東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ
2018年 2017年 2016年

■中川伝道所メッセージ
2018年 2017年 2016年

《天の明るさに生きる喜び》2017年12月24日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ2:8〜20

 ソクラテスは哲学の始まりは「驚き」であると。キリストの降誕の事実も「驚き」なしには先へ進めない。あの夜、真っ暗闇の中に突如、天が開かれ、み使いたちの大賛美が野を揺るがした。声を弾ませ、「今日、あなた方のために救い主が生まれました」と力をこめて告知。神が独り子を地上に送られた。見えない霊なるお方が目で見え、手で触れる姿で来世された、これは歴史の事実である。

一、天の明るさは人間との約束を守る神の誠実さの証しである。ひとたび救い主を送ると約束したからには、こちらが不誠実であろうと国が滅びても守る神。この神を味方につけたら人生大盤石である。
一、この明るさは、独り子さえ私たちのために送って下さった愛の証しである。神の永遠の愛の明るさを知り、その愛に自分を委ねた人生は本当に強い。
一、この明るさは神の栄光を証しする。神の栄光とはキリストの十字架である。罪を悔ゆるどんな人にも、完全な赦しを与え、永遠のいのちを与える救い、それが十字架だから。

《わが救い主なる神を喜ぶ》2017年12月17日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ1:46〜56

 マリヤは神の子を生む驚きと光栄を、聖霊に満たされて、高々と賛美の声を上げます。
「わがたましいは主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びたたえます」
「あがめる」とはマグニファイといい、大きくする、高くするという意味です。カニは自分の甲羅に合わせて穴を掘る。私たちは偉大な神を、自分の小さな信仰で小さくしていないだろうか。彼女が第一に歌ったのは、
一、神のあわれみです。あわれみには二つの意味がある。可哀想に思う気持ちです。主イエスは群衆を牧者のいない羊のように思われた(マタイ9:36)。サマリヤの女、ナインの未亡人、ザアカイに対する主の心はあわれみです。更に、神は約束に誠実である。二千年も前の約束を果たされた(創世記3:35)。
一、神は価値観を逆転されたと歌う。[冤観(51節)、謙遜こそ最高の善徳と。⊆匆餞僉低き者を高く上げる。十字架を負う人こそ真の勝利者。7从儡僉⊃瓦良呂靴気海重傾颪僚衢者である。この歌こそ革命を起こす神の力。

《われらと共にいます神》2017年12月10日 飯飯塚俊雄牧師  

マタイ1:21〜25

 神は幾世代にも亘って、預言者たちを通して救い主の降誕を予告して来ましたが、遂に、今や、その頂点に達しました。預言者たちではなく、み使いを通してナザレの村のマリヤに語られたのです。未婚の彼女が神の子の母となるというのです。
(ルカ1:26〜38)

一、生まれて来るこの名はイエス(「神は救う」という意味)
一、偉大なるお方、すなわち神の子である。
一、イスラエルを永遠に治める王である。

つまり、人類の救い主、神のみ子、王の王の称号を持つお方が彼女から生まれる、という宇宙的大事件。超自然のお方が来世するなら、超自然的なかたちをとられるのは、むしろ自然です。この出来事を一番良く知っているマリヤ自身がイエスを神と崇め、救い主として信じた!
神の約束は成就した。その約束とは、神が私たちと共におられるという福音の成就です。

一、神は絶対に約束を守られる(マタイ1:22)。
一、神は罪人を救うインマヌエルです(マタイ1:23)。

神の子が現れたのは悪魔のわざを打ちこわすためです(汽茱魯3:8)ハレルヤ!
神が共におられる。これ、ベスト人生。

《クリスマスのおそれ》2017年12月3日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ2:8〜12、ルカ1:26〜38、マタイ1:18〜25

 神が人類の永遠の救いを成し遂げるためにみ子なるキリストを地上に送り込まれた宇宙的大事件をクリスマスと言います。

 その夜、そのご愛に感動した天使万軍は大賛美を献げましたが、地上においては、人それぞれの生活の場で「恐れ」がありました。

一、羊飼いたち。自分たちの生活とは全く異質な天の明るさ、神の栄光の輝きが突然割り込んで来た時、人間誰しも恐れを感じます。だからこそ天使は「恐れないで」と言い、救い主の降誕の大歓喜を伝えたのです。

一、マリヤ。前人未踏の神の母となるという神秘的事件の当事者となる「恐れ」でした。「聖霊によるのです」、「神には不可能はありません」の言葉に、「み心のままに」と自分を白紙委任。歴史を変えた祈りをしました。

一、ヨセフ。マリヤの異変に気づいた時の驚きと失望。彼は律法を身をもって生きる「正しい人」であっただけに苦闘、「私の子ではない」と言えばすべてがご破算です。寝れぬ夢の中での「恐れるな」に決断、彼女の陰の人として、彼女と御子を支える勇者となります。

《主に向かって喜びの声を上げよ》2017年11月26日 飯塚弘道牧師  

詩篇百篇

 収穫感謝のこの日、私たちは実りを与えて下さった神に感謝をと呼びかけるこの詩人に共感を覚えます。「主に向かって」と力強く言い切る彼は、全世界は主の支配にあると知っていたのです。ここに感謝の「普遍性」を見ます。

 その喜びは、私たちを臨在のみ前に導き、積極的な奉仕へと押し出します。感謝の「具体性」です。喜びながら仕える人はなんと魅力的なことでしょう。

 なぜ、現代人に喜びが無いか。それは自分が神の愛によって造られた者であって、偶然の産物ではないことを知らないからです。神に造られ、愛されていると知った人は、神の大庭、教会で礼拝を献げずにおれません。感謝する心は、私たちを真の礼拝者とします。ここに感謝の「聖化性」があります。

「主はいつくしみ深い」。これは宣言です。主の恵み深さを味わい知った人は、全世界に向かって、このように証かしせずにおれません。ここに感謝の「宣教性」を見ます。

 主イエスはこの賛歌を受けるべき具体的な神として来られ、十字架と復活によりそれを実証されたのです。

《キリストとの一体性》2017年11月19日 飯飯塚俊雄牧師  

コロサイ3:12〜17

 飯塚牧師が犯罪を犯して検挙されたとする。私はすぐ弁護士に依頼することになる。その人に委任状を出す。「何々の件については一切委任いたします」。すると弁護士はその委任状を持って法廷に立つ。そして、自分の持っている法律的知識、また法廷戦術を駆使する。彼のやっていることは、飯塚のやっていることと見做される。委任状を通しての信頼関係で、弁護する者とされる者が結ばれ、一体化する。

 これが聖書の言う、信じるということであり、信仰の不思議さなのである。

 御子なるキリストが私たちと一つになって、一切を引き受けて下さったので、「信じます、よろしくお願いします」と言えばよい。そのことによって、御子キリストのなさったことは、私がしたことになる。御子に委ね、信頼し、信任する。ここに信仰の結びつきが起きる。十字架において、神の側と私たちの側が一つとなって救いが達成される。

 はっきり言えば、主イエス・キリストが、飯塚俊雄と名乗って十字架上で罰せられ、死んでくださったのである。

《黒は白、赤を通って金へ》(児童のための説教)2017年11月12日 飯飯塚俊雄牧師  

 岩手県に大変困った駅があります。電車がその駅に着くと、弁当屋さんが「えー、弁当、やき肉弁当」と叫びます。すると、駅のアナウンスがもっと大きな声で「ウまくない、ウまくない」と繰り返します。本当は沼宮内(ぬまくない)という駅名ですが、「おいしくない」と聞こえて困るので、今は「いまて沼宮内」と丁寧な名前となりました。

