東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ
2018年 2017年 2016年

■中川伝道所メッセージ
2018年 2017年 2016年

《変わらない主のご愛》2017年12月31日 渡邊泰範牧師  

ヘブル人への手紙13:5〜8

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」(ヘブル13:5)

<はじめに>
 この世の中は実に変化が甚だしく、喧噪と悲しさと困惑に満ちています。主ご自身が告げているように、世界中いたる所で「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」(マタイ24:7)戦争、地震が起きています。

そのような私たちを取り巻く環境の中で、変らない生けるお方、慰め主、主イエス・キリストが居られます。主エスは一度、私たちを救うために世に来られ、私たちの罪を赦すために十字架に殺されたが、復活し、主を信ずる者に、心に住み、いつも私たちのそばに居られます。主は私たちを愛して、
『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』(ヘブル13:5)と、約束されています。

1、変らないお方イエス・キリスト

世も人も環境も変りやすい人生にありまして、変らないお方さまはイエス・キリストです。
イエス・キリストを心に迎え、信頼して行く人生は、何と幸いなことでしょうか。金に頼りましても、いつのまにか、翼(昔、日本人はお金のことをオワシと言っていました。)をもって、お金は鷲のように何処かへ飛んでいってしまうものです。

自分の健康も、自分の経験も、あてになりません。また人もあてになりません。皆さんは、誰をあてにして生きておいでになりますか。
あらゆるものは変化します。しかし、主イエスの十字架上で成し遂げられた、我らの罪の赦しの贖いの愛は変わらないのです。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル13:8口語訳)
主イエスは今も、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。主ご自身がこう言われるのです。』(ヘブル13:5)と言われます。

以前、塩屋聖会に導かれて、小島伊助師を訪ねた時、歓談後、玄関に来られた先生に「さようなら」と、挨拶を交わしたら、先生は玄関の上の壁を見上げるように手まねきする。そこに、綺麗に刺繍された、"I will never leave you nor forsake you."(私は決して“さようなら”を言わない。;小島師の意訳)
と、このヘブル13章5節の英文字が目に留まった。
何という有り難い、驚くべき神の約束の言葉でしょうか。いつまでも変らないお方はイエス・キリストです。

2、救い主、イエスを信じ、心に迎えよう

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
主イエスを信じる者が救われるのです。しかし、信じない人にとっては何の力もありません。
イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37、38)

だれでも、渇いて、イエス様のところに来て、信ずる者は、渇きが癒されるだけでなく、イエス様が命となって、流れ出るように、満たされると、約束しております。

《神は私たちと共におられる》2017年12月24日 渡邊泰範牧師  

マタイ1章18〜25節

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイ1:23)

<はじめに>
 このみ言葉は旧約聖書イザヤ書7章14節の預言が成就したことです。 「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
処女マリヤにキリストが宿られたことは秘蹟(神の恩寵;サクラメント)であります。
しかし今は、キリストを信じて、救いを受け入れた者には、信仰により、聖霊により、キリストは老婆にも娘にも男子にも、私たちの内に宿られるのです( 内住のキリスト)。
これは信仰の奥義と言われます。過去の歴史の上に起きたイエス・キリストの降誕という事実が、今や私たちの実際的経験の中に起らなければならないのです。

1、処女降誕;キリストの来臨、キリストの先在性

 第一テモテ1章15節に「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」と、ありますようにキリスト・イエスは父なる神の御許から来られたのです。
「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイ1:20)
クリスマスといえばマリヤの処女降誕が問題になりますが、キリストの先在性(父なる神の御許から来られたこと)が信じられれば、これはむしろ当然の事であります。神はイエスに母を与えたが、父は神自らが父にておられたのです。

