東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ
2018年 2017年 2016年

■中川伝道所メッセージ
2018年 2017年 2016年

《愛すところに神あり》2018年8月5日 渡邊泰範牧師  

マタイ25:31〜46

「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:40)

 トルストイというロシアの作家が書いた小さな物語があります。「靴屋のマルチン」という絵本として伝わっています。このストーリーの本当のタイトルは、『愛のあるところに神もある』という題です。

1、神は愛ある行動の中におられる

 『靴屋のマルチン』のストーリーの一部を紹介します。心温まるお話しですが、これはマタイの福音書25章を題材にした物語です。

 私たちは神に出会いたいと願います。しかし私たちが愛の行動を取るとき、そこに神がおられるのです。今週は神の声を聞き、神がおられる場所に足を向けていきたいと願います。

 靴屋のマルチンはひとりぼっちで淋しく住んでいました。彼の最愛の妻は病気のため早くに死んでしまいました。それからは残された一人の息子とふたりで生活していました。ところが、その息子も病気のために死んでしまったのです。マルチンは何のために生きているのか生きる望みもありませんでした。

2、『靴屋のマルチン』に出てくるストーリー

 ある日いつものようにマルチンが仕事をしていると、旅を続けている老人に会いました。マルチンはこの老人に自分の受けた不幸を話したところ、老人はマルチンの話を泣きながら聞いてくれました。
そして、「それでも神様はあなたのことをご存じですよ」と言いながら、聖書を一冊残して、「これを毎日読み、神様にお祈りするといい」と教えてくれました。

 マルチンはそれから一生懸命に、神様のことを考え、聖書を毎日読んで「神様がもし本当におられるのでしたら、私の所に来てください」と祈るようになりました。

 「マルチン、マルチン。明日、通りをよく見ていなさい。お前の所に行くからね。」マルチンは目をこすって、驚いて立ち上がりました。

 翌朝通りをよく見てみると、通りの雪かきをするステパノじいさんが寒そうに歩いて来ましたので、温かい紅茶とクッキーを出してあげました。しばらくすると、赤ちゃんを抱いた女の人が、この寒さの中、オーバーも着ないで町を歩いていました。

 それを見てマルチンは大急ぎで声を掛け、二人を家の中に入れて、暖炉の側に座らせました。「暖まったら赤ちゃんにお乳を飲ませなさい」と声を掛け、台所に行って朝からお客さん用に準備をしたパンとシチューを食べさせました。そしてマルチンは自分が持っているオーバーをその人にそっと着せてあげました。

 ストーリーは、この他に、重そうな籠を持ったりんご売りのお婆さんから、見窄らしい少年にりんごを盗まれた話しが出てきます。そして、おばあさんに、「赦してあげなさいよ。もう二度としないだろうから。」と話して、あげました。少年にはリンゴを差し上げました。

 こうしてマルチンがこの日に成した愛の行いは『これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』と、諭され喜びに満たされました。
私たちも主の愛に倣いたい。

《我すでに世に勝てり》2018年7月28日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ16:25〜33

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

<はじめに>
 主は十字架にかかる直前、愛する弟子たちに、迫り来る迫害、殉教を預言する。教会の歴史は戦いの場でありました。しかし、主はすでに世に勝っていると、励まされる。この世とは「自然界」を指すのではなく、「神に反抗する傲慢な人間世界」の事です。

1、主が預言された弟子たちに臨む戦い

主は十字架にかかる直前、残された弟子たちに迫害が臨んだ時、つまずくことなく、この世にあって敗北せず、勝利するために、語られたのです。
「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。
彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。・・これらのことをあなたがたに話したのは、その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」(ヨハネ16:2〜4)
 神を無視したこの世の精神とキリストの精神との間に戦いは避けられません。主イエスはそのことを教えております。
「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)
いつの時代にも、教会やクリスチャンに対して、いろいろな批評がなされますが、多くの場合、それは根拠のないものです。

2、弟子たちを慰める聖霊の働き

 主イエスは十字架で死ぬが三日目に復活すると、約束されました。そして、教会と信ずる者に注がれる助け主、聖霊の働きについて、弟子たちに語り、慰められました。
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、 さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(ヨハネ16:7〜8)
「主イエスの十字架は私の罪を赦すために死んだのだ。」と、主の救いを受け入れた者に与えられる聖霊は「真理の御霊」です。イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)

3、世にあるクリスチャンの勝利

 主イエスは世に残る弟子たちに「世にあっては患難がある」しかし、「主イエスにあって平安なのです。」と告げられました。そして主は「わたしはすでに世に勝っている。」と、弟子たちを勇気づけられました。

《主の要請に応える》2018年7月22日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書9:35〜38

「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」(マタイ9:36)

<はじめに>
 病院に行きますと、体が弱っている以上に、魂が疲れ、望みなき人生に倒れている人を見ます。主の深き憐みのみ言葉を想い出します。『収穫は多いが、働き手が少ない。』お互い、主の働き手として、主のご要請に応えていきたい。

1.主の深き憐れみ

 口語訳聖書では、「弱り果てて、倒れているのをごらんになって、『彼らを深くあわれまれた。』」と、記されています。「あわれまれた」と、訳されたギリシア語は、スプランクニスサイスで腹の底から憐れみを表す、一番強い言葉です。

 イエスは心の奥底からあわれみ同情されたのです。神の子であり、人となられた、イエスの愛、伝道の働きがここに表されています。

「弱り果てて」と、訳されている言葉はエスキュルメノイで皮を剥がされ、ずたずたに切られた死体や、果てしない旅を続けて、疲労のあまり歩けなくなった人などに表される言葉です。

「倒れている」と、訳されている言葉はエリメノイで「打ちのめされている」という意味です。

 主イエスは、人々が群がるガリラヤの町々や村々を巡り歩かれた時、強く心が痛みました。神さまから離れている群衆は、丁度、羊飼いから離れて道に迷っている羊のように見えたのです。

 聖書は救い主イエスさまを羊飼いに、私たちを羊に譬えています。
羊は羊飼いなる牧者がいてこそ、危険や災害から守られ、牧草地に導かれるのです。羊なる群衆が、『群衆を見て深くあわれまれた。』と表されていますが、呼吸が荒くなり、気が遠くなって地に倒れていることを意味します。それはもう一歩も歩くことが出来ないない状態を表しています。私たちもまた主のように、このような人々を見て憐れみ、とりなしの祈りをささげ、主のご愛に応えていきたいものです。

2、主のご要請、働き人が少ない

 私たちの周囲を見るとき、今も変わらず、多くの人々が心の病、人との関係、さまざまな家庭問題、仕事の問題などで心が悩み、傷つき、独りで、悲しまれています。主は、主の救いに与った者に呼びかけています。

『収穫は多いが、働き手が少ない。』と、主は言われます。私がこの主の細きみ言葉を聴いたのは、慈恵医科大学付属青砥病院(現、東京慈恵会医科大学葛飾医療センター)の待合室でした。患者の姿を見て、主のお言葉が臨んだのです。
25歳の時でした。主のご要請に応えて半年間、祈り待ち望んで、本郷善次郎師ご夫妻にお話をしました。先生は丁寧に導かれた。出来たら柴又キリスト教会に留まって頂きたいと、言われましたので従いました。
柴又キリスト教会で、会社に働きながら35年間、教会献身をしました。

59歳になって、ペテロの如く、再召命を受けて、会社を辞め、塩屋の関西聖書神学校に入学しました。どうか私たちは主のご要請に応えていきましょう。
一人の人が主の救いに与かることを覚えれば、最善を尽くして働き人を送り出し、自らも主に応えて、自らの負うべき十字架を負って、お従いして行きましょう。

《良き地に落ちし種》2018年7月15日 渡邊泰範牧師  

ルカによる福音書8章1〜15節

「また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」(ルカ8:8)

<はじめに>
 先週の火曜日、7月10日滋賀(琵琶湖)の地で、親友・岡田邦夫牧師がエノクのように天に移された。故人略歴を思い返す時、岡田先生は神さまのしもべとして、主なる神のみ言葉を忠実に語り、勤勉に労されたと述懐しました。また、神のみ言葉を聞いた人たちは子供のように素直に受け入れてキリストの救いに与かりました。
北大阪豊中泉教会で行われた前夜式、告別式の帰り道、今朝のメッセージ、『良き地に落ちし種』が導かれました。

「良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(ルカ8:11)

式辞を述べられた、岡田邦夫先生のご長男、岡田宣道牧師はこのイエスさまの種を蒔く人のたとえを裏付けるように、四つの豊中泉教会、宝塚泉教会、箕面泉教会、三田泉教会を開拓し、会堂を建て上げた主の業を語られた。

 「『周りは、岡田邦夫先生は素晴らしい。』と云うが、初任地、豊中泉教会の人にはエネルギーがあった。私はただ、方向付けをしただけです。」と、父、邦夫先生の見解を語られました。

1、岡田邦夫先生に蒔かれたみ言葉と歩み

 私は岡田邦夫先生と高校時代、同じクラスであった。共に素直に化学実験を行い、良く学んだ。温和しく優しい人で、絶えず行動を共にした。
 帰りも、彼はお花茶屋駅で降り、私は高砂駅なので一緒に帰ったこともあった。
 私が高校3年の時、初めてキリスト教の講演会(カナダ・トロント・ピープルチャーチのオズワルド・Jスミス師)に出席した時も彼を誘った。
そして、就職した信越化学工業中央研究所の職場も同じであった。
私は柴又キリスト教会に導かれ、18歳の時、矢切の渡しで洗礼を受けた。キリストにある喜びに満たされたので、岡田邦夫先生に職場で伝道した。
 在る時、彼を柴又キリスト教会の秋の特別集会に誘った。彼に嫌われても良いから、誘ったところ、彼はその集会に来られた。
その晩、彼はキリストの救いを受け入れた。
つかさず、本郷先生の奥様が、「あなたは神の子になった。」と、ヨハネ1章12節のお言葉を与えた。
 彼は素直に信じて、クリスチャンになった。それから、或る日、会社の帰り道、人身事故に(京浜東北線大森駅と大井町駅の間)遭遇した。
生ける神を知らないで、死んでゆく姿を見て、キリストの福音を宣べ伝えたいと、生涯を神に捧げた。献身して東京聖書学院に入学した。
彼は素直で、神への従順な人なので、彼の生涯が祝福されることを信じ、祈り、すべてを神のみ旨に委ねた。21歳頃であったか、夕陽を受けながら中川土手で、二人で語り合い、祈ったことを想い出した。