 北海道にもっと変な名前の駅があります。「東は西です」とアナウンスが流れて来ると、「えっ、東は西?」と思ってしまいますが、実は、輪西(わにし)という駅が遠いので、近くにもう一つ駅を造って、輪西の東に出来た駅を東輪西(ひがしわにし)としました。でも今は「本輪西」(ほんわにし)と変わりました。

 もう一つ、絶対に変わらない、すごい名前の駅名があります。これは天国行きの福音列車に乗る人にだけ、つけてもらえます。その名前は「黒は白」、「黒は白、赤を通って」。黒は私たちの心、罪でどろどろ真っ黒です。いやな匂いがします。イエス様が十字架で流された血の色は赤。これをくぐると真っ白になる。行き着く先は栄光の天国、金色です。あなたも乗りませんか。

《永遠のいのちに生きる》2017年11月5日 飯飯塚俊雄牧師  

ヨハネ14:1〜7

 「あなた方は心をさわがしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」。この言葉は、主イエスが十字架の死を目前にして弟子たちに語られた慰めの言葉です。主は「十字架での死を通して父なる神の栄光が現わされるように」と祈って居られるのです。人類の贖いのみわざがなされるからです。それを信じるのです。死は誰にとっても初体験で未知の世界です。しかし主は私たちの罪を負い、そこを通って下さいました。そして「わたしの父の家がある」と。ここに希望があります。

死は神の側でのそなえが終わり、私たちを迎える時が来た事です。「一緒に居るため」とは愛です。この永遠の愛の家へ行く道となって下さった主イエスを自分の救い主として迎えるなら、決して迷うことはありません。

このように、死を恐れる私たちに、信仰、希望、愛を保証された主イエスの十字架と復活の事実。私たちがしっかりと信仰を貫いて行くなら、福音を知らずに逝った身内の方にも主のあわれみは届くのです(汽灰螢鵐7:14)。

《十字架を生きる》2017年10月29日 吉田耕三師  

汽謄汽蹈縫5:16〜18

 キリスト教信仰は、一、臨在信仰、一、復活信仰、一、再臨信仰、の3つに要約できます。主イエスの別名はインマヌエル(共にいます神)です。また、死から最初に復活されたお方(汽灰螢鵐硲隠犠錬汗瓠砲箸靴道笋燭舛里笋ての復活の予表です。そして、主イエスは宇宙の主権者として、最後の審判をするため、やがて再びおいでになります。これらの事実を貫く根底には、私たちの罪を責めず、裁かず、ゆるすために、神自らが十字架に身代わりとなって死んでくださった愛の事実があります。キリストの十字架による贖いは旧約聖書に預言されています。(創世記3:15〜21)

 神との断絶によって生きる意味を失った人類に、神は交わり回復の道を開かれました。悔い改めて、主の十字架の死を、自分のためと信じる人は罪を赦され、神の子としての特権が与えられ、聖徒として完成されます。

 十字架を生きるとは(ヨハネ15:5)御言を霊の食物として生きること、負うべき十字架を負い、神の力に満たされて歩む事です。

《こんな母さんならいいな》2017年10月22日 飯塚弘道牧師  

汽汽爛┘1章

 ハンナという人は、主の母マリヤがモデルにしたほどの人物です。でも当の彼女は二人妻の悲劇の渦中にあって、最愛の夫にも分かってもらえないもどかしさと孤独、子どもたちに囲まれて意気上る若いペニンナの嫌がらせに詮方尽きて、神へと駈け込んだ人です。
一、信仰の母であれ。彼女は真の同情者を神の中に見出しました。「ハンナは立ち上がった」。神のみ前に出る決意です。事情境遇から目を離し、神と向き合いましょう。
一、祈る母であれ。「彼女は主に祈って、激しく泣いた」。心を注ぎだしたのです。肌があわ立つほどに。主が男の子を与えて下さるなら、その子をお献げしますと断言できるほどの気迫。祈って確信したら、もう顔がほころぶほどに信じ切ったのです。人生の問題を解く鍵はすべて神の御手にあります。時には「待て」の声がかかります。その忍耐を通して、私たちは円熟、完成へと導かれます。
一、子を神に献げる母であれ。子どもは神のものです。神から預かり祈りつつ育て、神にお返しする。これが真の愛です。

《変わりゆく環境でどう生きるか》2017年10月15日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ22:35〜38

 だれにとっても、生活の周辺は変わる。主イエスにとっても大きな変化がやって来た。間もなくユダに手引きされて、ローマ兵たちが逮捕にやって来る。七百年も昔にイザヤの預言した通り「彼は罪人たちの中に数えられた」という事が成就するのだと。聖なる神が罪人とされて十字架上で死ぬ、これほど重大な事件が地上の歴史にあるだろうか。

 弟子たちの情況も雲行きが悪い。旅に出た三年前の「あの時」、「しかし、今は」と主は覚悟を促される。これからは十字架上のイエスを救い主として宣べ伝える。様々な危機的状況がやって来る。神にだけ信頼し、御言を武器として、サタンの勢力に立ち向かうのだと主は言われる。この原則は現代の私たちにも、ずばりである。主イエスの態度を見よう。

一、父なる神の御心に「委ねる」方式。主は、十字架上でも「父よ、委ねます」と。
一、過去の恵みを数え、主のご真実に委ねて行こう。
一、主は今も執り成していてくださる。主権者なる主を仰ぎ、しっかり御言葉に立とう。

《だれがいちばん偉いか》2017年10月8日 飯飯塚俊雄牧師  

ルカ22:21〜30

 弟子の中から裏切りが起こり、刻々と十字架の時は迫る。主はすでに聖餐の式を制定され、信じる者に永遠の聖国を与える契約を結ばれた。しかし、弟子たちは主のお気持ちなど少しも理解できず、「だれがいちばん偉いか」などと、古い自我丸出しの功名争いである。すでに主はしもべとなって彼らの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」と言われたばかりではないか。確かに私たちは絶えず人と自分を比較しようとする。そして得意になったり落ち込んだりするが、神と自分との関係が明確であれば決してぶれることなどない。真に偉い人とは、幼な子のように小さい者だという自覚をもって謙(へりくだ)り、仕える人である。

一、人は新生し、恵みに心砕かれる経験をしない限り、どんなに教えられても失敗する。ペテロがその見本である。
一、人は試練を通してこそ造られる。主が祈っていて下さるから(32節)。
一、主に仕える人を主は成熟させて下さる。復活された主はペンテコステを約束して昇天、約束通り彼を岩(ペテロ)とされた。

《神との永遠の契約》2017年10月1日 飯飯塚俊雄牧師  

マタイ26:26

 時は春、過越の祭りでエルサレムは人、人であふれ返っていた。その賑わいの中で、主イエスは地上最後の夜を迎える。明日は十字架の死である。過越の食事を、愛する弟子たちと終えたあと、主はパンを手にして立ち上がられ、祝福の祈りをささげたのち、パンを裂き、「さあ、取って食べなさい。これはわたしのからだです」と。主イエスを食べ、自分のいのちとさせて頂く。これが聖餐式の本質である。キリストわが内に生き給う奥義。ここに主の愛に支えられ、きよめに生きるキリスト者の生涯がある。