2.罪からの救い主、イエス・キリストの誕生

「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)
クリスマスといえばプレゼントであります。それはクリスマスにお生まれになったイエス・キリストが、神から人類への大きな贈物であったことに始まります。今年も巡り来たこのシーズンに、本来のプレゼントにあずかりましよう。
「そして女に、『あなたの罪は赦されています。』と言われた。」(ルカ7:48)
ご在世中から、イエス・キリストの大きな恵みは赦罪(罪の赦し)の贈物でありました。
イエスとは「罪から救う者」を示す名であります。このキリストは、私の救い主であり、また、日々私と共にいます主でおられます。
「キリスト」とはヘブル語の「メシヤ」と同意義のギリシヤ語で、「油注がれた者」の意味です。ユダヤでは昔、王や祭司や預言者は、油を注がれてその職に任ぜられました。
キリストは、人の心を治める王であり、人のために祷告し、とりなす祭司であり、また神の代表人として教える預言者でありました。その名は、この三つの職分を持つ救い主であることを示しています。

《主の臨在の喜び(詩篇23篇)》2017年12月17日 渡邊泰範牧師  

詩篇23:1〜6

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23:1)

<はじめに>
 主の聖霊の賜物である、わが内にいます「主の臨在」を喜び、賛美します。昨朝、この主の臨在の恵みで、目が覚めた。『彼の臨在は救いなり』(詩篇42:5欄外、英欽定訳)私の臨在の喜び、臨在の救いの体験は詩篇23篇に導かれました。

1、主の臨在の喜び

 “主の臨在の喜び”(主がいつも共にいますこと)を詩(うた)っている讃美歌は527番です。原歌は英語で11番まで唄われています。
その内容は詩篇23篇の恵みを基調とした、体験を詩っています。
その背景に、ダビデが経験した若き時の羊飼い経験、晩年を思わせる、主の恵みを賛美しています。
「主の臨在の喜び」に与かる秘訣は自己破産ともいうべき、全く主に委ね、明け渡すことです。
私たちのクリスチャン生涯に試練はつきものです。
その時、讃美歌527番でも賛美しているように、“♪悩みの時、主に呼びかける”(日本語の訳詞にはありません)ことです。
モーセは主に選ばれ、遣わされて、荒野でイスラエルの民をエジプトから導き出しました。
ところが民の不従順で、大きな試練に遭いました。
その時、モーセは主に食い下がるように主に願い、
「主の臨在」の約束を勝ち取りました。
 『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』(出33:14)

2、主の臨在に与った恵み(主は私の牧者)

私は若い時、日曜学校の奉仕に励んでいる時、弟から借りた高価なスポーツタイプの真新しい自転車が一瞬の隙をついて、盗まれてしまいました。
信仰に反対されてきた両親にお詫びし、弁償は致しましたが、神様に泣いて祈りました。
神様は即座に『主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。』と、大変慰めをもって強く臨んでくださいました。また、『生涯、全責任をもって守ってあげる』と、み言葉を悟らせて頂きました。救われて間もなく、経験した悲しみは、大いなる主よりの慰めのメッセージとなりました。

3、詩篇23篇にみる主の臨在の恵み

 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)
クリスチャン生活には世にあって、多くの戦いがあります。失敗、失意、落胆、体の弱さがあります。
しかし今日も、その戦いのさ中にあって、失意どん底に陥っている時も、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と、神さまは聖霊を通して、静かに私たちの霊魂に語りかけ、主の臨在に導かれます。
C・Hスポルジョンはこの詩篇23篇を「小鳥の中のナイチンゲールに相当するものだ。」と言っています。 
夜、美しい声で鳴く、ナイチンゲール(和名;サヨナキドリ 小夜啼鳥)のように、泣いて夜を過ごす多くの悲しむ、聖徒の耳に、この詩篇は心地よく響いて、希望を与え、喜びの朝を迎えさせてきたからです。
私たちはこの世の生涯を終えると、主の家、永遠の住まいが用意されています。(6)正に詩篇23篇は天国の牧歌です。

《一人を遣わしたまえり(クリスマス)》2017年12月10日 渡邊泰範牧師  

詩篇105:17

「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。」
(詩105:17)

<はじめに>
 旧約は新約の根幹と言われます。旧約がなければ新約はないのです。しかし、新約の光によらなければ旧約はわからないのです。新約の光は罪の赦しから始まり、親しく主の御顔を仰ぐ新しい契約の恵みを体験する時、十分な旧約理解が私たちの心に開けてくるのです。
 旧約にはいろいろなひな型、影、予表があります。主イエスのひな型として味わわれる幾多の人物がいますが、そのうち最も完全な人物はヨセフでしょう。
  