2、み言葉を聞く人への警告と語る人への励まし

 み言葉の種を蒔く人の譬えは、福音を聞いた人に警告を与えるが、福音を語る人に励ましを与えてくれます。
 時が悪くても、どんな困難な地でも、み言葉の種を蒔き続けましょう。必ず収穫が与えられます。

《末の世に対する警戒》2018年7月8日 渡邊泰範牧師  

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「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
(競謄皀藤魁В隠押

<はじめに>
 テモテはパウロによって生み出され、共に働きエペソに遣わされ最初の監督となった。エペソ教会は外には信者の迫害があり、内には背信があり異端があった。柔和、従順、忠実なテモテにとって、教会を治めるには困難があった。
そこでパウロは殉教直前の紀元68年、愛する子テモテを勇気づけ、励ました。
牧会書簡(教会を治める道)として、テモテ後書3章では末の世、終わりの日に対する警戒と迫害を覚悟するように促しました。
パウロは紀元68年6月ローマ市街で首を切られ殉教している。
私たちも目には見えない生ける神を敬い、生ける神を見るように愛する生涯にも、世の反対勢力の迫害はつきものです。十分、警戒したい。

1、末の世、終わりの日の世の状態

「3:1 終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。3:2 そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。3:3 また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、3:4 人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、」(競謄皀藤魁В院腺粥

 終わりの日は困難な時代です。(1)とにかく世の末に至って、真の暗黒となり、目を覚ましていなければ困難で危険な時代です。
『そのときに人々は、自分だけを愛し』(2)これだけで人間の真相を知るには十分です。見事に人の心の様子を写し出しています。
 自分が中心となり、自分が偶像となり、神をも人をも愛せないのです。キリストの血潮で聖められていない所は、たとえその表面はどんなに飾っても、仮にそこに慈善という看板があっても、実際は自分を愛し、誉れを得るためだけの事です。
 『情け知らずで、人と和解せず』(3)ただ苦しめる者で、貧しい者を見ても憐れみの情けがありません。『神よりも快楽を愛する者になり』(4)人を本当に楽しませるものは、神と共に過ごすことです。

2、敬虔に生きようとするクリスチャンの覚悟

 「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(競謄皀藤魁В隠押
 パウロは今まで自分の手本を示して、テモテにしっかりと真理の道を教え、生き方(歩み)、神により頼む信仰を示しました。
『しかしあなたは、私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に』(10)
 パウロは真理の道を教えるだけでなく、終わりの時代には、神を敬い、キリストの救いに生きる者は、『迫害を受けることを覚悟せよ』と、テモテだけでなく、私たちにも述べているのです。

 私たちは既に、イエス・キリストの救いに与かる時、両親、兄弟、友人、近所、会社の人たちから反対に遭って来た方も多いことでしょう。
『私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない』(使徒14:22)と、記されています。正しい事のために、責められる患難があります。

《神の国は王の披露宴の如し》2018年7月1日 渡邊泰範牧師  

マタイ22:1〜14

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(マタイ22:14)

<はじめに>
 先日高砂地区センターで行われた一流演奏者によるチャリテイー・コンサートに多くの人にお便りし、チラシを配布して招いた。様々な事情を乗り越えて来られた方々に歓迎の挨拶をしている時、ふと冒頭のみ言葉が導かれた。主なるイエス様は、“神の国を、王の披露宴”にたとえられました。愛なる主は多くの人を招いておるのです。

1、神の国は王の披露宴の如し

 王の披露宴に譬えられたのはクリスチャン生涯が特別素晴らしい者であることを示しています。

 主なる神のみ国への招きは、喜びと交わりへの招きです。憂鬱と孤独への招きではありません。奉仕と労苦、厳しい規律、人間を縛る規則というとらえ方でクリスチャン生涯を考えているとしたら、大切な点を見落としています。

クリスチャン生涯は、本当の意味での内的な喜びと平和、自由、思いがけない神よりの導き(経験)と勝利の生涯です。

主のお招きは、民族、肌の色、立場、能力などに関係なくすべての人に与えられています。
神様はすべての使者、聖徒を通して、何度も男女のかかわりなくすべての人を神の国の結婚披露宴に招いております。
父なる神は、宴会場を万堂にして、神の御子イエス・キリストに栄光が帰せられるように、堅い決意をもって臨んでおられます。

2、婚宴に招かれる私たちが逃してしまう警告

 「ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、」(22:5)

 私たちは神の国の祝福の宴会を逃す危険があります。第一の警告は、様々なことに心が奪われて、主の招きを受け損なうことがあります。

 田舎の人たちは農場の作業であまりに忙しく、面倒な毎日の仕事に追われ、霊的なことに使う時間はありません。

 都会の人たちは仕事にのめりこみ、神の国のために使う時間はありません。生計を立てることにあまりに忙しすぎて、神より与えられたいのちに生きることを忘れています。

 また、子供の教育のことで一杯になり、日常生活を優先して、どう生きるか忘れています。
第二の警告は、招きを受け入れて、披露宴に参加する方法の問題です。

 「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。」
(22:11〜12)

 私たちは結婚式に相応(ふさわ)しい服装を着て行かなければなりません。相応しい服装とはキリストの義(キリストの救いを受け入れて罪が赦されている事)なる衣です。

 もし私たちが自分自身の功績に頼り、自分自身の善行に頼って、己を義としているならば、私たちは神の国の候補生になれません。
 謙遜な心をもって神に近づき、神様を全面的に信頼して、神様の義を受け入れなければなりません。
 その義は、釘を刺し通された御手によって与えられるのです。無代価の賜物です。

《主のご愛に応える》2018年6月24日 渡邊泰範牧師  

マタイ16:21〜28

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:25)

<はじめに>
 何という逆説でしょうか。実に不思議な表現です。自分の命を失うことによって持つことになり、持つことによって失うことになる。しかしこれは実にその通りです。いつでも自分のためにのみ物を得、自分の楽しみのためにのみ生きることは、本当の意味で生きることにつながらないことを主を知らない人も知っています。

 自分自身を与えること、主イエスに捧げることこそ、真に生きることを可能にするものです。自分の思いで決めるのではなく、自分のいのちを主にお委ねし、お任せすることです。そのように、『自分のいのちを失うことによって、いのちを見いだすのです。』
本当に生きる唯一の道は、主イエス・キリストに自分を捧げて、神の下僕(しもべ)になることです。

1、主の弟子としての条件“自分の十字架を負え”

 「それからイエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』」(マタイ16:24)

 キリストに従いたい者は自分を捨て、自分の十字架を負いなさいと勧められています。この意味における自分の十字架とは、神のみ旨(むね)を遂行するために苦しみ、神と人とのために犠牲になることです。

 もっと分かりやすく言えば、自分の十字架を負うということは、これが正しい道だと思われる道を行き、あなたに負わされるものは何でも負うことです。自分自身の重荷を、自分の都合で持ったり持たなかったりもしないことです。

 人にはおのおの負うべき「自分の十字架」があります。自分の十字架と他人の十字架とは異なりますが、神は一人一人に丁度、相応しい十字架を授けて下さいます。

 主イエスは馬槽(まぶね)の中からカルバリまで、生涯父なる神のみ旨に従い通しました。主に従う者は、自分の十字架を避けてはならないことをイエスは愛する弟子ペテロに示されたのです。

2、賛美歌♪“主はいのちを与えませり”の誕生秘話

この詩はフランシス・ハヴァーガルがクラシックのピアニストとして、また美しい声の持ち主であり、コンサートの独唱者として、もてはやされる人でしたがその音楽の才能、すべてを主にささげて、“主のご愛に応えた”時、誕生した讃美歌です。

♪“主私はあなたに私の命を与えました。私の貴い血を流したのは、あなたが贖われ、死から甦るためなのです。私はあなたのために私の命を与えました。本当に与えたのです。あなたは私のために何を捧げましたか”
(讃美歌332番1節)

この詩はドイツのデユッセルドルフの美術館にシュタンバーグという画家の「エッケ・ホモ」(この人を見よ)という絵を見て、彼女が21歳の時、感動して、この歌を作られたと言われています。

《神よりの助け》2018年6月17日 渡邊泰範牧師  

詩篇121篇 1〜8節

「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(詩篇121:2節)

<はじめに>
 詩篇121篇は「讃美歌」や「聖歌」にも歌われ、多くの人に親しまれてきました。私は旅に出る度に、「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。」と、玄関先でお祈りします。私たちが旅行に出る時も帰る時も、一切の生活状態を神は護り給うお方様です。

 ユダヤ人は毎年エルサレムの神殿に礼拝に出かける時、その道すがらこれらの詩篇を歌ったのです。
今日、この地上の旅を天国への巡礼者として歩んでいる私たちクリスチャンに当てはめてこの詩を味わう時、言い表すことの出来ない力強いものを感じさせられます。

1、天地の創造者がわが助け

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」(1節)
詩人は懐かしいシオンの山を見上げて、心の中から込み上げるような思いで、天地を造られたイスラエルの神に思いをはせ、歌ったのでしょう。
この山とは神殿の建っていたモリヤの山、又は聖きシオンの山を指したと、云われています。これらの山は神のご臨在を示してきました。
 「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(2節)

