエスは私たちの罪の贖いのため、十字架で殺されるイエスの体と流される血によらなければ、私たちの罪は赦されず、天国に入れないのです。

1.弟子たちに「心を騒がせるな」と言われる

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)
イエスは弟子たちの心には恐れ、不安、心配が満ちているのを知っていましたので、心を騒がすなと言われたのです。
弟子の一人、シモン・ペテロがイエスに問いました。「主よ。どこにおいでになるのですか。」と、そこでイエスは十字架への道に進むことを話されたのです。
「イエスは答えられた。『わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。』」(ヨハネ13:36)
「イエス様はどこに行ってしまうのだろう」と、イエス様と別れる事は不安でした。どんなに信仰の篤い人でも、悩みはあるのです。私たちにも、突如、宣告される病など試練はやって来ます。
そのような時に、どうしたらイエス様の言われる様に、私たちは心を騒がせないでいることが出来るのでしょうか。
イエス様は「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われます。天地を創造された神様は、私たちのために独り子・イエス様さえも惜しまず、この地上にお遣わしになった、愛の神様です。この神様を信じ、お頼りすることです。
 イエス様の十字架を見上げる時、「あなたの蒔いてきた罪のために、イエス様は十字架に架かって血を流し、いのちを捨てて下さった。」と言われるのです。そのイエス様を信じる時、罪の赦し、罪からの救い、心の平安が与えられるのです。

2、私たちの望み、天にある住居(すまい)

イエス様が『わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。』(2)と言われました。
イエス様は、天国という所がどういう所かと説明するために、『わたしの父の家』といわれました。神が備えられた天国とはホーム、家庭であります。イエス様のお父様の家です。何という暖かい家なのでしょうか。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(3)
イエス・キリストの救いに与った者は、地上の生涯は旅です。地上の生活は仮住まいです。
主が供えられた、私たちの行くべきところは天国です。天のお父様のおられる所です。
この事が分かったら何と喜びに満たされることでしょうか。心に恵みと平安が与えられます。

《十字架を誇る》2018年1月28日 渡邊泰範牧師  

ガラテヤ6:11〜18

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ人への手紙6章14)

<はじめに>
 人は誰でも、新しく生まれ変わりたいものです。聖書は人の魂に神との平和が訪れる時、神との交じわりが快復されることを教えています。私たちの罪のために、十字架につけられ、殺された、主なるイエス・キリストを救い主として受け入れる時、人は新しく造り変えられるのです。

1、神との和解から生まれる神のいのち

人は神との和解が出来て、神との隔てが取り除かれた時、全能の創造主、父なる神の生命(いのち)が聖霊によって、たましいの中に注がれてきます。 
救いとは神との正しい関係に入ることです。
キリストの使徒パウロはそのことを述べています。
「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(競灰螢鵐反佑悗亮蟷罍機В横亜腺横院

私は18の時、洗礼を勧められた時、クリスチャンになることを恐れて、洗礼を躊躇したのです。ところがその晩、主は夢に顕れたのです。
主は言われた。「クリスチャンになることは難しいことではない。ただ主の十字架を自分の罪の赦しとして、受け入れ、神と和解しなさい」と、このコリント人への第二の手紙のお言葉が心に明確に臨んだのです。そしてキリストの救いを受け入れたのです。

2、主の十字架を信じた者が新しく造られた者

パウロは「新創造の恵み」(新しく造り変えられること。新生の恵み)を語る前に、人が新しく造られること、すなわち、新生の土台は主イエス・キリストの十字架である事を強調しています。
新生といえば、イエスとニコデモとの対談を思い出します。彼ほどの人物(サンヘドリンの議員)でもこの新生がなければ、神の国のことは何もわからず、神の国に入る事は出来ないのです。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)とイエスは言われた。
「イエスの十字架を信じる者が・・永遠のいのちを持つためである。」と、ニコデモに諭されました。

3.十字架を信じた結果

信じた結果、新生の恵みに与かった者には、明確な結果と歩みが伴います。
新創造の法則に従っての生活である。死してよみがえった主が、心の内に住まわれ、キリストのかたち成ることこそ、新創造のみ業であります。 
「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)

十字架によって罪赦された者は世的な者、肉的な者は私たちの罪と同様に、十字架につけられ死んだのです。私たちはキリストに在って新しく造られた者です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(競灰螢鵐硲機В隠掘

《神と共に歩むエノク》2018年1月21日 渡邊泰範牧師  

創世記5:21〜24、ヘブル11:5〜6

「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:22、24)

<はじめに>
 主の救いに与かって以来、エノクの信仰を慕い求めました。何故なら、エノクは神と共に歩んで、死を見ないで転に移されたからです。
「彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)♪ひと足ひと足 主にすがりて ・・日々主と歩む秘訣を学びましょう。

1、エノクは雑踏の中に神と共に歩んだ

小島伊助師は「臨在信仰は聖霊の賜物です。」と、いわれました。エノクの信仰をとおして、日々の雑踏の中に生きる私たちも、きよい生涯の秘訣を学ぶことが出来ます。
 エノクは罪がはびこる環境であっても、神の御前に、神を第一として、神に喜ばれる生活を日々送りました。
生ける神さまはいつも私の側近くおられる。神さまは私たちの願い、祈り、日々の業に報いてくださることを信じたのです。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)
エノクは人の評価よりも、神が報いて下さると信じ、神にいつも目を留めたのです。