1、クリスマスはイエスのこの世へのご派遣

 ヨセフは兄弟たちに妬まれ、人買いに売られてから10数年の苦しみの後に、ついに光栄の位に据えられて同族の救いとなったのです。
み言葉はこれを、神が「彼らの前に一人を遣わしたまえり!」と要約しています。
クリスマスはイエスのご誕生です。しかし、『救い主、イエスはお生まれになった』(ルカ2:11)と、共に『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』とあります。(汽謄皀藤院В隠機
またイエスは、この末の時に『キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身を生贄(いけにえ)として罪を取り除くために、来られたのです。』(ヘブル9:26)とあります。
ついには『しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。』(ヘブル9:26)とあります。
クリスマスは救い主イエス・キリストのこの世へのご派遣であります。

2、ヨセフ売られてしもべとなる

 ヨセフが売られてからの総ての苦難がこの一句の中に約言されています。それはそのまま、この世に遣わされた救い主イエスの一切の苦難を連想させてくれます。
『彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。』(詩篇105:19)
このことは、いうまでもなく栄光への道であった。
ヨセフの生涯にこのことが分かりやすく描かれていますが、これはそのままに、否、比べられないほど崇高に、主イエスの上に現わされています。
 民に先立って苦難(十字架)のために遣わされた主は、民のために栄光(復活)の座に着かれたのです。
 パロの位に座して救いを施したヨセフの姿は、今、父なる神の大権の右に座して全き救いを成就した主のひな形です。
 クリスマスの本当のプレゼントは父の栄光の御救いです。神はこれこそ、一人一人に与えたいのです。

3、ヨセフは泣いた

 兄弟たちの不信がヨセフを泣かせた(創世記50:17)。ヨセフはすでに兄弟たちを赦し、忘れ、何とも思っていないばかりが、どうしたら最も幸福に彼らを住まわせることが出来るか心を砕いているヨセフの想いと、あまりにもかけ離れた兄弟たちの浅はかな姿に泣いたのです。
 罪を悔いるのはいいが、しかし主の完成された贖いの御血の功をどれほどに評価しているであろうか。

《われらキリスト者の責任》2017年12月3日 渡邊泰範牧師  

コロサイ1章24〜29節

「神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:25)

<はじめに>
 前回はキリストの優越性について学びました。
「御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」(1:18)
それではキリストのしもべである私たちはどうあるべきか。その責任とは何か教えられましょう。まず、この手紙がローマの獄中から送られたものであることを心に覚えましょう。

1、私たちキリスト者の責任

 パウロは、エパフラスにより伝えられたコロサイ教会の事情を聞き、牧会者としてパウロの果たすべき責任は、「神のことばを余すところなく伝える」ことを伝えました。(25節)“to make the word of God fully known. 神のみ言葉を完全に分からせること”です。
 福音に二つはないのです。罪人向けの福音とか教会用の福音などない。福音は一つである。福音には高さがあり、深みがあり、幅もあります。だから、私たちはこの福音の高さ、この深み、この広さをしっかりと伝えねばなりません。

 パウロはすべての福音を伝えて来たのです。
「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:27)
 信仰による義認だけではなく、聖化の恵みも伝えたのです。御霊による新生の恵みだけではなく、聖霊に満たされる歩みも伝えたのです。
 健全な教理だけではなく、同時にキリスト者としての社会活動も伝えたのです。

2、福音宣教には犠牲が伴う

 私たちの責任、「神のことばを余すところなく伝える。」この任務を完全に遂行しようとすれば、必ず犠牲が伴います。
「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)
 この場合の「キリストの苦しみ」は十字架上のキリストが私たちを贖うために受けた苦しみではない。主は嘗て、「あなた方はこの世にあって苦しみを受けるであろう。」と言われた。その意味です。

3、神の奥義なるキリスト

 パウロはその任務の具体的な内容として神からのメッセージ、神の啓示として、「神の奥義なるキリスト」、それは、「あなた方の中に居られるキリスト、栄光の望みです。」と言っています。

「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。」(コロサイ1:26)
「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)