 さらに、主は杯をとり「みな、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために流されるものです」。ここに十字架が私たちの贖罪のためであると共に、この血の故に、私たちと永遠の契約を結んで下さったという保証がある。私たちは見える形あるもので常に確信させられる必要がある。死を前にして、私たちとの「み国での食事」という明るい希望を主は抱いておられた。

《計りがたい神の知恵》2017年9月24日 飯塚弘道牧師  

汽汽爛┘17:41〜49

 エラの谷をはさんで対峙するペリシテとイスラエル両軍。はや40日も膠着状態。銅のかぶとに鉄の槍、大きな声を張り上げて、勝負を挑むゴリアテは、雲突くほどの大男。その丈2m80余り。イスラエルの陣営は王サウルをはじめ、怯えて沈黙するだけ。そこへ、牧羊者、少年ダビデが父親の言いつけで、戦場の兄たちに食料を運んで来て、この場面に出食わす。
「なんですか。あのペリシテ人は神の陣営をなめているではありませんか。私にまかせて下さい」。彼は小石を5個拾い、使い慣れた石投げ器を手にしてこの巨人に立ち向かい、一撃のもとに打ち倒し首級(しるし)を挙げる。

一、だれにでも神の時がある。兄たちの弁当届けという小さな出来事。はいと返事して快く従った。その事がダビデを舞台に登場させるきっかけとなった。
一、神はあえて小さき者、無きに等しい者を選ばれる。神にのみ栄光を帰するため。
一、人間の知恵ではなく、御言葉の剣で。
一、主の御名によって戦わせる。主の御名には絶対の権威がある。

《大いなる救い》2017年9月17日 飯飯塚俊雄牧師  

エペソ4:22〜24、30

 一触即発さえ感じる緊迫した国際情勢、改めてキリストの救いとは何かを確かめておこう。神は私たちの過去、現在、未来までもカバーする完全な解決を用意していて下さる。

一、まず罪の赦し。私たちはキリストのうちにあって、御子の血による贖い、「すなわち、罪の赦しを受けている。これは神の豊かな恵みによる」。救いは、私たちの過去が十字架の血の故に完全に赦して頂いた事実から始まる。サタンに牛耳られ、罪の濁流を浮きつ沈みつ滅びの滝つぼへ向かっていた身が、引き上げられ、主の花嫁とまで招かれている。

一、現在の救い。古い肉性を脱ぎ捨て、心の深みまで義と聖とされ、主のみ姿を目指す歩み。聖霊によって、ただ神の栄光のために、の一事に徹する生き方、私たちは神の作品。

一、未来の救い。霊肉の完成と万物の復興である。永遠の聖国を継ぐことの保証として聖霊が与えられている。主が再臨される時、体は栄化され、罪に汚染されたこの世は拭い去られ、新天新地が誕生し、宇宙は完成する。

《だから私たちは心強い》2017年9月10日 飯飯塚俊雄牧師  

競灰螢鵐4:7〜5:10

 人間は死を前にして心細いものです。しかし、パウロは自分を土の器と言い、落としたら割れてしまうもろいものと熟知しながらも、私は心強いと言えたのはなぜでしょう。
一、器の中に、栄光の神であるキリストを宿していたからです。人間は結局中身の問題なのです。彼はイエスの死を身に帯びていました。イエスの死と一つになって古き自我に死んでいた故に、いのちを与える働きが出来たのです。
一、彼は二つの事を「知っている」と言います。一つは、やがて復活の主と共に神のみ前に立つ栄光の日を、もう一つは、神の下さる天に在る永遠の家を。よし、この世にあっては仮設住宅同然の肉体であっても、やがて、死ぬべきものが、神のいのちに呑まれて栄化される日のあることを。その保証として、すでに御霊が与えられていることを。
一、いつも心強いのは、信仰によって歩んでいること、そして主に喜ばれる生活をしているという内なる確信がある事。外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされる幸いよ。

《若枝が目指す理想の教会》2017年9月3日 飯飯塚俊雄牧師  

へブル10:19〜25

 私たちの身分について、聖書は「私たちは聖なる者とされている」と言う。私たちが出来上がっているからではない。キリストの体がただ一度だけ、十字架で死なれたこと、そして、神が私たちを選んで贖って下さった恵みの事実のゆえに聖徒とされたのである。

一、だから、全き信仰を以て、真心から神に近づこう。神は日々新たに恵もうと待っておられる。
一、堂々と主の再臨の希望を抱いて進もう。
一、互いに励まし合い、愛と善行に生きよう。
一、礼拝を生活の中心としよう。

では、礼拝にはどんな祝福が待っているか。
一、神を見上げる信仰が新たにされる。ひとつとされたお互いが共に集まり、賛美して主に近づくなら、個人で静まる時よりも遥かに豊かな祝福を受けることができる(22節)。
一、永遠の希望に開眼される(23節)。愛児を亡くし悲しみに沈んでいた両親が、栄光の御国で主を賛美するわが子を幻に見て歓喜の人と替えられた。
一、愛を実践する力が(24節)。
祈り祈られ、励まし合う教会にしよう。

《主イエスのかがやく教会》2017年8月27日 飯塚弘道牧師  

マタイ16:13〜20

神はご自身の血でこの地上に、キリストの体と言われる教会を建て上げて下さいました。
一、教会は神に選ばれ、召し集められた人たちによって構成されています。
一、召し集めたお方が、「わたしの教会を建てる」と宣言。このご意志が実現したものです。
一、神ご自身が「わたしの教会」と言われたのですから、教会は神のものです。
一、「黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝てません」と主は言われました。
悪魔は人間に罪を犯させ、死の恐怖を与えることで支配しています。
しかし、主イエスは十字架と復活によって悪魔の頭を粉砕し、永遠の支配者です。
一、「あなたに天国の鍵を授ける」と言われたように、教会には天国開閉の権限が与えられています。実に厳粛です。だからこそ、「あなたの前に天国の門が開いています」と福音を宣教する義務と使命があるのです。
一、「この岩の上に」とは、キリストを救い主と告白する信仰です。
この告白は神が下さいました。「告白」とは告白を生きることです。

《望みを抱いて喜びなさい》2017年8月20日 飯飯塚俊雄牧師  

ローマ12:9〜12

 私たちは神から頂いた「新しいいのち」をどのように実生活に生かすべきでしょうか。どんな人も、与えられている恵みの賜物でキリストを主とした一つのからだを造ることで存在価値を高めることができるのです。

 九節、すべての土台は愛です。愛こそ最高善、最も高貴なもの。だから互いに熱心に愛し合いなさい。愛は律法を全うします。モーセの十戒も、心からの神への愛一つがあれば、律法の命令が幾つあろうが、無意識のうちに全部行うことが出来るし、出来てしまいます。

 愛に偽りはつきものです。愛はお芝居ではありません。心そのものが変えられ、愛が満ちてこそ行動となる。また、愛は盲目です。愛という美しい言葉は汚染され、善悪の判断力が狂っているこの世です。だから、悪は憎み(身震いして身を避け)、善には傾倒しなさい。
また、勤勉で(テキパキと、それが愛の姿だと)霊に燃え(聖霊の満たしを受けて)主に仕えなさい。神の栄光にあずかれる私たちは希望にあふれ、祈りの力を信じて歩みましょう。