 巡礼の途上における、険しい小径や淵や谷間、野獣や盗賊の潜む山々を越えての旅は、不安や恐れがありました。
しかし、この天地の創造者、大能の神、しかも小さな弱い者らを懇ろに守り、顧み恵みたもうヤーウエ(ヘブル語の神の名前;助け給う、父なる神をあらわす。)の神を見上げる時、偉大な信仰が湧き上がって来て、まさに「私の助け」は「天地を造られた主から来る」と、賛美したのです。

2.まどろむ事なく守る神

「主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。」(3節)
私たちが困難や危険に遭遇する時、神は私たちを益とするため、善に導くため必要な悩みを与える時があります。しかし、決して私たちを全く害うことを、許し給わない神の守りをここで詩っています。

 教会を守られるお方はその同じ智恵と能力と約束とをもって、教会に属する一人一人を守られるのです。神はまどろむこともなく、寝ずの番をしてくださいます。私たちは無防備で眠り込むことがしばしばありますが、神は休むことなく守っていて下さるのです。

3、すべての災いより救いたもう神

「昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。主はすべてのわざわいからあなたを守りあなたのたましいを守られる。・・」(6〜8節)

“太陽も月も人類にとって大きな恵みです。しかし、砂漠地方では時に災禍をもたらします。昼の炎暑、夜の月の煌々たる光の反射は目を痛め、その眩しさに睡眠を妨げます。”(スポルジョン)その中にも神は我らに知恵を与え、その災いより救い、守って下さるのです。
神は特に我らの霊魂を保護して、罪と汚れと永遠の滅亡より守って下さるのです。

《わたしを探りたまえ》2018年6月10日 渡邊泰範牧師  

詩篇139篇1〜24節

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。」(詩篇139:24)

<はじめに>
 詩篇139篇はダビデの祈りです。C・Hスポルジョンはこの詩篇を「最も注目すべき聖なる詩」と呼んでいます。また、「この詩はサファイヤの宝石のように輝いています。」とも言っています。
詩篇139篇は神がすべての事を知っておられ、何処にでもご臨在して居られる、神の全知、神の遍在を記しています。
また、母の胎の中に人を創造したもう神の全能性が描かれています。詩人はここに、全知、遍在の神を理屈で知っている者ではなく、「私とあなた」との親しい関係を体験的に述べています。
ダビデは神に一部始終知られ、何処に行っても神のみ前、み顔(臨在)から逃れられないことを知り、この奇しき神に身を屈めて、心から礼拝して、「神よ、どうか、わたしを探って・・ください」(23口語訳)と祈っています。
詩人は諭されたように、全知、全能、偏在の主なる神の御手にゆだねて、「私をとこしえの道に導いてください。」(24節)と祈っています。
私たちもこのことを真に体験すれば、一層神を畏れる生涯を送り、また一層神に信頼して平安な生涯を送ることが出来ます。 
 
1、 神の全知

「主よあなたは私を探り知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。・・」(1−2節)

 私たちが信じる神は、私たちを完全に知り、私たちの思いも行為も皆ことごとく知り給うお方です。このことを私たち自身にあてはめ、神を仰ぎつつ、祈りの中に黙想するならば多大の恵みが得られます。
神は全知にして、凡ての事を知り、何処にも居られる真理を知っていても、その実際の効果が現れないのは、人々がこの真理を真剣に信じないからです。
神は私たちの心の奥底まで、見抜いているのです。
 「私たちは何処にあっても、神の御目と御手とは常に私たちの上にあるのです。・・そのような知識は私にとってあまりにも不思議あまりにも高くて及びもつきません。」(5−6節)
 これらのことを黙想することは、私たちがサタンの誘惑にあって罪を犯させようと、肉の働きが迫る時にも、
私たちを抑制させ、神に近づかせて下さるのです。

2、神の遍在

「私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。」(7節)

 7節から12節は神がどこにも居られることを示しています。神は霊なれば、私たちは神を見ることは出来ませんが、神は私たちを見ているのです。

8節に詩人は最も遠隔の場所を示して「たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」と言っています。
天において神と共に居る事は永遠の恵みであります。しかし、陰府(よみ)とは天と全然、反対の場所であって、ここにも主の目は届き、安息が得られる処ではありません。

《神に喜ばれる生活》2018年6月3日 渡邊泰範牧師  

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「こういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。」(第競灰螢鵐硲機В后 

<はじめに>
 私は先週の月曜より慈恵医科大葛飾医療センターで、検査手術(泌尿器科)のため3日間入院しました。術後のリスクは未だありますが、徐々に回復していくのを覚えて感謝です。手術は痛みを伴うものでしたが、そのリスクを覚悟して臨みましたので、かえって、主イエスの十字架上でのお苦しみを深く覚えました。
 イエスの十字架のお苦しみは私たちの罪を赦すために殺されてしまったのです。そのことを手術中想う中、今朝のメッセージが与えられました。
 私たちの肉体はテント(幕屋)のように旅ごとに移動し、やがて壊れて行く儚い一時的な住まいであることをこの度も教えられました。

1、見えないものに目を注ぐ

「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(競灰螢鵐硲粥В隠検

 今朝、お互いの人生にもやがて最後が来るということを覚えたいのです。地上での最後の時が来た時、「ああ良かった、私の人生は、本当に良かった。」という想いを持ちたいものです。

 キリストの救いを受けた者と受けない者との違いは、永遠の命をもっているか、いないかであります。神さまの最大の賜物は永遠の命です。それゆえ、神を知っている者と知らない者との、目的は当然違ってくるのです。

 何故なら、神を知らない時には目に見えるもの、即ちこの世の富、この世の名誉、この世の学問、この世の楽しみに目が注がれて来ました。しかし、全知、全能の神さまがわかってきますと、目に見えないものに目を注ぐようになります。それは目に見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。」
(競灰螢鵐硲機В院

 地上の肉体は幕屋です。肉体が朽ちると、神さまは私たちのために、永遠の住まいである、御国に召して下さるのです。
この地上の幕屋にあって、苦しみもだえていた体は二度と死なない、栄光の体に変えられるのです。

2、主に喜ばれる生活

 主の使徒、パウロは「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」と言っています。
これがクリスチャンの最高の目的だと信じます。パウロにとりまして、現在、生きていても「肉体から離れても」即ち、死んでも、ただ主に喜ばれる者になるのが心からの願いでありました。
やがて私たちは主イエス様にお会いします。神様より、永遠の栄光の報いがあるのです。

《わたしの恵みは十分》2018年5月27日 渡邊泰範牧師  

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「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』」(競灰螢鵐硲隠押В后

<はじめに>
 愛唱歌の一つに讃美歌「わが喜び、わが望み、わが命の君」(527番)があります。喜びの時、悲しみの時、この賛美をすると、神の臨在に満たされます。
この歌は私のクリスチャン生涯の証しの全てが濃縮されている想いで感無量です。
この1節の原歌の歌い出しは、“Oh thou in whose Presence my soul takes delight, on whom in affliction I call,・・”
「おお主よ、あなたの臨在のみ前で私の魂が歓喜に満たされます、悩みのときはあなたに呼びかけます。」と主のご臨在の喜びを賛美しています。

 父なる神の独り子、イエス・キリストが私たちの罪を赦すために、身代わりとなって、十字架に死んでくださいました。そして、私たちがそれを信じて、キリストの救いを受け入れる時、神の子となる大いなる恵みに与ります。

 キリストの救いに与かっても私たちは世にある間、天の御国に行くまでクリスチャンにも悩みはあるのです。その理由は私たちをキリストのように品性を整えるためなのです。

 私はこの賛美歌の如く、今日まで悩み苦しむたびに主に祈りました。愛する主はいつも、そばにいて祈りに応えて下さいました。
主はみ言葉をもって、鮮やかに臨んでくださいました。その主の親しき臨在に、いつも慰められ、この愛唱歌を主に賛美してきました。
今日の聖書のテキストは新約の大聖徒、パウロが“一つのとげ”を与えられた時、主に幾度も呼びかけました。
主のみ声は『わたしの恵みはあなたに十分である。る』(9)と応えられました。これはクリスチャンの勝れる恵みの体験であり、秘訣です。

1、パウロに与えられた“一つのとげ”のみ旨

『その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。』(7)
パウロは14年前、第三の天(神や天使のいるところ)にまで引き上げられ、神秘的な経験をしました。
神秘的経験者は神よりの啓示を誇りにし、過大評価されることを望みます。しかし、パウロは高慢にならないように、むしろへりくだって、肉体に“一つのとげ”が与えられたと、述べています。

2、私の恵みはあなたに十分である

 苦痛のパウロの願いに対して、主は『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』(9)と応えられました。
そこでパウロは主から与えられた、“一つのとげ”のみ旨を知り、『私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(12:9〜10)と、弱さを誇ることに転換したのです。これは、神を信ずる者がしばしば経験する真理であります。

《新生の恵み》2018年5月20日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ3:1〜21

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)

<はじめに>
 今日は聖霊降臨日(ペンテコステ;五旬節の日)地上に教会が誕生した日です。
主イエスは十字架に磔(はりつけ)される前夜、三位一体の聖霊なる神の事を、『もう一人の助け主』を父なる神はお与えくださると、弟子たちに約束されました。
『この方は真理の御霊です。』(ヨハネ14:17)
 人は真理なる聖霊に導かれなければ、私たちは生ける神を認めることも出来ず、神のみ前に罪を悔いて、キリストの救いに与かることも出来ません。

 イエスのもとに、夜、パリサイ人の一人で、ニコデモという名のユダヤ人の議員が訪ねてきました。旧約聖書に精通していた知識人、ニコデモと言えども、神に対して盲目でしたので、「神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」とイエスを敬いながらも、イエスを救い主として、まだ受け入れてないので、神に盲目でした。