 「あなた方は聖書に永遠のいのちを求めるけれど、聖書は私について証しするものです。」と言われました。
私たちを救う神の言葉は受肉された神のことば、すなわちイエス・キリストです。私たちが伝える神の言葉は受肉された神の言葉、私たちの内に居られるキリストご自身です。

(2017.11.1聖書研究祈祷会 飯狃嗟此)匯奸\盒詰彁檗

《しもべになられた主イエス》2017年11月26日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる福音書13:1〜35

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13:1)

<はじめに>
 主なるイエスさまは数時間後に迫った、死刑の宣告を受けるために、裁きの庭にお立ちにならなければなりませんでした。そのことを覚えて、イエスは弟子たちを極みまで愛され、万物の主権者として任せられたイエスはしもべのお姿となられたのです。

1、主はしもべとなられた

「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、」(3節) 
イエスさまは父なる神から出て、神に帰ることをご存知でした。しかし、主は「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(4節)とあります。実に神の御子、父なる神から万物の主権者として任せられた、主なるお方がしもべのお姿となられたのです。

この最後の晩餐の席は借用したものですから、彼らを家に招いた主人役という方はいません。もし宿屋の主人がいましたら、しもべたちに命じて、当然うやうやしく、主イエスと弟子たちを迎え、塵埃にまみれた足を洗ってくれたでしょう。
このような時には、弟子たちがお互いに足を洗い合うのが礼儀です。しかし彼らは、「誰が偉いのか」と口論していたのです。(ルカ22:24)
そこで主イエスがこの上もなく、しもべとなって、尊い模範を示さました。

2、主が弟子たちの足を洗う

主が弟子たちの足を洗った点について三つのことを考えてみましょう。
・第一は驚くべきことに、主権者、王なる最も力あるお方が、最も弱き者の如く、奴隷の如く、しもべとなられた事です。奴隷の姿をとられ、しもべとしての前掛けをおつけになりました。たらいに水を汲み入れ膝まずきました。いと高き方がいと低くされました。
・第二はこの主の行為をめぐって起こった論争です。シモン・ペテロの番になって、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」(6節)と言ったのです。ペテロは自分が到底、イエスに足を洗って頂く資格のないことを考えて、お断りしたのです。
しかし、ここで重要なことを学びたいのです。受ける資格のないものに与えられる好意、それは恩寵です。
この神の恩寵に対して、ペテロはいかなる態度をとるべきでありましたでしょうか。それはただ「受ける」ということなのです。
何の資格も、権利も、功績もないものに与えられる、それが神の恩寵です。罪の赦しの恵みもその通りです。 
恩寵の前に、私たちのとるべき態度は「感謝して受ける」こと以外にないのです。
 いまや、主の諭によりペテロは砕かれました。
・第三の点は私たちへの主イエスのご要請です。
主であり、師であるイエスがしもべとなって、弟子たちの足を洗われたように、主の示された模範に倣い、
あなた方もへりくだって、互いに仕え合い、「互いに愛し合いなさい。」と、主は新しい戒めを与えられました。    
(ヨハネ13:34〜35)

《神の奥義なるキリスト》2017年11月19日 渡邊泰範牧師  

コロサイ人への手紙1:1〜8

「この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、・・神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」(コロサイ2:2)

<はじめに>
 この手紙に一貫しているのはキリストの至高性です。「ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」(1:18)ある人にとっては、イエスさまは何の意味もないお方です。しかし、ある方にとってはすべてのすべてとなったのです。

1、手紙の挨拶(1:1〜2)

 発信人はパウロとテモテです。パウロは自らをキリストの使徒と言い、遣わされた者、いわばキリストの全権大使です。
 「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。」(使徒26:17)
神のみこころによる、パウロの自覚であります。
 テモテは自分が導いた後進です。老聖徒、パウロが兄弟と呼ぶのは奥ゆかしさ(深い心づかい)が感じられます。
 受信者は、「コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ」(2)です。神の家族感があり暖かさを感じます。聖徒は、神に対して、信仰に忠実であり、人に対しても忠実なのです。
 「どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(2)恵みと平安はキリストによってもたらされた、世界的な素晴らしい挨拶です(マルテイン・ルター)。
 恵みがあってこそ平安です。