《愛には誠実であれ》2017年8月13日 飯飯塚俊雄牧師  

ローマ12:9〜12

 神の恵みに生かされている私たちの生活は神を礼拝する生活です。教会の場でどのように共同生活すべきでしょうか。まず、謙遜に続いて、パウロは愛の誠実について語ります。
いつわりという言葉は仮面をかぶるという意味です。神の愛は不誠実な私たちをどこまでも愛し、真実を貫く愛です。親に背いて家を出た息子を待ちつづけ、走って行って抱きしめます。この愛のお陰でペテロは立ち返りました。教会はこの愛による交わりの場です。

 さらに、悪は憎み、善に親しみなさいと。相手の心に踏み込まず、ほどほどに付き合う現代の人間関係でなく、傷つくことを恐れず、悪は悪として戒め、善を追い求めて切磋琢磨するのが本当の交わり(コイノニア)です。

 49年前、若枝をスタートするに当たって牧師夫妻が目指したのは、キリストの愛に根ざした愛の教会であった。神のみ前に裸になり、十字架の血によって赦され、潔められ、喜びと感謝を以て互いに愛し合う群れづくりでした。善に親しむとは、神のみ心を第一にの意味です。

《恵みの賜物を活かす喜び》2017年8月6日 飯飯塚俊雄牧師  

ローマ12:3〜8

 キリスト者生活の基礎は自分のからだを献げることです。つまり、恵みによる献身と生活の変革です。献身というと大げさに聞こえますが、キリストの死によって贖われた私たちが、神のものとなった自分を神に献げて生きるのは当然ではないかとパウロは言うのです。

 教会とは、キリストをかしらとする生命共同体で、その使命は福音の宣教です。教会を維持する力は聖霊に満たされた私たちが、賜物をフルに用いて主に仕える事です。
パウロはここで、まず謙遜であれと。

一、思うべき限度を越えないとは、神のみ前に自分の真相を認めることです。これは消極面です。積極面はお互いの賜物を認め合い、仕え合うことです。慎み深く考えるとはその事です。恵みによって今ある自分を忘れる時、人は不信仰、高慢、トラブルメーカーになります。教会とは、キリスト者お互いが与えられた賜物をもって他の人に仕える交わりです。この事が分かると奉仕に喜びが湧き、教会は一致し、力強く大きく前進するのです。

《揺るがない人生の土台》2017年7月30日 飯飯塚俊雄牧師  

ロマ12:1〜2

 私たちの信仰は神のことばという土台に建てられねばなりません。使徒パウロは一章から八章まで救いの教理を述べてきました。即ち、どんな人でもキリストの十字架による贖いを信じるなら、義と認められ、神に対する罪悪感から解放され、御霊によって罪の力にも勝利できるという個人の救いについてでした。九章から十一章までは全世界が救われるための神のご計画で、イスラエル民族も国を挙げて救われる日が来ます。それまで異邦人に福音は届けられねばならないと言う事でした。

「そういうわけですから」というのは、救いの喜びを具体的に生活に結びつけよという呼びかけです。「神のあわれみゆえに」とは、恵み溢れる救いを思うなら「あなたがたのからだ」を献げるのは当然でしょうという促しです。すでに私たちは神のものです。明確な決断を以て「神のもの」を神のものらしく聖別して頂きましょう。それが霊的礼拝です。
しかも生涯を通して継続して行く。キリストのみ姿になるまで日々に新たにされて。

《神に喜ばれる信仰》2017年7月23日 飯塚弘道牧師  

ルカ17:11〜19

 十人のらい病人が遠くから叫んだのは、近づくことが許されないからです。声を張り上げたのは、声帯がやられてしわがれた声しか出ないからです。「私は汚いです」の叫びが「憐れんで下さい」との切実な叫びに変わったのは、主イエスがそこに居られるからです。

 十人全部が癒されたのだが、本当の意味で救いにあずかったのはサマリヤ人だけだった。

 主に喜ばれる信仰の第一は謙虚な信仰である。他の九人はユダヤ人であり、「今までの苦しみを思えば癒されて当然」と思っていた。しかし、このサマリヤ人は「自分は癒されるべき何の資格もない」と自覚していた。

 第二に、彼は直りさえすればそれでいいというご利益を越え、癒して下さったお方との人格的な結びつきを求めている。主イエスと共にいる、その事を喜び感謝する信仰こそ本物です。

 第三に、神に栄光を帰する信仰です。神のみわざを認め、賛美と礼拝と感謝を献げる。彼は主の許に引き返し、み前にひれ伏す。主はその信仰こそが癒したと喜ばれた。

《あなたの青春の日にこそ》2017年7月16日 飯飯塚俊雄牧師  

エレミヤ1章

 エレミヤはエルサレムの北東6キロの町アナトテに祭司の子として生まれた。
二千七百年も昔である。祖国ユダがバビロンに亡ぼされ人民の大部分が拉致されるまで、つまりヨシヤ王の治世からゼデキヤまでの四十年余、国民の不信仰と偶像礼拝の罪悪を涙ながらに戒めたが遂に聞き入れられず、自分は暴徒によってエジプトに連れられ殉教の死を遂げる。真の愛国者の見本として幾多の勇者を生んだ。

一、若者には神からの召命がある。呼びかけに耳を傾けよ。神はわたしがあなたに備えた人生を生きてみないか、わたしにあなたを委ねてほしいと言われる。その声を聴こう。

一、神は若者にビジョンを与え、期待される。よし未熟であってもチャレンジ精神があればそれが若さの魅力である。キリスト者なら誰でも自分の出生の秘密を知っている。世界の造られる前からあなたを選んで神の子とされるという神の選びである。選びには使命が。

一、若者には、つまり誰であれ神に従う者には、共にいて守るという神の保証がある。

《私にあるものを上げよう》2017年7月9日 飯飯塚俊雄牧師  

使徒3:1〜11

 この男はいまやペテロの傍らに立ち、目を輝かせて証しする。「私は生まれてこの方、歩いた事もなく、毎日この美しの門に置かれても中に入ることが出来ず、自分に見切りをつけ考えることは僅かなお慈悲の事だけ。空しい日々でした。そこをお二人が来られ、『私たちを見なさい。お金はないが私にあるものを上げよう』とじっと見つめ、『ナザレのイエス・キリストの名によって歩け。』ぐいと私の右手をとって立たせて下さった。ああ、その時、足とくるぶしに力が入り、小鹿のように立ち上がり、飛びはねたのです。」「兄弟よ、それは主イエスの御名の力です。神としての権威が御名にはある。信じる者には今も復活昇天された主が共にいて働いて下さるのです」。

 現代の私たちは彼らのように「私にあるものを上げよう」と言えるだろうか。持っていなければ与えることはできない。与えなければ持っているものをさえ失う。ガリラヤ湖は清流を惜しみなく流すから漁業の宝庫だが、死海は貰うだけだから、文字通り死の海である。

《生きている教会のしるし》2017年7月2日 飯飯塚俊雄牧師  

使徒2:40〜47

 主イエスに代わる主と同じお方、聖霊の降臨により、ペテロは聖霊時代の開拓と、彼のメッセージに心刺された人々に、悔い改めとキリストのものとされたしるしに洗礼を受けよと告げる。こうして世界に教会が誕生する。

一、それは学ぶ教会であった。彼らは使徒たちの教えを堅く守る(42節)。今日の私たちは彼らに霊感を与え、彼らが書き残した聖書の権威を認め、それに従うことである。

一、交わりをし(42節)、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩むなら私たちは互いに交わりを持つ(汽茱魯1:7)。これをコイノニアと言う。キリストを共有する者たちが、三位一体の神と交わり、国籍を越えて寛大な心で支え合う愛である。