 そこで、イエスはニコデモに「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
と言われました。
イエスは十字架の救いを信じて、受け入れないと、新生の恵みに与かれず、神の国に入れないことを諭しました。

1、新生の恵み(修業や努力によらず)

 夜、ニコデモがイエスに会いに来たことは、昼間来る勇気がなかったのです。
「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」(ヨハネ3:3節)

 主イエスの応えに対して、ニコデモは「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)と言います。

 ニコデモは「新しく生まれること」を知っていて当然でした。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」(エゼキエル11:19)
まだ聖霊の恵みに与かっていないので肉的な応えをされました。しかし、後にニコデモは十字架の下に立ちました。そして、アリマタヤのヨセフと共に、主のみ体を埋葬しました。

2、「新しく生まれる」とは信仰と水と聖霊による

「イエスは答えられた。「『まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。』」(ヨハネ3:5)

「新しく生まれる」とは、神の前に罪を悔い改め、キリストの救いを信じ、洗礼を受け、真のクリスチャンになる時、神の力、聖霊によって心と性質が全く変化させられることを意味します。
「水」とは、バプテスマのヨハネをもって代表される悔い改めと罪の赦しを意味する。悔い改めの源は律法ではなく、神の恵み、神の愛のうちにあるのです。
「御霊によって生まれる」とは、キリストを信じることにより、聖霊が注がれ、心に主が住まわれることです。

《信仰による義認そして神秘的結合》2018年5月13日 渡邊泰範牧師  

ガラテヤ2:15〜21

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:19〜20)

<はじめに>
 『義認』とは法廷から借用した法律用語です。断罪の正反対の用語です。「義と認める」とは誰かを無実である。あるいは正しいと宣言することです。
聖書では、それは神が私たち罪人をご自身との正しい関係に置かれること。何等の功(いさお)なくして、一方的に与えられる恵みの行為、つまり、神が私たちに無罪を宣言するだけでなく、私たちを受け入れ、正しい者として取り扱って下さることを意味します。
 聖書が告げている人間の真相は、正なる神と私たちの間にある亀裂です。私たちの良心と経験は知っているということ。すなわち、神の審判のもとにあるという事実です。

「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。」(競灰螢鵐硲供В隠粥
断罪された罪人がどうして義と認められるだろか」この重大な問いに対し、彼は信仰による義認(15〜16)を、さらにそれを論法する(17〜21)。

1、律法の行いによる義認

 「律法」は神の戒めの全体を意味し、「律法の行い」とはそれに従ってなされた行為です。ユダヤ人はこの方法で義と認められると考えた。
 彼らは次のように言う。「義と認められる唯一の道は、ただ熱心な行いである。すなわち律法の命じるすべての事を行い、禁じるすべての事を控えよ」。
 さらに続けて、モーセの十戒を守れ・・。あなたはこれらすべてをなし、失敗しなければ義と認められる。つまり神に受け入れられる。
 パウロは彼らユダヤ主義者の立場を「自分の義を立てようとしている。」(ロマ10:37)と描写しています。
 誰がこれらを守れるだろうか、守れると思うなら恐るべき欺きです。嘘つきです。
「悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。」(ヨハネ8:44)

2、信仰による義認

「神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20)
 キリストはこの世に来られ、唯一人、罪なき従順の生を送った。十字架上で、私たちの罪のために死なれた。
 私たちの律法違反の罪は死であるから、私たちに求められていることは、自分の罪と無力さを認め、自己中心の生き方を認めて、悔い、イエス・キリストに全面的に信頼することです。
 だから「イエス・キリストを信じる信仰」とは単なる知的確信ではなく、個人的な明け渡しです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。」(19)すなわち、私の自我はキリストと共に付けられています。キリストの死に、私の古い自分は合体し、共に死んでいます。キリストの死によって主と結合したからには、新しい命に甦っている私が、どうして古い生活に逆戻りできようか。
 小島伊助は、これを「自我の磔殺に基づく、聖霊の内住」といい、聖められた生涯の方程式と言った。
 (飯塚俊雄 牧師の祈祷会メッセージ要旨;2018.3.21)

《天を慕う生涯》2018年5月6日 渡邊泰範牧師  

ピリピ3:20、詩篇 73:25(新共同訳)

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)

<はじめに>
 主の救いに与かった者は、永遠の命が与えられ、天に国籍を与えられた者です。地上は旅人の生活一時的な住まい、寄留者です。主イエスが甦ったように、私たちも復活の命に与かった者です。やがて主と共に住む天の御国に移された者ですから、上にあるものを求め、思い、天国を慕い求めましょう。

1、天を慕う生涯の秘訣
            
罪を赦され、神の子とされ、主との親しきお交わりに与かった者は永遠の命の喜びが湧き上がるのです。
「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記 5:24)

救われて、クリスチャン生涯の旅をスタートして間もなく、エノクの信仰を知って、エノクに魅せられました。そして、“天を慕う生涯”に導かれ、その恵みを渇き求めました。
ある聖会の折、神より一つの課題が心に与えられました。
「あなたは天を慕っていると云いながら、心の底から云えるか?」と、主よりチャレンジを受けて、聖会に臨みました。
「主よ、私には未だまことに天を慕う心がありません。何が問題なのでしょうか」と、切にお祈りしました。それは20代後半、ケズイック・コンベンッションに参加して、最初の聖会直前の晩、ひとり主の前に静まっている時でした。

そうすると、主は即座に祈りに応えて下さいました。「わたしを愛していますか。」(ヨハネ21:15)と、この神の細き声に心は探られました。
この有名なお言葉は知っています。
「主よ、あなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、ペテロの如く、真剣に応答しました。
予期もせず、考えもしなかった、この主の細き声に心は深く探られました。
そうすると、主のみ心が開かれ、「あっ、そうだ! 天を慕う生涯とは、地上で絶えず主を愛し、お従いしていくことだ!」と、主の単純明快なご回答に、心に深い喜びが湧き上がりました。

2、主を愛せない世との戦い

主は世を愛する者には、「私を愛せない。」理由も同時に、諭し下さいました。
「主は世も世にあるものを愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。」(汽茱魯唯押В隠機

世を愛し、地上に心が向いている時は、決して“天を慕う思い”がないことも教えられました。天は神のお住まい。天は父なる神、子なる神(キリスト)とお会いする処です。いつまでも主と親しく、お交わりする処です。
だから、天を慕う人は地上で主を愛しなさいと、次のお言葉が宝のように啓かれました。

「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか」
(詩篇 73:25;新共同訳)
この新共同訳のお言葉に感謝しました。地上での主との親しいお交わりこそ天に繋がり、実際、愛する主とお会いすることを諭されました。

《委ね憩う信仰》2018年4月29日 渡邊泰範牧師  

第一ヨハネの手紙5章4節

「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(汽茱魯 5:4)

<はじめに>
 私たちは世に在って、様々な戦いに遭います。その時、私たちの信仰が試されます。主イエスは十字架を前にして、世に残る弟子たちに、「世に勝ってきた私に倣いなさい。」と、勇気づけました。
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)
 世に勝つ信仰とはどのような、より高いクリスチャン生活なのでしょうか、獲得させて頂きたい。

1、委ね憩う信仰

委ね憩う信仰とは、全く主にお任せし、主にお委ねし、主の豊かなご臨在に満たされて行く信仰生涯です。そのような信仰のキリスト者は世に在って、勝利する生活を送れるのです。
主にお委ねしていくキリスト者は、主が全責任をもって豊かなご臨在をもって導いて下さいます。このような信仰経験を得るには、主との親しいお交わりが必要です。
「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」(ヨハネ14:23)
主ご自身は目に見えませんが、ペテロの如く、主を愛し、従い、導かれて行く時、迫害に遭っても喜びに満たされます。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」(汽撻謄蹌院В検

2、初期のケズイックが提唱した勝利の生活

 140年前、ケズイックの町の聖ヨハネ教会の牧師、キャノン・T・D・ハーフオードがオックスフオードの聖会で体験した恵みは、悩み、恐れから解放された、「より高いキリスト者生活」でした。
主イエス・キリストに在って、どのようなキリスト者にとっても可能である、「実際的ホーリネス」、「聖書的ホーリネス」の恵みとも呼ばれた、「勝利の生活」を送れることが可能であることを、初期のケズイックが新鮮な意味を持って強調しました。
 
3、「求める信仰」から「委ね憩う信仰」の豊かさ

 オックスフオードの聖会で語られたエバン・ホプキンズの「求める信仰」と「委ね憩う信仰」との違いについて、説教を聞いたキャノン・T・D・ハーフオードは「私の信仰は委ね憩う信仰ではなく求める信仰であった。」と記しています。師はそれから体験した事を次のように述懐しています。

「私は主イエスの豊かさの中に想いを致して、『私は主の中に委ね憩います。』と言った。そして、本当に委ね憩うた。」
この体験によって師の行為には新しい特質が、牧会には新しい目標が、そして全面的に委ねきるという新しい願いが与えられたのであった。
師は神とのより深い歩みに対するヴイジョンと夢と飢え渇きが、与えられたのです。

《心の砕けた者の祝福》2018年4月22日 渡邊泰範牧師  

詩篇34:18、詩篇51篇17節

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。」
(詩篇34:18)

<はじめに>
 天地を造り給う天のお父さまは、「砕かれた、悔いた心」を喜ばれます。父なる神さまの前に、「私は罪人です。汚れ果てています。」と、砕かれた心をもって出る時、神さまは喜ばれ、罪を赦し救いくださるのです。神様から離れている方は自分の考えで凝り固まって頑固です。行き着くところは望みもなく疲れ果ててしまいます。

1、主は心の打ち砕かれた者を救われる

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。」
(詩篇34篇18節)