2、入信のロマンス(1:3〜8)

1)福音の到来
 牧師にとって、どうして福音を受け入れる気になったかを聴くのが実に嬉しいのです。千差万別、十人十色、正に人生のロマンスです。
(顱砲△覆進に届いた。(1:6)
この手紙はパウロがローマの獄中から書いています。彼の生涯は福音を届けるための苦闘でした。
(髻砲△覆進は聞いた。(1:5)
伝えられても実際に聞く人は少ない。そのような中で本当に聞いた人は幸いです。
(鵝砲修譴鯔榲に理解した。(1:6)
真理が耳の中に入っても、左に抜けてしまうこともあるのに、心にまで届いて、本当に理解したのは大きな恵みです。
(堯房造魴襪啾海韻襦(1:6)
 耳に届き、心にまで届いたら、そのままで終わらず、結果が生じたのです。すなわち福音が生涯に届き、生き方が変わったのです。

2)福音の実
イエス・キリストを信じる信仰が、聖徒への愛、そして天に望みを持つものに変えられたのです。つまり信仰、愛、希望が与えられたのです。
これらは福音を知るまでは、皆目なかったのです。福音の光が入って来た時、キリストを信じる信仰、信仰から来る神の愛、そして天に蓄えある望みが明らかにされたのです。そして今までの人間的、世的、物質的のそれらが墓場までのいかに儚いかが悟らされるのです。又、同時に永遠に変わらぬ、信仰、望み、愛が何であるか、明白にされるのです。

(聖書研究祈祷会10/4 飯狃嗟 牧師のメッセージ要旨より)

《生きることはキリスト》2017年11月12日 渡邊泰範牧師  

ピリピ1:12〜30

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」
(ピリピ1:21)

<はじめに>
 ピリピ書は牢獄からの手紙でありますが喜びで満ちています。キリスト教は単なる教えではなく、わが内に生きたもう命なるキリストご自身です。
牢獄という悪環境の中にあっても、パウロを通して福音を前進させた動力はいったい何だったのでしょうか。
使徒パウロの内に住み給う、「命なるキリスト」を私たちも証しをしたい。

1、キリストがあがめられる生活

「わたしが切実な思いで待ち望むことは、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」(口語ピリピ1:20)

どんな厳しい環境の中にあっても福音を前進させた動力はパウロの内に燃えていた願望でした。その願望とは、キリストが命の本源であり、命そのものであり、キリストご自身を世人に知ってもらいたい、あがめてもらいたい、受け入れて貰いたいからです。それがパウロの唯一であったのです。
あがめるとは、キリストさまは素晴らしいお方であることを世人は知らないので、パウロという人物の生涯を通して、イエス・キリストがハッキリと大きく、公然と見える事を「キリストがあがめられる」と言ったのです。
では、どのようにしてキリストがあがめられたのでしょうか。

「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、」(ピリピ1:12〜13)

パウロは自分の体験を告白したのです。回りにいる兵卒たちにキリストを証ししました。パウロの願いは、ローマ(当時の世界の中心)に伝道したいということでした。それがかなえられたと思ったら今度は捕らわれの身です。不自由、束縛の身で一つの部屋に閉じ込められてしまったままです。

しかし、落胆せず、そこに来る人々に福音を伝えたのです。
ひとりの人が聖霊に満たされていると、どんな事情境遇におかれていても、神はその人を用いて驚くべき栄光を現して福音を前進させて下さるのです。私たちの周囲を見てみましょう。あなたによってキリストがあがめられ、福音が拡大されているでしょうか。大胆にキリストを語っているでしょうか。

2、生きることはキリスト

 私たちの身を通してキリストを鮮明に拡大させる秘訣とは何でしょうか。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(1:21)
生きることはキリスト!パウロの内にキリストが生きておられるのです。
キリストは彼の生命そのものとなりました。もはや古いパウロはいません。古いパウロはキリストと共に十字架につけられて、死んだのです。
生きているのはパウロでなくキリストなのです。生きることはキリスト!内住のキリストの恵みに生きるパウロの存在、また、死ぬことも益!