2、神と共に歩んだエノクの生涯の転機

エノクは死を見ないで、天に「移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)
聖書は神に近づく者は神の存在(臨在:神がいますこと、神の聖顔(みかお))を信じていると書かれています。エノクは神がいるという、神の臨在信仰をどこで体験したのでしょうか。
エノクは65歳になってメトセラが誕生した時、魂が覚醒され、神と共に歩んだのです。
神がエノクに啓示されたことがユダ書に記されています。
「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。 すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。』」(ユダの手紙14〜15)
この聖句から、来るべき世について、エノクは神のおごそかな警告を聞き、預言しています。「すべての者にさばきを行う。」という警告です。
家内を育てた荒木典治さんは受洗には至りませんが、アダムの系図を丁寧に書き残しました。その系図を紐解(ひもと)いて行きますと、メトセラが亡くなった直後にノアの洪水が起きています。メトセラの名前の意味、「彼が死んでからそれが送られるとの意味です」が成就したのです。
 エノクが天に移された如く、私たちもキリストの救い(十字架の贖罪)に与かる時、罪が赦され、天に携えあげられる日(主の再臨)が約束されています。

《おもい煩うな》2018年1月14日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書6章24〜34節

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

<はじめに>
 主イエスは「自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(27)だから、自分のいのちの事で、心配するなと言われます。又、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、体のことで、何を着ようかと心配したりしてはいけませんと言われます。
「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(32)
 私たちの愛する天のお父様は、いのちのこと、食べること、飲むこと、体のこと、着物のことの必要を知っています。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」 "But seek first the kingdom of God and His righteousness, and all these things shall be added to you.”(nkjv)と、主イエスは言われます。

1、私たちの生活の優先権の頂上は神の国

 主イエスは「食物は不必要である」とは言っておりません。食物より優先するものはいのち、衣服より優先するものは体を述べております。
 空の鳥や野の草より優先するものは人間であると述べております。
 イエスの弟子たる者(クリスチャン)は、あらゆる価値に対して、優先権の頂上は神の国を認めなければなりません。
私たちは父なる神から離れて、神なき人生を送っていたのです。神は聖なる方ですから、神と親しく交わるために、父なる神は救い主イエス・キリストを遣わされたのです。
主イエスは私たちの罪を赦すために、私たちの身代わりとなって、十字架にかかって死なれたのです。 そして、私たちが死んでも天国(神の国)に行くために、三日目に主イエスは私たちの初穂として、死から甦(よみがえ)られたのです。
私たちがクリスチャンとなって、天国の民となるには、十字架は私の罪のためと、悔い改めて、主イエスの救いを信じ、受け入れることです。
「義人は信仰によって生きる」(ロマ1:17)
と書いてあるとおりです。
主の救いは決して、行いによらず神の恵みにより、信仰によっ救われるのです。

2、神の国の優先を保持し続けるための支払うべき代価

 1)他の事物を神の国に優先させることは、最も多く見られる人生の悲劇です。
 2)神の国を他の一切の事物に優先させることは、人生において最大の必要事です。
 3)事物を神の国に関係づけて解決することは、人間の最大の勝利です。
「神の国」を第一にしておられる生活をしていますか。神の主権を受け入れるとは、絶えずキリストを第一にすることです。
日々の生活において神を第一にすることです。それは礼拝の生涯に現れます。日常生活において、キリストを主として崇める生活を送ることです。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがないそれゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16:8〜9)

《主の業に励みなさい》2018年1月7日 渡邊泰範牧師  

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「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(汽灰螢鵐 15:58)

<はじめに>
 主の再臨は救いが完成する時です。主の救いに与った死人は二度と死なない、朽ちないものに甦り(栄化)、生きて残れる私たちは主と共に、空中に携え上げられ、いつまでも主と共にいるのです。主の再臨は私たちにとって、大いなる望みです。
その日を待ち望む私たちは、地上に残された生涯がどんなに苦しいことがあっても、耐え忍ぶことが出来ます。主にあって、労苦した奉仕が、再臨の日に報われる時だからです。
 
「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:21)
主からこのお褒めのおことばを頂けたらどんなに喜びでしょうか。そのことを覚えて、主のご奉仕に励まさせて頂きたいものです。

1、福音の真髄を再び伝えるパウロ

使徒パウロは、コリント教会に対して、伝えた福音を再び、述べています。
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」(汽灰螢鵐硲隠機В魁腺粥
パウロは自信をもって、この福音とは最後の復活(主に在って死んだ者が甦ること)、栄化(二度と死なない体に変えられること)、永遠の祝福(永遠の命、神の国、天国)に迎え入れられる事を述べています。

2、主の業に励みなさい

「いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(汽灰螢鵐硲隠機В毅検
私たちにはこのような大きな望みがあります。主が再びお出でになった時(再臨)、主にある奉仕は、一つも無駄にならないのです。主の業に励みましょう。

3、労苦への主のご愛(証し)

 若きとき、一人の人を主の愛に動かされて、毎晩のように労した。遠い会社から帰ってきて、眠りにつくと、電話が鳴る。「助けてくれ!」と、自暴自棄に陥った彼は誰にも相手にされず、酔いつぶれて、呼び求めて来る。
 「すぐ行くよ!今、どこにいるの?」私は直ぐ、起きて現場に向かい、介抱に向かった。
 彼の悩みを聞き、家に帰す日々が長く続いた。ある晩、
又、電話のベルが鳴った。「すぐ行くよ!今、どこにいるの?」と言って、私は主に祈った。
「主よ!私は疲れています。助けて下さい。」と、主に呼びかけた。
愛する生ける主は、即座に「あなたの主に在る労苦は決して無駄にならない。報われる。」と、祈りの応えを頂いた。 主より、労苦(奉仕)への力を頂き、疲れもとんで、介抱に向かった。
そばで、寝ていた順子(2歳)が私を憐れんで、「お父さん今日も行くの!」と、慰めてくれた。彼はいのちも危ぶまれたが、主のご愛の介入により、救われた。

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