私は幼少の時から淋しく、孤独な人生を送って来ました。それは父もなく、友達もなく、頼る人もいなかったのです。心の打ち砕かれた者に主なる神は一番近くに居られます。私は18歳の時、復活した生けるキリストに出会って、聖書を読んだ時、次の聖句に釘付けされました。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(マタイ5:3)

 イエス様は頼るところのない、貧乏人のような心の人を愛し、救い、祝福して、天国に連れてって下さるのです。

 私はキリストが私の罪を赦すために、身代わりとなって十字架で殺されたことを信じ、救われました。私を愛し、私のために命を捨てて下さったイエス様がいつも心の中に居られ、私のそば近くに居られることが分かった時、喜びが与えられ、人生が一変しました。
仕事をしている時、独り散歩している時も主イエスがいつもそばにいることを覚えた時、心に平安と喜びが与えられました。

 主イエスは姦淫の現場で捕らえられた女の罪を赦されました。
「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)

何と有り難いイエスさまでしょうか。主は心の悔いし、砕かれた者の近くに居られます。聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と記されています。罪の自覚がないから悔い改めをしないのです。

2、主は砕かれた霊を喜ばれる

「神への生贄(いけにえ)は砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑(さげす)まれません。」(詩篇51篇17節)

 神さまに喜ばれる供え物は生贄ではなく、「砕かれた、悔いた心」です。神さまの前に、「私は罪人です。汚れ果てています。」と、砕かれた心をもって、出る時、神さまは喜ばれ、罪を赦し、罪を潔め、祝福してくださるのです。

この詩篇51篇はイスラエルの王、ダビデが姦淫の罪を犯して、罪を隠そうとした時、預言者ナタンによって、罪を指し示された時の懺悔の詩です。
ダビデは心、砕かれ、「私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。・・ 私の罪を除いてきよめてください。」と、(詩篇51:4〜7)

罪を告白し、神に罪の赦しと心の聖潔(きよめ)を願いました。神さまは恐ろしい一切の罪を赦し、ダビデを愛し、祝福と恵みを与えなさいました。

《主イエス・キリストの招きと救い》2018年4月15日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書11:28

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

<はじめに>
 長くも、短くもある人生の旅路において、人はしばしば、労し、疲れます。イエスさまは、人生の旅に疲れたすべての人に、愛をもって招いております。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われました。
主イエス・キリストは、全人類、すべての人に神の安息を、与えたく、今も招いております。

1、神は愛なるお方です

神とはどんなお方でしょうか。
「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1:1)
聖書が示している神は、天と地を創造された方です。神は聖なる方であり、私たち一人一人を覚えて、限りなく愛して下っている神です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

この聖書の言葉は、聖書の中心的なメセージの要約です。主である唯一の神は、愛の神です。
父なる神は、独り子であるイエス・キリストを私たちの罪を赦し、永遠の命を与えるために、この世に遣わして下さったのです。イエスさまは神からの最高の贈り物です。 

2.救い主イエス・キリストの招き

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)と言われました。人の子とはイエス・キリストのことです。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われました。私たちは神様から離れて、迷子になった羊にたとえられています。主イエスは命をかけて、わたしたちを尋ね求めています。人はみな罪を犯しました。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)

この聖書の言葉は「人はひとりの例外なく罪を犯した」と宣言しております。
人が神の祝福を受けられない最大の問題は、神様の前に罪を犯して、神から離れているからです。
人の罪を解決するお方はイエス・キリストだけです。救い主、キリストはわたしたちの罪の身代わりとして死なれました。

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」(汽撻謄蹌押В横粥

誰でもキリストによらなければ、父のみもとに行くことはできないのです。天国に入れないのです。どうしたら、キリストを救い主として受け入れられるのでしょうか。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8〜9)

神の救いに与かることは、わたしたちの善行や修業によるのでなく、私たちがただ心を開いて、キリストを救い主として受け入れることです。キリストを受け入れる決心が出来たら、謙虚な心をもって「わたしは罪人です。  
キリストの十字架のゆえに、わたしの罪をおゆるしください」と祈り、罪を悔い、告白し、キリストを救い主として、信じて、受け入れれば救われるのです。

《主の愛のお取り扱い》2018年4月8日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ21:15〜19、詩篇73:25

「イエスは再び彼に『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。・・イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』」
(ヨハネ21:16)

<はじめに>
 このヨハネ21章は、ペテロが十字架にかかる前の晩、「主を知らない」と3度も裏切った傷心のペテロに、主はご愛を以て、ペテロを取り扱い、『再召命』に導いたところです。主を愛することは、『献身の生涯』を全うする秘訣です。

1、献身の生涯の秘訣 “あなたは私を愛するか”
                                                                
復活した主イエス・キリストが夜明けのテベリヤ湖畔(ガリラヤ湖沿岸地域)で、人を怖れ主を拒んだ、傷心のペテロに愛を持って諭すドラマは美しいしい一枚の挿絵です。
実に深い愛をもって、ペテロを懇ろに取り扱われた光景は何とも素晴らしい物語です。
昔、良く用いられた七輪を思わせる、コンロに炭火を起こし、魚を焼いてペテロを待ち受けるイエス様の姿は何という優しいしもべの姿でしょうか。

「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」(マルコ16:7)

復活した主イエス・キリストはこのお言葉の如く、ガリラヤ湖の岸辺でペテロにご自身を顕わしました。どんなにペテロを愛していたか、主の方から愛を示し、赦し、宣教の力を満たしました。

2、甦りの主イエスとペテロとの三回のやりとり

 主は自ら、食事を用意し、食事を済ませた後、特別シモン・ペテロに深いご愛をもって迫りました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」アガペー(神の愛)の愛を同じ言葉で二度(15,16節)問いかけた。

それに対し、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と、フイロー(人間的愛情)の愛で、精一杯心より応えました。

そして三度目のイエスの問いはフイローの愛で良いから、フイローの愛でシモンに問いかけました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」ペテロは、イエスが三度目(17節)も、「わたしを愛しているか」と言われたので、心を痛めて、「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」と、愛する主に何もかも投げ出し、委ねました。

その回答を主は受け入れ、ペテロに牧者としての使命を与えました。「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。主を愛さないで群れを導き、宣教の迫害、殉教の覚悟は備えられないのです。
主はペテロにどのような死に方で、神の栄光を表すかを示し、「わたしに従いなさい」と言われました。

「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(18)

この主の預言の如く、信頼し得る伝承によると、ペテロは64年のネロの迫害において、十字架につけられて殉教しました。

《全生涯を導かれる主》2018年4月1日 渡邊泰範牧師  

詩篇23:1〜6

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23篇1節)

<はじめに>
 詩篇23篇は大牧者なる主イエスが与える恵みです。私たちは詩篇22篇の経験を受けるべきものでありますが、良き牧者なる主イエスが十字架の苦しみを受けたことにより、この詩篇23篇の復活した、生ける主の大いなる恵みを受けることが出来るのです。主は臨在の恵みをもって、「わが世にあらん限り」すべて、全生涯導かれると約束されます。

1、主は私の牧者

 詩篇23篇は、これほど美しい詩を他に見ないほど、霊的な豊かさがあります。
この詩篇23篇は「エホバはわが牧者なり。われ乏しきことあらじ。」と、文語訳で親しまれてきました。
多くの聖徒は臨終間際にもこの詩篇を愛唱して天に召されて往きました。クリスチャン生活には世にあって、多くの戦いがあります。失敗、失意、落胆、体の弱さ、親しき友との別れ、そして親しくお交わりしてきた多くの聖徒との別れは淋しいものです。 
しかし今日も、その戦いのさ中にあって、失意どん底に陥っている時も、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と、神さまは聖霊を通して、静かに私たちの霊魂に語りかけて下さいます。
スポルジョンはこの詩篇23篇を「小鳥の中のナイチンゲールに相当するものだ。」と言っています。夜、美しい声で鳴く、ナイチンゲール(和名;サヨナキドリ 小夜啼鳥)のように、泣いて夜を過ごす多くの悲しむ者の耳に、この詩篇は心地よく響いて、希望を与え、喜びの朝を迎えさせてきたからです。 

2、証し:私の詩篇23篇

救われて間もなく、日曜学校の奉仕に励んでいた時、弟から借りた高価なスポーツタイプの真新しい自転車を、ちょっとした隙に盗まれてしまいました。
信仰に反対していた両親に、どうお詫びしてよいか、悩みました。当時の給料の三倍もしましたが、弁償しました。神様に泣いて祈りました。
「愛する天のお父様、今後、信仰生涯、やって行けるでしょうか。」父なる神さまは即座に、『主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。』と、大いなる慰めをもって、強く語りかけて下さいました。また主は、『あなたの一生涯、全責任をもって守ってあげる。』と、み言葉を啓いてくださいました。
主の救いに与かって、間もなく経験した深い悲しみは、大いなる主よりの慰めのメッセージとなりました。
この時、以来このお言葉は私の最大の慰めの言葉となりました。

詩 ♪『主はわが牧者』
 主の臨在の喜びに満たされ、
 主を賛美します。 
 悩みのときに主に祈る時、
 主は直ぐに応えて下さいました。
 主は私の牧者と言われます。
 主に慰められ、悲しみは、
 賛美に変りました。
 主は生涯、守られると言われます。
 私は主に信頼し、主のみ手に委ねます。

全く主にお任せし、主にお委ねした時、主は全責任をもって導き、豊かなご臨在をもって導き下さることを知りました。

《受難のキリスト》2018年3月25日 渡邊泰範牧師  

イザヤ53章1〜12節

「私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
(イザヤ53:4〜5)