まず霊的に見ても死は儲けものです。実際、古い自我性が死ぬほどの福音は他にありません。   
それはまた肉体的死を意味します。死によってもたらされる永遠の命の望み。み国への輝き、まの当たりにキリストを見ること、そのことを思うと死は益であり、大儲けなのです。死によって一切を失うのではなく、死によって一切を得るというのです。

《あなた方の敵である悪魔》2017年11月5日 渡邊泰範牧師  

第汽撻謄蹐亮蟷罍犠錬言

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
(汽撻謄蹌機В検

<はじめに>
 私たちは人生のあらゆる分野で敵を知っていなければいけません。スポーツの世界では、相手に打ち勝つために研究にいそしみます。また不幸なことでありますが、戦争ともなると互いに敵を倒すために戦略面のすべての事を調べ上げます。しかし、こと魂のこととなると、キリスト者は魂の敵に対し殆ど用意していません。
 今週行われるチャリテイー・コンサートを通して、教会につながる人を祈っています。敵である悪魔の策略を知り、戦いを進めましょう。
 聖書には私たちの敵について三つの事実を述べています。

1、悪魔は兄弟たちを訴え、そしる者

 「私たちの兄弟たちの告発者、日夜、彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」(黙示録12:10)

 私たちの敵である悪魔の目的は訴え、そしる者です。私たちに直接向けられてくる攻撃は良心を責めたり、自らの弱さで、押しつぶされるようにしたり、落胆させ、ふさぎこませて、主の働きをやめるように仕向けてきます。

 救いの確信を失わせ、神に受け入れられていることを疑わせてきます。また、間接的に攻めて来る攻撃もあります。ほかのキリスト者が言ったことだとか、この世の自分の失敗に対する非難だとかを通して、責めてきます。

 敵である告発者に勝利するには、「私たちは恵みによって救われたのです。」(エペソ2:5)
 キリスト者が救われたのは自らの義によって、神のみ前に受け入れられることはないのです。主の恵みに立ち続けることです。

2、魂の敵の計画はだますこと

「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす。」(黙示録12:9)
魂の敵なる悪魔は私たちを惑わし、初めから偽り者です。サタンなる悪魔はエデンの園で、人類の始祖に近づき、言葉巧みに、うそで、惑わしています。
「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)  
「あなたがたは決して死にません。」(創世記3:4)
私たちは真実である神のみ言葉に立ち続けることです。

3、魂の敵は破壊する者

 「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(汽撻謄蹐裡機В検

 敵の力を軽く見てはいけません。このような敵に立ち向かうことが出来ると思うのは愚かなことです。
 ライオンに武器を持たず立ち向かえないように、私たちは、 内住したもう主の、復活のいのちの力によって悪魔に勝利することです。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(エペソ6:10)

《心の砕けた者の祝福》2017年10月29日 渡邊泰範牧師  

詩篇34:18、詩篇51:17、イザヤ57:15

<はじめに>
 長い間、日本のクリスチャン人口は1%に過ぎません。生きたもう主なるキリストの愛を受け入れ、救われる人が少ないのです。お互いの心が固く、頑固であれば、神の恵みに与れないのです。
心の砕かれた者が神の恵みに与れるのです。このメッセージは私の恩師、本郷善次郎師が天に召される10日前に語られたラスト・メッセージです。

1、心の打ち砕かれた者を救われる

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」
(詩篇34篇18節)
心の打ち砕かれた者に主なる神は一番近くに居られます。

イエスさまを試みるために、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来た時、イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と、言われました。イエスをやり込めようとしたのですが、みな自分の罪を認めざるを得なかったので、女を残して去りました。でもこの女は罪を認めざるを得ないので、主イエスの前にへりくだりました。主は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言って、女の罪を赦されました。

何と有り難いイエスさまでしょうか。主は心の悔いし、砕かれた者の近くに居られるのです。お互いに一番大切なことは「悔い改めて、イエスさまの十字架の血によって罪が赦された。」という体験です。