一、礼拝を生き甲斐とした。パンを裂くとは聖餐式、祈りとは祈りの溢れる礼拝、喜びと敬虔さがみなぎる臨在信仰に立つ礼拝である。

一、宣教(47節)。生きている教会とは、使徒たちとつながり、互いにつながり、神につながり、世界とつながり宣教に燃える教会である。

《新しいいのちに生きる》2017年6月25日 飯塚弘道牧師  

ヨハネ3:16

 主イエスは、国民的英雄と言われていた老ニコデモに、「人は、だれでも、新しく生まれ変わらなければ、神の国に入れません」と明言。驚嘆する彼に、追い打ちをかけるように「肉によって生まれる者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と断定され、その手法として「御言の水と聖霊によって」と言われました。この「新生」は神の奥義であって、ニコデモは「どうして」とか「どのように」と首をかしげるしかありません。しかし、神の側では一切をすでに準備し、モーセを通して、荒野で彼が竿の頂に掲げた蛇の事件も、やがて主イエスが架かられる贖いの十字架の予表であると告げられる。新生の必要性、新生の神秘性を語ったあと、新生の確実性として、父なる神が実に「御子」をさえお与えになった事実を、主イエスご自身が「まことに、まことに」と宣言される。その夜、理解できなかったニコデモも、三年後、カルバリの丘で十字架上、「完了」の勝利宣言を目の当たりにし、主を信じる者とされたのです。

《神の偉大な三つの賜物》2017年6月18日 飯飯塚俊雄牧師  

黙示録19:6〜9

 ただほど高いものはない。神は私たちが幸いな人生を生きるために不可欠なものを、私たちを愛する故に与えて下さいました。
 第一は、独り子イエスという賜物です。創造主なる神を無視し、罪を犯した私たちは霊的に神と断絶して居り、永遠に廃棄処分されるべきものとなりました。この恐るべき現実に無知・無自覚な私たちを神は憐れみ、聖なる御子イエスをこの世に送り、御子を十字架にさらすことによって、天下に私たちの罪を贖った事を宣言。私たちをあるべき真の人間に復権させて下さったのです。これが愛です。このキリストを救い主として内に持つ人生にこそ、祈りと感謝と歓喜は溢れます。

 第二に聖霊という賜物です。復活、昇天、主権の座に就かれた主イエスは、地上を去るにあたって、「ご自身と代わる、ご自身と同じお方である聖霊を送る」と約束、そのお方は共に居られるのみか、私たちの人格の内に宿って心を潔め、守り、支えて下さると言われ、ペンテコステの日以来、その約束は実現しました。
第三は永遠のいのちです。

《歓喜へのドアは開いている》2017年6月11日 飯飯塚俊雄牧師  

使徒2:22〜39

 約束の聖霊が下ったその日、ペテロは仲間たちと路傍に立ち、別人のようになって第一声を張り上げた。これが「キリストの福音とは何か」の明快なモデル説教である。

一、神はナザレ人イエスによって・・・。
福音とはイエス・キリストである。神は神でなければ出来ない力あるみわざで、イエスが神である事を証しされた。

一、神が遣わされたメシヤ、イエスは不法な者の手にかかり、十字架によって殺された。しかし、それは偶発的なものではなく、神の永遠のご計画に従って起こったものである。
 十字架とは、私たちを罪と死とサタンの力から解放するために、神なるお方が自発的にご自分を献げられた贖いの死だったのである。

一、キリストは旧約の預言の通り、死を破って復活された。私たちはその証人である。
今ここに立って語っているのも、約束の聖霊を頂いたからである。
人々は天地の主権者を殺した罪に、心を刺され、どうすべきかペテロに問うた。
「悔い改め、洗礼を受けよ」。

《あの日から人生が変わった》2017年6月4日 飯飯塚俊雄牧師  

使徒2:1〜4

 「わたしに代わるお方が来て下さるから」と言い残して昇天された主イエスを見送った弟子たちは、淋しい中にも「大喜びで」心を合わせ、祈りに専念していた。
ついに五旬節の日が来た。約束の聖霊は下った。聖霊時代の幕開けである。
では、ご聖霊はどのように。

一、聖霊は、「天から」来られた。
 父なる神のいます天から。み子なるイエスが昇天、着座された主権者の座から。聖霊に満たされた人が天的な品性を持つために。
 それまでの弟子たちは肉的、世俗的であったが、天的性質の人に変貌された。舟は水の中にあってこそ舟である。しかし水が舟に入っては沈むしかない。(ヨハネ17:14、16)

一、聖霊は焼き通す「炎として」来られた。
 がらくたも精錬すれば鋼鉄となる。自我の強い彼らも愛の人に。
(競灰螢鵐硲魁В隠検

一、聖霊は「宣教の霊」として来られた。
 彼らは、聖霊が話させる通りに話し出した。ペテロは、立ち上がり、声を張り上げ、はっきりと語った。教会が遂に誕生した。

《時代の風に向かう若枝》2017年5月28日 飯飯塚俊雄牧師  

ヨハネ14:16〜21

 主イエスは地上での生涯を終わるにあたり、十字架の死の前夜、大きな約束をされた。ご自分のご名代として、助け主なる聖霊が与えられるという。主イエスに代わる主イエスと同じお方。やがて世界に誕生する教会の原動力となって下さるお方、真理の御霊である。

一、聖霊は、別の助け主と言われる。(16)
「父はもう一人の助け主をお与えになる」。
 聖書を通して啓示された神は、そのご存在の内実として、父、み子、ご聖霊という別々のご人格が神秘的に一つとなられ、愛のうちに結び合わされ、それぞれの位格(ペルソナ)を高め合っておられる。み父は救いを計画され、み子は受肉、十字架、復活により贖罪を成し遂げ昇天、聖霊は私たちの内に完成へと続行される。

一、聖霊は親密なお方。「しかし、あなた方は知っている」(17)。私たちはこの方と知りつ知られつの人格的なお交わりが出来る。

一、聖霊は内住される助け主である(17)。私たちの肉体を神殿として内住され、栄光の望みとなられる。これを救いの奥義という。

《夜の訪問者》2017年5月21日 飯塚弘道牧師  

ヨハネ3:1〜8

 「この人が、夜、イエスのもとに来た」。この事実に私は感動します。ニコデモは、資産家でした。七十人議会の誇り高いメンバーでした。パリサイ人として神の律法を生涯守ると誓いを立てた真面目な人でした。しかも人生経験豊かな老人でした。

 その彼が、一介の若者でしかない主イエスに敬意を表し、夜、教えを乞いに来たのです。

 なぜでしょう。うめきにも似た魂の叫びがあったからです。自分の知識の力、努力ではどうすることもできない渇きがあったからです。きよくなりたい。でも、できない。愛したい。しかし愛せない。何のために生きるのか知りたい。しかし分からない。永遠に生きたい。しかしそれがどこにあるのか分からない。

 彼は自分に対して真実でした。青年イエスの中にある神秘的なものを認め、それを求めたのです。主イエスの答えは唯一つ。人はだれでも新しく生まれ変わらなければ神の国に入れません。神のことばを受け入れる時、聖霊によって、誰でも新生できるという事でした。