<はじめに>
 ”イザヤ”とは「主の救い」という意味の如く、イザヤ書は極めて福音的であります。特にこのイザヤ書52章13節から53章12節は「しもべの歌」と呼ばれ、また旧約聖書中重要な箇所であり、新約聖書以上にメシヤなるイエス・キリストの贖罪死(私たちの罪を赦すために、キリストが身代わりとなって、私たちの罪の罰を受けて十字架にかかって死んでくれたこと。)について明らかに述べています。

1、悲哀の人、キリストと人の不信仰

「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」
(イザヤ53:1)
イザヤの内にいます聖霊はここに嘆き訴えられます。多くの預言者たちが、今に至るまでしばしば宣べ伝えてきたこの救い主イエスを信じなかったのです。
 しかし全能の主の聖手は事実イエスによって顕れたのです。イエスによって重い皮膚病はいやされ、盲人は見え、聾者は聞くことが出来るようになった。

「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」(イザヤ53:2)

主のしもべイエスは人々が想像していたように天より栄光をもって降臨されないで、芽生えのように柔らかに、弱々しい赤子として一人の婦人のお腹からお生まれになった。
乾いた土地とは、当時ユダヤがローマの属国となっており、ことにベツレヘムは実に賎しい小さな村であったことを指している。

 若枝とはひこばえのことで、古木の幹から柔らかい若枝がひょっこり出てくることをいいます。ユダヤは一旦、切り倒され、ローマの属国となりましたが、民はひこばえ(樹株)のようにそこに残っていて、ダビデの裔より生育された事を示します。

 このようにして生まれたイエスは肉体としては少しも美しいというべき点はなく、人の目を引くような見栄えはありませんでした。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人でした。」(3節)

2、キリストの謙遜

「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)

これはピラトの庭のキリストの姿です。ここに彼は謙って自分から口を開かないとあります。これは我慢ではない。全く謙って自分から甘んじて自分を罪人の地位に置き、その罰を当然のこととして受けられました。

彼はご自身を卑しくして私たちと全く一体となり、神の子であることを全く念頭に置かれなかったのです。
羊は屠り場に引かれて行く時さえ抵抗せず、毛を切られる時にも騒がないといいます。そのように、主イエスは子羊のように、柔和、従順で、どんなことを仕掛けられても、何の不平も言わず、刑場に引かれて行かれたのです。そして十字架の極刑に処せられました。

《主イエスの十字架と勝利》2018年3月18日 渡邊泰範牧師  

詩篇22篇

「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」(詩篇22篇1節)

<はじめに>
 詩篇22篇はすべての聖徒に愛されている詩篇23篇に隠されて、あまり親しまれていない事を覚えます。ところが詩篇22篇の主イエスが私たちに代わって、ゴルゴダの丘で十字架のご苦難を受け、死なれた故に、詩篇23篇の復活した牧者なる主イエスの臨在の恵みに与かれるのです。

1、父なる神に捨てられるイエス

 1〜21節の受難の描写は、ゴルゴダでの主イエスの受苦と一つひとつが照合できます。主イエスにとって、十字架上の最大の苦悶は
「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。」(詩篇22:1)
にありました。この叫びが十字架上のイエスの第4言でした(マタイ27:46)。

 捨てられる理由のない、何一つ罪なきお方が父なる神から捨てられる。それは彼が捨てられることにより、捨てられて当然の罪人なる私たちが捨てられないという、人類救済の道が開かれるためでした。
「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る。」(詩篇22:7〜8新共同訳)

 神に捨てられ、神の沈黙から人々に軽んぜられ、嘲笑されているイエスの苦難が描かれています。
「救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。」(詩篇22:21)
苦難の絶頂にあったイエスが、なぜ私が十字架に磔(はりつけ)され、神に捨てられた父のみ心が新ためて分かったように、『あなたは私に答えてくださいました。』と、詩篇の記者は記しています。

 小島伊助先生が嘗て、「福音誌」でここを強調され、大変、詩篇22篇が開かれ、恵まれたことを思い出します。
「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(ヨハネ18:11) 
イエスは十字架を前にして、ペテロに語られました。父より御受けになった杯なる十字架は飲むべき決意を告げています。

2、十字架上のイエスの勝利と賛美

 詩篇22篇の前半はまるで十字架に処刑される主イエスを見たかの如く描写されていますが、後半では一変して勝利の賛美で満ちています。
神が祈りに答えてくださるという確信から、突然、詩人は苦痛の描写から感謝と賛美に変えられて行きます。
「私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中 であなたを賛美します。」(詩篇22:22)
詩人は会衆の中の苦しむ者、貧しい者への配慮を忘れず、神の王国の成就にまで、主を賛美します。
「子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」(詩篇22:31、32新共同訳)

 イエスの十字架の第6言「すべてが完了した」を思わせます。『主が成し遂げてくださった恵みの御業』を全世界、後世にも高らかに語り伝えると記します。

《われらキリスト者の責任》2018年3月11日 渡邊泰範牧師  

コロサイ1:24〜28

「今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。」
(コロサイ1:26)

<はじめに>
 前回はキリストの優越性について学びました。
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。」(コロサイ1:18)
まず、この手紙が獄中から送られたもので、コロサイから1,600Km離れていました。コロサイ教会の事情はエパフラスによって伝えられ、今、彼はパウロの居るローマにいます。
 彼の報告は一面、パウロを喜ばせましたが、他面、悲しみと危惧の念もありました。私たちはパウロの牧会者の心があるだろうか。パウロの果たすべき責任とは何だったのでしょうか。

1、キリスト者の果たすべき責任

『神の言葉を余すところなく伝える。』ことです。
パウロは神のみことばである、キリストご自身を完全に広める責任を託されたのです。
福音に二つはないのです。罪人向きの福音とか、教会用の福音などないのです。福音は一つです。福音には高さがあり、深みがあり、幅もあります。だから私たちはこの全幅の福音をしっかり伝えねばなりません。

 信仰の義認だけでなく、聖化の恵みも。御霊(みたま)による新生だけでなく、聖霊に満たされる歩みも伝えることです。

 健全な教理と同時に、キリスト者としての社会活動も。しかし、このような任務を完全に遂行しようとすれば、必ず犠牲が伴います。
「自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている。」
(コロサイ1:24)とはそのことです。
「自分の身をもって」とは、身体的な苦難を意味しています。
勿論、この場合の「キリストの苦しみ」は十字架上のキリストが私たちを贖うために受けられた苦しみではありません。キリストの贖罪の死は完全無欠であります。これに対しては人間も天使も何一つ加えることは出来ません。

 主はかつて、「あなた方はこの世にあって苦しみを受けるだろう」と言われました。その意味であります。「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」(ガラテヤ6:17)とパウロは告げる。

2、その任務の具体的な内容

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)ことと言います。私たちは聖書を神の言葉と言っています。しかし、私たちを救うのは書物ではありません。一人のお方キリストです。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5:39)と言われました。私たちを救う神のことばは受肉(人となられた)された神のことば、すなわちキリスト・イエスであります。

 このキリストとは歴史的キリストであります。
「神は昔、預言者たちによって・・この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」(ヘブル1:1〜2)
キリストとこの世の宗教との歴史的相違点はここにあります。キリストは歴史の中に生まれ、歴史を歩み、十字架につけられ、死んで葬られ、復活されました。
(飯狃嗟宰匯奸ゝ祷会メッセージ要旨;201711.1)

《わが内にいますキリスト》2018年3月4日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ14:20

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります」(ヨハネ14:20)

<はじめに>
 私たちは神の栄光の中にキリストの中にある者です。同時にまた、キリストはこの罪に満てる世に、ご自身の霊によって私たちのうちに住んで居られるのです。天的な意味で信仰は私たちをキリストに結合し、この地上の生活にあっては聖霊がキリストを結び合わせて下さるのです。
これはまことに神秘的な真理であり、奇跡であります。私が主に在り、主が私の内にいますという事を信じるには、自らの信仰を相当大きくしなければなりません。その恵みを信じることです。

1、キリスト教は中に住まわれるキリストご自身

 初めての方にキリスト教とはどういうものであるか、簡潔にご紹介したいと思います。
キリスト教とは単なる教えではありません。キリスト教はキリストご自身です。
人が造った偶像を拝むものでもなく、実体がよく分からないが、その教えを信じて唱えれば、幸福が得られるという、抽象的なものでもありません。

キリスト教は今も生きて、働いている、生けるキリストご自身です。そして、今もキリストを信ずる者に、主は私たちの中にいまし、私たちの罪を赦し、神の子となり、復活の望み(二度と死なない体に甦らせてくださること)に与らせて下さっているのです。

 罪が赦されて神の子となり、やがて神の国(天国)に迎えられて、二度と死なない栄光の体に甦る日はいつの日でしょうか、それはもう一度、イエス・キリストご自身が私たちを迎えるため、雲に乗って来る時(再臨と言います)です。

2、聖霊によってキリストを受け入れること

 人間的(肉)な標準でキリストを知ることと、霊によってキリストを知ることは大きな違いです。弟子たちはペンテコステ(聖霊降臨日;キリストが復活してから50日目)までは肉によってキリストを知っていました。

 今でもキリスト信者の多くは、肉によってキリストを受け入れます。あるいは、他の人から教えられ、あるいは自ら聖書を読んで、肉によってキリストを受け入れます。これも幸いなことです。肉によってキリストを知る者は時に心の中で寂しさを覚えます。キリストを見ることが出来ないからです。けれども霊によってキリストを知る者は孤児ではありません。心の中にキリストを持っているからです。

3、聖霊によってキリストを受ける者に住まわれる主

 聖霊によってキリストを受け入れるなら、三つの結果が現れます。『あなた方は私を見ます』(19節)。『あなた方も生きるからです』(19節)。『その日には・・わたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります』(20節)。

 「見る」、それは道であるキリストを指します。「生きる」、それはいのちであるキリストを指します。「分かります」、それはまことなるキリスト指します。

 では、聖霊を豊かに受ける秘訣は、主を信じて、従う事です。『神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。』(使徒5:32)。そして、主を愛することです。『だれでもわたしを愛する人は、・・わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」(ヨハネ14:23)