2、心砕かれ、悔いた心を喜ばれる

「神への生贄(いけにえ)は、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)
 神は生贄(いけにえ)を好まれません。神さまに喜ばれる供え物は、「砕かれた、悔いた心」です。 
神さまの前に、「私は罪人です。汚れ果てています。」と、砕かれた心をもって出る時、神さまは喜ばれ、罪を赦し、罪を潔め、祝福してくださるのです。
この詩篇51篇はイスラエルの王、ダビデが姦淫の罪を犯して罪を隠そうとした時、預言者ナタンによって罪を指し示された時の懺悔(ざんげ)の詩です。
ダビデは心砕かれ、神の前に、「ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。・・私の罪を除いてきよめてください。」(詩篇51:4〜7)
神はダビデの罪を赦し、回復の恵みを与えました。

3、イザヤ書57章15節

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ57:15)
 聖なる所に住み給う、生ける神様は、「心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」と言われます。
イエス様を自分の心の中にお宿し、迎える。これほど栄光ある祝福はないでしょう。
金銀を得るよりも、この世の名誉を得るよりも、神様が住んでくださる、これほどの喜び、慰めはありません。
愛なる神は、己を低くし、「私は罪人でございます。」と、へりくだる者に、恵みを与え、祝福されるのです。

《主イエスの慈しみ》2017年10月22日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書14章14節

「イエスは舟から上がられると、多くの群衆 を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」(マタイ14:14)

<はじめに>
 神の子であり人の子である主イエスは本当に慈しみ深いお方であった。「深く憐れんだ」と、福音書の中に繰り返し記されています。「涙を流した」ともあります。主は「私が世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)と言っておられるが、主が遣わされたのは世の贖罪(罪の赦しのため十字架で死を遂げる)ばかりでなく、父なる神の愛を世に知らせるためであったのです。
 私たちもキリスト者としてキリストご自身をこの世に知らせるために遣わされているのです。

1、憐れみに満たされた主イエス

 主は街々を歩き群衆を深く憐れみ、また一匹の迷った羊を捜し求めるように慈しまれた。私たちを取り巻く環境は困難に満ちている。今日ほど貧しい(心と糧の両面)方は満ちています。
 主イエスは「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)とありますように、私たちも、 内住の主の恵みによって神の愛に応えていきたい。
 
2、憐れみを必要とする手になろう

 憐れみというのはただ感じるだけでなく行動を伴うものです。主イエスが二人の盲人に会われた時、
「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイ20:3)
主イエスは憐れまれただけでなく、行動されました。愛は怠惰でいられないのです。行動に出るものです。

キリスト者の憐れみの表現としては、祈り、献金、証し、奉仕、各種の慈善行為と、いろいろのことが考えられます。主イエスの憐れみはしばしば愛を持ってその手で人にふれることに現わされています。
「私があなたの側にいるからね」と語りかけています。あなたはどうでしょうか。この世の人々の必要や心配事に関わりを持って、働いているでしょうか。主の愛に応え、倣いたい。

3、主の慈しみに応える

 私が主の働き人の一人として、主よりご召命を受けたきっかけを証しさせて頂きます。
私は24歳の時、会社の昼休み、バレーボールで怪我をして、自宅近くの慈恵大付属青砥病院に出掛けた時でした。
朝、9時前だと云うのに、内科の待合室は患者で満ち溢れていました。その時、主よりの語りかけを聴きました。「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」と、主イエスの憐みを、心に映し出されました。
「収穫は多いが、働き手が少ない。」(マタイ9:37)と、挑戦とも思える、厳かな主の細き声を聴きました。
主は病める患者を通して、働きかけて下さいました。「働き人とは誰ですか」と、問い掛けますと、主は「自らあたれ!」と導いて下さいました。
その後、教会の働きに仕えました。2002年春、お世話になった会社を辞めて、フルタイムの働き人になる再召命を受け、神戸の聖書神学校に導かれました。

《地上に見る知恵者》2017年10月15日 渡邊泰範牧師  

箴言30章24〜28節

「この地上には小さいものが四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。」
(箴言30:24)

<はじめに>
 主の兄弟、ヤコブは「知恵の欠けた人がいるなら、お与えになる神に願いなさい。」とあります。私たちの普段の家庭生活、子供の訓育にも、神より与えられる知恵は、御心に沿わない道より守られます。全能の父なる神は日毎に何を語っているか、箴言を通して、知恵を与えられたい。