《いのちに学ぶ》2017年5月14日 飯塚俊雄牧師  

ルカ10:38〜42

 イエスさまのお出でを心待ちにしていたはずなのに、とんでもない失敗をやらかしたマルタはどんなにか後で悔やんだことだろう。

一、優先順位を大切にしよう。まず、み言葉に聴くことを生活の根底に置くことです。

 お出では予定されていたはずです、ある程度は二人で準備していたでしょう。でも主のお顔を見た時、マリヤはお話を聴く方をとり、マルタは台所に行かざるを得なくなりました。
すると忙しさのためにいらいらして来て、ドタバタと主の前に乱入。セルフコントロールが効かないのです。なぜか、自分の方法、やり方が中心となったからです。マリヤの肩にそっと触れて「ちょっと、手伝って」で済んだはずです。

一、み言葉はいのちを与えます。いのちは成長させます。「霊の乳」なのです。
一、み言葉は確信を与えます。み言葉は永遠の磐(いわ)です。み言葉は祈りへと導きます。み言葉は心をきよめ、力づけます。
まず、み言葉に聴き、一切を委ねてお従いする時、生活は整理整頓され、喜びと感謝が溢れます。

《どんな大人も昔は子ども》2017年5月7日 飯塚俊雄牧師  

マタイ18:1〜5

 天国で一番偉いのは子どもです。だれでも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国へは入れません。

幼な子のようになるとは。幼な子の特徴は
一、受け入れやすい心、受容力です。大人には先入観、偏見、自尊心がある。これに比べて幼な子は何でもスポンジのように吸収する。

一、信頼する心。親の腕に抱かれたら、周りがどうあろうとぐっすり眠る。その信頼しきった顔。彼らには金も力も権力もないが、この心があるから恐ろしいものなどない。

一、求めてやまない渇きがある。欲しいものが得られるまで求め続ける。

これら三つの美点を貫く姿勢を、主は自分を低くする(謙遜)と言われる。しなやかさである。新鮮な驚きである。だれが一番偉いかの議論は主が栄光の姿に変貌された山頂に、ペテロら三人だけが同伴された事件のあと起きた。この議論の根っこには自己主張、ねたみ、苦々しさがある。しかしペンテコステ後の彼らからは、全くそれらが消えていて実に美しい。

《私たちの生ける希望》2017年4月30日 飯塚俊雄牧師  

汽撻謄1:3

一、キリストの復活は、神による逆転判決である。当時のユダヤ人指導者たちやピラトは、主イエスにあらゆる侮辱を加えて十字架につけたが、神には人類を救う永遠の目的をその『死』に託しておられたのである。

 復活の主にお会いした弟子たちは、ペンテコステの日、聖霊に満たされて力ある証人となった。「このお方以外に救いはない」、確信に満ちた使信(メッセージ)は二千年後の今日まで届いている。

一、主の復活こそ私たちの犯した罪を神が完全に赦して下さることの保証である。死の前夜、主は「これは多くの人の罪を赦すために流す私の契約の血です」とご自分の死を私たちの罪の赦しに結び付けておられる。

一、主の復活は信じる人に働いて、私たちを造り変える力となっている。(エペソ1:19〜20)

一、主の復活は、私たちに生ける希望を与える(汽撻謄1:3)。私たちに神は主の復活の姿と同じ栄化の約束をしていて下さる。さらに、罪に汚れた宇宙そのものが変貌して「新しい世界となる日が来る」(マタイ19:28)

《復活の主イエスを信じる》2017年4月23日 飯塚弘道牧師  

ルカ24:1〜12

 クリスマスはだれでも知っているのに、もっと大切なイースターを知らないのはなぜでしょう。救い主イエスは十字架上で死なれましたが、三日目に復活されたのです。

 最初の復活節の朝早く、数人の女性がほの暗いエルサレム郊外の道を墓へと急ぎました。心は悲しみではり裂けそうでした。もう二度と主にはお会いできないのです。絶望的な心をどうすればいいのでしょう。現代も多くの人は見せかけの幸福を追い求め、空しさにあえいでいます。昔も今も、その原因は希望の根源であるイエス様がいないからです。

 墓の墓は空っぽでした。彼女らは途方に暮れました。うろたえました。

 現代人も主イエスの復活を聞くといやがります。しかし、主は私たちの罪の身代わりとして死なれ、その赦しの完成の証拠として復活されました。私たちは全能の神がなさったこの事実を信じましょう。主は今も生きておられます。いつまでも墓に向かって立っていてはなりません。主の約束の言葉を思い出して、信仰に立つべきです。

《臨在の主と進み行こう》2017年4月16日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ20:19〜23

 キリストの十字架の死を敗北と思った弟子たちは虚脱状態であった。ユダヤ人を恐れ、戸を閉じ肩を寄せ合う彼らの真中へ、突然、復活の主が立たれた。事態は一変した。手には生々しい傷あと。「平安あれ」の力強い一言。彼らは「主を見て喜んだ」。驚嘆、歓喜、狂喜、そして礼拝。それが二千年後の今日まで続いている。バックストン先生は言う、「甦られた主イエスは、贖いの血潮を携えて今もこの場に立っておられます」。これがここで私たちが礼拝を捧げる理由である。

 弟子たちの喜びは、主が共にいて下さるのだという臨在信仰となった。さらに、この歓喜を万民に知らせる使命まで託された。その使命を果たすためには「力」がいる。

 だから主は「聖霊を受けよ」と命じられ、息を吹きかけられた。息とは神の霊である。五十日後、この予表の通り、天から聖霊は彼らに下り、内に宿り、彼らは霊に燃える者と変えられた。「無学の凡人」が、「天下をひっくり返す」わざを成し遂げて行く。

《十字架上の七言》2017年4月9日 飯塚俊雄牧師  

マルコ15:33〜38

 福音書を主イエスの伝記と言うなら、余りにも不思議です。ヨハネなどは最後の一週間に半分ほどのページを割いているのです。それは主の生涯は十字架と復活が中心だからです。主を十字架に追いやった人たちの醜い人間関係が記されていますが、主は「だれも私からいのちを取った者はいない。わたしが自分からいのちを捨てるのである。わたしにはその権威がある」(ヨハネ10:18)と言います。

 主が架上で語られた七言は「父よ」の執り成しで始まり、「父よ」の祈りで終わります。特に第四言、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニの悲痛な叫び、これこそ神なる人間イエスが父なる神に捨てられ、地獄の底の恐怖を味わったぞとの極限の苦悶、人類の罪の身代わりが成就し、贖いが完成したとの叫びです。だから、第六言で「完了」の勝利の歓声を主は全身の力をふりしぼり、全世界に響けとばかり絶叫されたのです。第七言、うれしそうに祈りの姿勢で首を垂れ、受肉来世の使命を果たされ、満足され、霊をお渡しになりました。私たちは死で人生を閉じますが、主は「死」で始めるのです。

《神に生きる者の喜び》2017年4月2日 飯塚俊雄牧師  

ロマ12:1〜2

 「そういうわけで」で始まる章は、使徒としての権威に裏付けられた優しい「お願い」です。その土台は1章から11章までの福音の恵みであり、選びにあずかった人の使命感です。
第一に、「兄弟たちよ」の呼びかけにはもはやキリストに結ばれたならユダヤ人も異邦人も一体であるという事実があります。

 第二に「そういうわけで」には神のあわれみが充満しています。聖なる神が罪に汚れた私たち滅びるべき者たちのために「死なれた」事実は、憐み以外の何ものでもあありません。

 第三に、だから、この憐れみ(恵み)に応えるのは当然です。それは礼拝となります。その礼拝には日々の実生活が神第一という筋が一本貫かれています。すなわち、理性や情緒だけでなく「からだ」そのものを献げる歩みです。それこそ聖い(神に聖別された)、生きた香ばしい犠牲です。