《主の御心をなしたまえ》2018年2月25日 渡邊泰範牧師  

「『わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように』と祈られた。」(マタイ26:42)

<はじめに>
 神の御心というのは、理解すればそれですんでしまうものではなく、実行に移さなければならない性質のものです。『主の祈り』の中で、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と、祈るように、主イエスに倣って、私たちも御心をなして行くことです。天国というところは、御心が完全に行われるところです。

1、御心に従う生涯

 私たちの信ずる神は生ける神なので、神のみ前に立つ復活したキリストの執り成し(私たちの罪を赦し、生ける神との交わりを快復した和解者として、キリストは大祭司として執り成す)によって、私たちの祈りは応えられるのです。祈りは私たちの模範者なるイエス・キリストに学びましょう。

 イエス様は誰よりも祈りの人でした。イエス様はゲッセマネの園で何を祈ったでしょうか、『あなたのみこころがなりますように』と祈られました。この背後にはイエス様のどれ程の葛藤があったかを忘れてはなりません。イエス様の祈りは血の汗を流しながらの祈りでした。

イエス様のご生涯は終始一貫、『あなたのみこころがなりますように』という祈りでありました。
『わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。』(ヨハネ6:38)
イエス様の生涯は父のみこころを行うことでした。

 イギリスのジョン・ウエスレーは神様に用いられた素晴らしい聖徒でした。臨終の時、集まっている弟子たちに、「私は天国に行く資格がない。」と言われました。彼らはびっくりしました。「それでは一体だれが天国に行けるのだろうか」と考えました。
するとウエスレーは「しかし、イエス様が私のために死んで下さった。(But Jesus died for me.)それで天国に行く資格がある。」と言われました。

 イエス様の十字架なしに誰ひとり天国に行ける人はいないでしょう。傷のない子羊のように献げられたキリストの血は、すべての罪を赦し、聖めるところの驚くべき力があるのです。父なる神様がイエス様の服従を喜びなさった如く、私たちも主のご再臨(主イエスがもう一度来られること。)を前にして、主のみ旨に従いましょう。

2、御心に従う秘訣

 ジョージ・ミューラー(祈りで、多くの孤児を養った。)が90歳になったとき、お祝いに集まった人々が、「あなたの毎日の幸いな生活と、素晴らしい神様の秘訣は何ですか」と聞きました。そのときジョージ・ミューラーは、「神様の恵みによって、正しい良心を保ち続けたことと、神様のみ言葉を愛する者として頂いたことです。」と答えたそうです。
私たちも本当にこの年、いつ主がおいでになるかわからないこの時に、神様の恵みによって、このような生涯を送りたいものです。
主の弟子ペテロはイエス様が十字架にかかる前夜、「そんな人は知らない」(マタイ26:74)と三度も拒みました。ペテロはイエス様の言葉を思い出して、激しく泣きました。私たちも何と意気地のない、弱い人間でしょうか。自分の力でやろうとするときに必ず失敗します。自分の弱さを深く悟り、真剣に祈り、聖霊の力に満たされましょう。

《主の愛を知る》2018年2月18日 渡邊泰範牧師  

ローマ人への手紙5章8節

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

<はじめに>
 主のご愛を知った時、クリスチャンは喜びが与えられ、姿も顔もキリストのように変貌して行きます。主なる神の愛は、十字架上で深く注がれました。私たちが罪人であったときでさえ、キリストは私たちの罪のために、死んでくださったのです。

1、クリスチャンの喜び

 クリスチャンの喜びは罪が赦され、罪なきものとされた時、与えられるのです。罪なき者とされる恵みを、聖書はこのことを「義とされる」(ローマ4:3)と書いてあります。義認信仰と言います。
信仰によって神に義とされ、神と和らぎを得て、神と親しく交われば、当然、クリスチャンには喜びが湧いてきます。
神との和解からくる、「神に対して平和を得ている」(1節)恵みを体験しますと、クリスチャン生涯の最終的な恵み、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」(2節)と、クリスチャンに与えられる三つの喜びに与かります。

2、三重の喜び

1)神の栄光にあずかる希望を喜ぶ
「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」(ローマ5:2)
 小島伊助師は「『今立っている、神の栄光にあずかる希望』とは、『聖化』の恵みです。『キリスト者は神により全く新しく生まれさせられたばかりでなく、主のご再臨(キリストがもう一度来られる事)を待ち望む、新生に生きる姿でなければならない。』」と言っています。
 私たちの霊的祝福のすべては、キリストの十字架と復活にかかっています。
罪が赦されるということは、過去の一切の罪を棒引きして頂くことです。義とされる事とは、罪を犯さなかった以前に戻していただき、無罪と宣告されることです。
キリスト者は、『私の罪のために、イエスは十字架で死んでくださった。』と、信ずることによって、義とされ、罪が赦された者となったのです。

2)患難をも喜ぶ 5:3〜10               
「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。」(ローマ5:3) クリスチャンに患難は付きものです。キリスト者が信仰を持ってこの世で生きるとき、患難に会うことをキリストが愛する弟子たちに告げています。
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)
キリスト者は神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいるだけでなく、現在の苦難さえも喜ぶのです。

3)神を喜ぶ
「そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」(ローマ5:11)
 ついに、「そればかりではなく」と、勝ち誇るキリスト者の三重の喜びの頂点は「神を喜ぶ」ことです。
未来における神の栄光を喜ぶだけでなく、現在、神ご自身を喜ぶのです。「主を喜ぶことはあながたの力です」(ネヘミヤ8:10)

《すべての人を照らす光》2018年2月11日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ1:1〜13

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:4)

<はじめに>
 イエス・キリストは人々の光としてこの世に来られました。キリストの弟子ヨハネは『光』を福音のテーマとしてイエス・キリストを描きました。それ故、光であるキリストを繰り返し語りました。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

1、啓示の光

 キリストの来臨は、私たちに神を現わし啓示するためでした。
「わたしは・・です。」と、イエス・キリストが宣言することばは、ヨハネ福音書には七つあります。それはイエスが神であることを現わしています。
 昔、神がモーセに語られた時、「神はモーセに仰せられた。わたしは、『わたしはある』(エゴー・エイミ;Iam that I am.)という者である。」(出 エジプト3:14)と、ご自分のことを言われました。神は自己存在者、永遠の存在者であるという事です。
神は唯一であり、創造主であり、神への畏れを強くもっているイスラエル人の中で、『わたしは、世の光です。』とは、驚くべき宣言でした。
 光というのは、“火の柱、雲の柱”でエジプトを脱出したイスラエル人を導いたという、神の臨在を象徴するものでした。
 
2、暗きに打ち勝つ光

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)
 闇の力といえども、まことの光を消すことは出来ないのです。闇の中にいる者に光を与えられたイエスの御業がヨハネの福音書に二つ記されています。
 一つは罪が赦された姦淫の女性(8章)、開眼された盲人(9章)。姦淫の話しは二重の意味で人間の暗黒を表しています。
 一つはイエスと女性を訴えている群衆。彼らは自分の罪を棚にあげて、訴えることしかしない。
もう一つは罪を犯したその女性です。自分の罪を白日のもとに照らされて、身のおきどころのない人。
 「イエスは言われた。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
訴えた群衆は離れ去ったが、残された彼女はイエスに罪を赦された。

3、いのちを与える光

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:4)
 光であるイエスは人に命を与えるのです。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)このみことばは神が自然の中にご自分がおられることを教えています。
 これらはお百姓などには尊い恵みを教えているが、人々の救いの光となって来られたキリストは霊的ないのちであることを教えています。
 それは主イエスを信じることによって与えられます。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
 私たちの魂に与えられるいのちは永遠の命です。『神の子』とするいのちです。
(2017.12.20東京若枝教会祈祷会 飯狃嗟宰匯侫瓮奪察璽戸彁櫃茲蝓

《天国に至る道》2018年2月4日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる福音書14:1〜9

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネ14:6)

<はじめに>
 主なるイエスは自ら、『道であり、真理であり、いのちなのです。』と、言われました。この道とは聖人、君子の模範者ではありません。
道であるイエス様は天国への道であることを示されました。「イエス様によらなければ、誰も天国に入れない。」と言われました。
 主イエスは私たちの罪の贖いのため、十字架で殺されるイエスの体と流される血によらなければ、私たちの罪は赦されず、天国に入れないのです。

1.弟子たちに「心を騒がせるな」と言われる

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)
イエスは弟子たちの心には恐れ、不安、心配が満ちているのを知っていましたので、心を騒がすなと言われたのです。
弟子の一人、シモン・ペテロがイエスに問いました。「主よ。どこにおいでになるのですか。」と、そこでイエスは十字架への道に進むことを話されたのです。
「イエスは答えられた。『わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。』」(ヨハネ13:36)
「イエス様はどこに行ってしまうのだろう」と、イエス様と別れる事は不安でした。どんなに信仰の篤い人でも、悩みはあるのです。私たちにも、突如、宣告される病など試練はやって来ます。
そのような時に、どうしたらイエス様の言われる様に、私たちは心を騒がせないでいることが出来るのでしょうか。
イエス様は「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われます。天地を創造された神様は、私たちのために独り子・イエス様さえも惜しまず、この地上にお遣わしになった、愛の神様です。この神様を信じ、お頼りすることです。
 イエス様の十字架を見上げる時、「あなたの蒔いてきた罪のために、イエス様は十字架に架かって血を流し、いのちを捨てて下さった。」と言われるのです。そのイエス様を信じる時、罪の赦し、罪からの救い、心の平安が与えられるのです。

2、私たちの望み、天にある住居(すまい)