 このレベルを歩むのだと決意しよう、霊の一新によって。流れ行くこの世の型にはめ込まれてはなりません。神のみ心を分別して生きる者こそ永遠の勝利者なのだから。

《むりやりの恵み》2017年3月26日 飯塚弘道牧師  

マルコ15:12〜22

 遠い北アフリカのクレネから、過ぎ越しの祭りを見るためにやって来たシモン。
その日彼が見たのは、重い十字架をかつぎ、顔には血と汗とつばきを垂らしながら、よろよろとゴルゴタまで上って行くイエス様の姿でした。
なんと痛ましいことよと見ていると、ローマ兵が「おい、そこの黒いの、お前がこの十字架かついでやれ」。何と言うことか。

 むりやり負わせられた彼は、十字架につけられたイエスの「父よ、彼らを赦して下さい」の祈りに胸打たれ、「すべては完了」の叫びを聴き、初めて十字架の意味を知り、キリスト者となります。ペテロの弟子マルコはこの福音書を64年頃、ローマ人(つまり、異邦人)のために書きましたが、その教会にはアレキサンデルとルポスという有名な信者が居りました。

 私たちの人生には、必ずローマ兵の顔した苦難がむりやり十字架を押しつけますが、それはむりやりの恵みの姿なのです。
シモンはどんなにか、あの日の十字架を負わせられたことを感謝したことでしょう。

《たましいの叫びを聞こう》2017年3月19日 飯塚俊雄牧師  

哀歌1:20

 現代人は一番大切なたましいのケアを疎かにして、人間の外側にだけ重きをおいています。人は単に肉体と精神だけでできているのではありません。神がご自分のかたちに造られた、たましいというものを私たちは内に持っているのです。たましいは、たましいを創造された神との交わりを切望しています。それは、神を心に留め、感謝し、祈り、語り、礼拝する時間にほかなりません。

 私たちは身体が食物なしに生きられないように、たましいも日々養われねばならないのです。それをしないとたましいは弱り、しなびて、何をしても不満足でイライラします。このたましいの泣き叫びを静めようと、あれこれしても、私たちは依然として空虚です。

 なぜなら、創造主なる神は、ご自分のために私たちを創られたからです。自分はこれでいいと思っている人ほど空虚は人はいません。致命的な病に冒されながら、自分は健康だと思っている人ほど病んでいる人はいません。心も体もたましいも一つでこそ健康なのです。

《神こそすべてのすべて》2017年3月12日 飯塚俊雄牧師  

ローマ11:25〜36

 私たちの「若枝教会」はこのたび世界宣教の使命をさらに推進する決意を新たにしました。かつて安海靖郎師を送り、アンテオケ宣教会を設立し、アンジュガンに神学校を建てたのも、私たちの祈りと献げ物の実です。すでにネパールはウンブの地に森敏先生らの働きは根を張り、ミシル賀川先生夫妻の働きはチベットに進んでいます。
「この福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます」(マタイ24:14)

 今日までイスラエルが福音を拒否してきたのは、異邦人が福音によって救われるさまを見て、彼らにねたみを起こさせ、終末を前に彼らも福音を求める日が来るためです。異邦人である私たちは、いわば野生のオリーブです。栽培された良質のオリーブであるイスラエルを折ってまで、神は台木に接がれたのです。
私たち野生のものはここに神の慈愛と厳しさを見、謙虚でなければなりません。
歴史を支配される神の奥義を知らされた私たちは宣教の使命に燃えねばなりません。

《神の慈しみと厳しさ》2017年3月5日 飯塚俊雄牧師  

ローマ11:1〜24

 神の選民とされたユダヤ民族は、約束のメシヤ(救い主イエス)の到来を承知していながら、拒絶して十字架につけ、復活の告知を聞きながらも依然として、民族挙げて今に到るまで受け入れない。果たして彼らはキリストを拒み続けながら亡んでしまうのか。これはユダヤ人であるパウロ本人にとって深刻な問いであった。

 9章では彼らが心頑なさの責任は彼ら自身の自由意志にあると言う。にも拘わらず、神は摂理を以て全世界の救いを達成される。

 10章では、救いの普遍性を語り、主の聖名を呼び求めるなら、どんな人でも救われる。神は反抗的な民にも常時み手を延べておられる。こうして、神はユダヤ民族を捨ててしまわれたのかと問い、絶対に「ノー」である。その証拠にユダヤ民族の一人である自分もすでに救われているではないかと叫ぶ。

 私たちの日本も宣教150年の今日、クリスチャンは人口の1%にすぎない。でも、自分が救われている。そして若枝があるではないかと自覚し、日本のリバイバルのために祈ろうではないか。

《救いの普遍性》2017年2月26日 飯塚俊雄牧師  

ローマ10:11〜12

 キリスト教はキリストです。キリスト教の信仰は私たちが神のために何かをするのではなく、神が私たちのために大切なことをして下さった事に重点を置きます。

 神は私たちを愛の対象として造って下さり、人格を与えて神といのちの交わりができるようにされました。この神の心をふみにじり、背を向けて生きることを「罪」といいます。罪の報いは永遠の滅びです。この事実を歴史的絵画として示されたのがイスラエル民族の生き方です。彼らはこの神のために義(ただ)しく生きるために選ばれたのを知りながら、神が用意された交わりの道を捨て、自分流の義で生きようとして失敗したのです。そのため神は、み子キリストをこの世に送り、だれであろうとキリストの十字架と復活に基づいた贖いを受け入れる者を義とすると宣言されました。

 キリストの生涯は次の四点が明確です。(1)罪を赦す権威、(2)いのちを与えて永遠を保証すること、(3)わたしが真理であると真理を見せたこと、(4)万人を審判される神であること。だから救いは普遍的です。

《小さき者を用いる神》2017年2月19日 飯塚弘道牧師  

粁鷁5:1〜16

 主は小さな存在を大切にされ、栄光を現すためにお用いになります。少年が献げた五つのパンと二匹の魚で何千人もの人々を養われました。エルサレムにご入城された時には借りものの小さなロバでした。ここに登場するのはイスラエルから拉致され、敵国シリアのナアマン家の奴隷となった少女です。しかし彼女は英雄ナアマンがらい病に苦しむ様を見て、「もし、ご主人様がサマリヤのエリシャ先生の所へ行かれたら、きっと直ります」。

 この一言が彼を動かし、彼はサマリヤに出かけます。私たちも確信ある一言を言いましょう。「教会へ行くならきっとあなたは救われます」。エリシャは言います。「ヨルダン川に七回身を浸しなさい」。らい病を病む身にとって、これは余りにも単純な言葉ではないでしょうか。彼が腹を立てて帰ろうとしたのも頷けます。しかし彼は思い直して、その通りやってみたら完全に癒されたのです。キリストの十字架もそうです。愚かしく見えても信じた人にだけ神の力が分かるのです。

《神のみことばに立つ》2017年2月12日 飯塚俊雄牧師  

ローマ10:1〜13

 不思議なことがあるものです。「義を求めなかった異邦人(つまり、私たち)が義を頂き、イスラエルは、義を追求しながら獲得に失敗したのです」。なぜか。彼らはキリストの贖いを信じるだけで義としてあげるという神の恵みを拒否し、自力で到達しようとしたからでした。つまり、神の恵みの手段であるキリストなる岩につまずいたのです。