イエス様が『わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。』(2)と言われました。
イエス様は、天国という所がどういう所かと説明するために、『わたしの父の家』といわれました。神が備えられた天国とはホーム、家庭であります。イエス様のお父様の家です。何という暖かい家なのでしょうか。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(3)
イエス・キリストの救いに与った者は、地上の生涯は旅です。地上の生活は仮住まいです。
主が供えられた、私たちの行くべきところは天国です。天のお父様のおられる所です。
この事が分かったら何と喜びに満たされることでしょうか。心に恵みと平安が与えられます。

《十字架を誇る》2018年1月28日 渡邊泰範牧師  

ガラテヤ6:11〜18

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ人への手紙6章14)

<はじめに>
 人は誰でも、新しく生まれ変わりたいものです。聖書は人の魂に神との平和が訪れる時、神との交じわりが快復されることを教えています。私たちの罪のために、十字架につけられ、殺された、主なるイエス・キリストを救い主として受け入れる時、人は新しく造り変えられるのです。

1、神との和解から生まれる神のいのち

人は神との和解が出来て、神との隔てが取り除かれた時、全能の創造主、父なる神の生命(いのち)が聖霊によって、たましいの中に注がれてきます。 
救いとは神との正しい関係に入ることです。
キリストの使徒パウロはそのことを述べています。
「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(競灰螢鵐反佑悗亮蟷罍機В横亜腺横院

私は18の時、洗礼を勧められた時、クリスチャンになることを恐れて、洗礼を躊躇したのです。ところがその晩、主は夢に顕れたのです。
主は言われた。「クリスチャンになることは難しいことではない。ただ主の十字架を自分の罪の赦しとして、受け入れ、神と和解しなさい」と、このコリント人への第二の手紙のお言葉が心に明確に臨んだのです。そしてキリストの救いを受け入れたのです。

2、主の十字架を信じた者が新しく造られた者

パウロは「新創造の恵み」(新しく造り変えられること。新生の恵み)を語る前に、人が新しく造られること、すなわち、新生の土台は主イエス・キリストの十字架である事を強調しています。
新生といえば、イエスとニコデモとの対談を思い出します。彼ほどの人物(サンヘドリンの議員)でもこの新生がなければ、神の国のことは何もわからず、神の国に入る事は出来ないのです。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)とイエスは言われた。
「イエスの十字架を信じる者が・・永遠のいのちを持つためである。」と、ニコデモに諭されました。

3.十字架を信じた結果

信じた結果、新生の恵みに与かった者には、明確な結果と歩みが伴います。
新創造の法則に従っての生活である。死してよみがえった主が、心の内に住まわれ、キリストのかたち成ることこそ、新創造のみ業であります。 
「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)

十字架によって罪赦された者は世的な者、肉的な者は私たちの罪と同様に、十字架につけられ死んだのです。私たちはキリストに在って新しく造られた者です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(競灰螢鵐硲機В隠掘

《神と共に歩むエノク》2018年1月21日 渡邊泰範牧師  

創世記5:21〜24、ヘブル11:5〜6

「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:22、24)

<はじめに>
 主の救いに与かって以来、エノクの信仰を慕い求めました。何故なら、エノクは神と共に歩んで、死を見ないで転に移されたからです。
「彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)♪ひと足ひと足 主にすがりて ・・日々主と歩む秘訣を学びましょう。

1、エノクは雑踏の中に神と共に歩んだ

小島伊助師は「臨在信仰は聖霊の賜物です。」と、いわれました。エノクの信仰をとおして、日々の雑踏の中に生きる私たちも、きよい生涯の秘訣を学ぶことが出来ます。
 エノクは罪がはびこる環境であっても、神の御前に、神を第一として、神に喜ばれる生活を日々送りました。
生ける神さまはいつも私の側近くおられる。神さまは私たちの願い、祈り、日々の業に報いてくださることを信じたのです。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)
エノクは人の評価よりも、神が報いて下さると信じ、神にいつも目を留めたのです。

2、神と共に歩んだエノクの生涯の転機

エノクは死を見ないで、天に「移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)
聖書は神に近づく者は神の存在(臨在:神がいますこと、神の聖顔(みかお))を信じていると書かれています。エノクは神がいるという、神の臨在信仰をどこで体験したのでしょうか。
エノクは65歳になってメトセラが誕生した時、魂が覚醒され、神と共に歩んだのです。
神がエノクに啓示されたことがユダ書に記されています。
「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。 すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。』」(ユダの手紙14〜15)
この聖句から、来るべき世について、エノクは神のおごそかな警告を聞き、預言しています。「すべての者にさばきを行う。」という警告です。
家内を育てた荒木典治さんは受洗には至りませんが、アダムの系図を丁寧に書き残しました。その系図を紐解(ひもと)いて行きますと、メトセラが亡くなった直後にノアの洪水が起きています。メトセラの名前の意味、「彼が死んでからそれが送られるとの意味です」が成就したのです。
 エノクが天に移された如く、私たちもキリストの救い(十字架の贖罪)に与かる時、罪が赦され、天に携えあげられる日(主の再臨)が約束されています。

《おもい煩うな》2018年1月14日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書6章24〜34節

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

<はじめに>
 主イエスは「自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(27)だから、自分のいのちの事で、心配するなと言われます。又、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、体のことで、何を着ようかと心配したりしてはいけませんと言われます。
「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(32)
 私たちの愛する天のお父様は、いのちのこと、食べること、飲むこと、体のこと、着物のことの必要を知っています。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」 "But seek first the kingdom of God and His righteousness, and all these things shall be added to you.”(nkjv)と、主イエスは言われます。

1、私たちの生活の優先権の頂上は神の国

 主イエスは「食物は不必要である」とは言っておりません。食物より優先するものはいのち、衣服より優先するものは体を述べております。
 空の鳥や野の草より優先するものは人間であると述べております。
 イエスの弟子たる者(クリスチャン)は、あらゆる価値に対して、優先権の頂上は神の国を認めなければなりません。
私たちは父なる神から離れて、神なき人生を送っていたのです。神は聖なる方ですから、神と親しく交わるために、父なる神は救い主イエス・キリストを遣わされたのです。
主イエスは私たちの罪を赦すために、私たちの身代わりとなって、十字架にかかって死なれたのです。 そして、私たちが死んでも天国(神の国)に行くために、三日目に主イエスは私たちの初穂として、死から甦(よみがえ)られたのです。
私たちがクリスチャンとなって、天国の民となるには、十字架は私の罪のためと、悔い改めて、主イエスの救いを信じ、受け入れることです。
「義人は信仰によって生きる」(ロマ1:17)
と書いてあるとおりです。
主の救いは決して、行いによらず神の恵みにより、信仰によっ救われるのです。

2、神の国の優先を保持し続けるための支払うべき代価

 1)他の事物を神の国に優先させることは、最も多く見られる人生の悲劇です。
 2)神の国を他の一切の事物に優先させることは、人生において最大の必要事です。
 3)事物を神の国に関係づけて解決することは、人間の最大の勝利です。
「神の国」を第一にしておられる生活をしていますか。神の主権を受け入れるとは、絶えずキリストを第一にすることです。
日々の生活において神を第一にすることです。それは礼拝の生涯に現れます。日常生活において、キリストを主として崇める生活を送ることです。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがないそれゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16:8〜9)

《主の業に励みなさい》2018年1月7日 渡邊泰範牧師  

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「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(汽灰螢鵐 15:58)

<はじめに>
 主の再臨は救いが完成する時です。主の救いに与った死人は二度と死なない、朽ちないものに甦り(栄化)、生きて残れる私たちは主と共に、空中に携え上げられ、いつまでも主と共にいるのです。主の再臨は私たちにとって、大いなる望みです。
その日を待ち望む私たちは、地上に残された生涯がどんなに苦しいことがあっても、耐え忍ぶことが出来ます。主にあって、労苦した奉仕が、再臨の日に報われる時だからです。
 
「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:21)
主からこのお褒めのおことばを頂けたらどんなに喜びでしょうか。そのことを覚えて、主のご奉仕に励まさせて頂きたいものです。

1、福音の真髄を再び伝えるパウロ

使徒パウロは、コリント教会に対して、伝えた福音を再び、述べています。
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」(汽灰螢鵐硲隠機В魁腺粥
パウロは自信をもって、この福音とは最後の復活(主に在って死んだ者が甦ること)、栄化(二度と死なない体に変えられること)、永遠の祝福(永遠の命、神の国、天国)に迎え入れられる事を述べています。

2、主の業に励みなさい

「いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(汽灰螢鵐硲隠機В毅検
私たちにはこのような大きな望みがあります。主が再びお出でになった時(再臨)、主にある奉仕は、一つも無駄にならないのです。主の業に励みましょう。

3、労苦への主のご愛(証し)

 若きとき、一人の人を主の愛に動かされて、毎晩のように労した。遠い会社から帰ってきて、眠りにつくと、電話が鳴る。「助けてくれ!」と、自暴自棄に陥った彼は誰にも相手にされず、酔いつぶれて、呼び求めて来る。
 「すぐ行くよ!今、どこにいるの?」私は直ぐ、起きて現場に向かい、介抱に向かった。
 彼の悩みを聞き、家に帰す日々が長く続いた。ある晩、
又、電話のベルが鳴った。「すぐ行くよ!今、どこにいるの?」と言って、私は主に祈った。
「主よ!私は疲れています。助けて下さい。」と、主に呼びかけた。
愛する生ける主は、即座に「あなたの主に在る労苦は決して無駄にならない。報われる。」と、祈りの応えを頂いた。 主より、労苦(奉仕)への力を頂き、疲れもとんで、介抱に向かった。
そばで、寝ていた順子(2歳)が私を憐れんで、「お父さん今日も行くの!」と、慰めてくれた。彼はいのちも危ぶまれたが、主のご愛の介入により、救われた。

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