 キリスト教とはキリストご自身のことです。神はキリストによって私たちと交われる道を用意して下さいました。そのために私たちの犯した罪の問題を処理する必要があり、十字架の死で身代わり(これを贖いと言う)となられたのです。キリストはすでに地獄にまで下って復活し、昇天して神の座に居られるので、人間はただ神のみことばを信じるだけでいいのです。キリストご自身が律法の終わりであり、私たちに内住して律法を完成して下さるのです。

 キリストは神のことばが受肉したお方で、私たちに見える神となられました。
私たちは聖書を通し、説教を通して神を確認できます。

《神の主権とあわれみ》2017年2月5日 飯塚俊雄牧師  

ローマ9:1〜33

一、イスラエル民族の特権(ローマ9:4〜5)
 彼らには、名称からして「神の皇太子」(イスラエル)であり、子としての立場が与えられ、神との契約を結び、神を礼拝する民であった。それらは今、新しいイスラエルとされたキリスト者が引き継いでいる。私たちは十字架によって罪赦され、聖霊に満たされ歩む神の民である。

一、主の主権と選び(ローマ9:14〜23)
 私たちが信仰が分からない時分、自分が主イエスを選んで信じ、神のものとなったと考えていた。しかし実はその逆であって、神が主権者であり、私たちを永遠の初めから愛をもって選んでいて下さったと知り、深い感動と選ばれた者の使命感に目覚める。神の主権は愛とあわれみである。陶器師が粘土で思うように造り上げるように、主のみ姿にまで練り上げようとされる。そのあわれみは今や異邦人の私たちにまで及んだ。

一、異邦人の救い(ローマ9:24〜33)
 ユダヤ人はキリストにつまずいたが、それは信仰によって与えられる神の義を求めず、自力で律法を行おうと、十字架による救いを拒んだからである。

《神の選び》2017年1月29日 飯塚俊雄牧師  

ローマ9:6〜18

 「神は愛だ、真実だと言うなら、神の民として選ばれたわれらの祖国イスラエルは何とみじめなのか。いつまでローマの属国なのだ。どうして一度選んだ神の民を見捨てた状態にするのか。」当時、多くのユダヤ人はパウロに向かってそう迫った。約束に対して神が真実でないとしたら一章から八章までの福音の力さえ砂上の楼閣となる。そこでパウロは九章から十一章で、神の真実は歴史の中ですでに証明されていると力説する。永遠から永遠まで歴史を支配される神には遠い見通しがある。決して神の選びは廃ってはいないと。

 これはユダヤ人だけの話ではない。私たちも近視眼的になりやすい。お祈りしたけどだめかもしれないなどと思ってしまう。神の恩寵は遠大のものである。九章一、二節、十章一節に見るパウロの同胞への熱情。やがて救われる異邦人の数満ちるその時(11:25)今離散しているイスラエル民族も救われるようになる。キリストの救いは自分や自分の家族の救いだけで満足させるようなものではない。

《門は開かれている》2017年1月22日 飯塚弘道牧師  

黙示録3:7〜13

 聖なる方、真実なる方、ダビデのかぎ(救いと亡びの最終決定権)を持つお方と言えば主イエスである。このお方が「見よ。わたしはだれも閉じることの出来ない門を、あなたのために開いておいた」と言われる。

一、救いの門。だれにでも開かれています。神はすでにみ子イエスを私たちの代わりに十字架につけ、その死を自分のためと信じる者を赦し、永遠の救いに入れて下さいます。

一、救霊の門。救われたのは他者を救うためです。やがて主の御前に立つ日、私たちはどのような申し開きができましょうか。

一、可能性の門。私たちは死人をさえ甦らせる全能の神を信じているのです。神の栄光のために、信仰をもって大胆にチャレンジするべきではないでしょうか。

一、天に開かれた門。パトモスの島に流された晩年のヨハネが見たのは天に開かれた栄光への門であった。私たちもやがて「ここに上れ」との御声に喜び勇んで上るのである。その時までお互いに励まし合い善戦しよう。

《万物の上にいます神キリスト》2017年1月15日 飯塚俊雄牧師  

ロマ9:1〜5

 神はキリストの贖いの血によって、罪人を義とする道を開き、聖なる者と造り上げて下さる。聖霊も内に宿り、祈りを助け、執り成される。もはや神の愛から私たちをひき離すものはない。圧倒的な勝利者である。と叫んだパウロの心には一点のかげりも見えない。

 それが八章まで、この手紙の前半である。ところがここで一転、彼の顔はくもる。それは神の民として選ばれたはずのユダヤ人が、なぜ神から遣わされた救い主を十字架にさらし、心頑なに受け入れないのか。万民のために福音の宣教に挺身するパウロをかくも迫害するのか。彼は絶えず心を痛め悲しみ、彼らが救われるためなら、自分がキリストからひき離されてもいいとさえ思う熱情を吐露する。

 この悲劇的なユダヤ人の現実を神はどのようになされるのか。ここに神の歴史哲学がある。福音はユダヤ人の枠を越えて異邦人にまで宣べ伝えられねばならない。だから排他的なユダヤ教と区別されねばならぬ。福音が全世界に届いた暁に彼らもまた入信するに至る。

《十字架の傷は語る》2017年1月8日 飯塚俊雄牧師  

汽撻謄1:18〜19,2:21〜25

 ペテロがキリストの十字架を語る時、目に涙をためていたろう。彼がキリストの神性を告白した後のこと、主イエスが十字架の死を語り出すと、途端に心が凍りつき、主よ、とんでもありませんと主をたしなめた。すると「サタンよ、退け」ときつく叱られた。

 彼は十字架を恥とした人である。三年後、彼はイエスが辱められ十字架で死ぬ姿を見て失望し、仲間と共に逃亡した。

 彼は、主の十字架を敗北とした人である。その彼が深い感動を以て、主の十字架こそ神の栄光であると告白する。彼は復活の主に向き合い、昇天される主を仰ぎ、命じられた通り、祈り待ち望み、一切を主に明け渡し、約束の聖霊に満たされたからである。

 十字架は、神の犠牲の愛のしるしである。この愛を知ってこそ、人は人生観が一変する。神の家族となり、神を父と呼び、栄光の御国へと歩む巡礼者になる。さらに、十字架は人生に革命を起こす。自我内閣が総辞職し、聖霊首班の内閣が樹立。主に従う人生こそ最高。

《主に従う》2017年1月1日 飯塚俊雄牧師  

汽撻謄1:1〜3,14,15,22

 この手紙の著者はペテロその人です。かつては、主の十字架を屈辱、敗北と見做し拒絶した人です。その彼が十字架こそ神の栄光、永遠の愛の勝利であると叫び、毅然として十字架を負いつつ、神に従うようにと迫るのです。福音とは、キリストの十字架の血による罪の赦しと聖霊の交わりです。平安と力を内に持つ人はいかなる試練にも生きた希望によって自分の霊性を甘美なものとします。

 私たちもみ言葉に立ち、神に従おうではありませんか。祝福の原則は「われに従え、そうすればいのちの光を持つ」にあります。そのためにこそ私たちは選ばれました。どんなに失敗してもアブラハムは従い切りました。だから信仰の父とされたのです。

 しかし、神への完全な従順は主イエスです。私たちを愛する余り、栄光の座を捨てて十字架にまで従い抜かれました。「主が神であり、私のために死んで下さったのなら、私が主のためにどのような犠牲を払おうと払いすぎることはない」と言う人が後を絶たないのです。

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