1、蟻は夏のうちに食料を蓄える

「蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。」(箴言30:25)
 酷暑が長く続いた後は寒さが急速にやってきました。自然界の動物は冬支度を急いでいます。蟻はやがて冬がやってくることを知り、食料を夏のうちに貯えています。人生にも、夏の盛んな輝きはいつまで続くものではありません。秋が訪れ、厳しい冬が来ます。
「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。」
(詩篇34:9)
主を畏れる人に乏しいことがないと、詩篇の記者は言っています。蟻の勤勉さを学びたい。また人生には二度とめぐってこない機会がある。
「今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」(競灰螢鵐硲供В押
主の聖徒パウロはそのことを知って、今こそキリストの救いに与かりなさいと勧めています。

2、岩狸(だぬき)は巣を岩間に作る

「岩狸は強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。」(箴言30:26)
岩狸は岩で出来た要塞で守られています。
私たちの人生も、いつ危険に遭遇するか分からないのです。私たちも岩なる神に信頼し、避けどころとすべきです。そこに安全があるのです。
ダビデのように、
「 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決してゆるがされない。」(詩篇62:1〜2)
ということが出来るのです。

3、いなごは隊を組む

「 いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。」(箴言30:27)
一匹だけのいなごは、何の害ももたらすことの出来ない昆虫であるが、大群となると大変な力となり、穀物畑を食い荒らすのです。
 私たちは教会に行かなくとも一人でキリスト者としてやって行けるというが、他のキリスト者たちとの交わりから離れて、本当の賢いキリスト者生活は送れません。
「ふたりはひとりよりもまさっている。」と伝道の書に知恵の言葉が与えられています。

4、やもりは王の宮殿に住む

「やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。」(箴言30:28)
ヤモリは手で捕まえられる弱い存在であるが、王宮に住みついています。普通の人は王宮に出入り出来ないが、主イエス・キリストに在る者は、「あなたがたは神の神殿である。」(汽灰螢鵐硲魁В隠供砲噺世錣譴襪茲Δ法∋笋燭舛麓腓閥Δ某世凌静造暴擦犲圓覆里任后

《まことの信仰と行いなき信仰》2017年10月8日 渡邊泰範牧師  

ヤコブ2:14〜26

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2:14)

<はじめに>
 神の恵みと信仰によって救われた。』(エペソ2:8)私たちは、主のご愛に応えて行かなればなりません。主に信頼する信仰は必ず行為にあらわれるはずのもので、実を結ぶ信仰、実質のある信仰こそ本物なのです。
主の兄弟ヤコブは信仰があるなら、当然、行いも伴うものです。行い無き信仰は役に立たず、死んでいるのですと、言います。

1、まことの信仰とは何か

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」(ヤコブ1:18)
私たちは神によって、新しく造り変えられた者です。万物の創造者である神の家族です。神は息子、娘が欲しくて、神の家族の中に私たちを真理の言葉によって生まれさせました。
 まことの信仰とは、神のことばに始まり、神のことばに終わる。神の言葉がすべてです。この神のことばが、さらにさらに壮麗な見えるかたちで現れたのがイエス・キリストです。
 だからイエスさまを神のことばと呼びます。見えない神の思想、み心が、イエスさまという言葉によって媒介され、それを信じて受け入れた人に、神の意志、その愛、その聖さが受肉するのです。

1)『みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。』
(ヤコブ1:21)罪の奴隷からの解放、罪の法則からの救う力があります。「信じる者に、救いを得させる神の力」(ローマ1:16)だからです。自己中心の生活から、神中心の新しいいのちへ変えられたのです。
神はキリストによって語られました。このキリストにあなたの魂の永遠をかけてみよ!

2)『御言を行う人になりなさい。』(ヤコブ1:22)
どんなに正統的な信仰であれ、心からの従順が無かったら空しいのです。示された罪は捨てよう!罪を言い表せば憐れみを受けます。断固とした服従の態度をとるまで、勝利はありません。

3)『福音は自由の律法』(ヤコブ2:12)
キリストにあって、その福音を受けた者に与えられている自由です。律法の文字に縛られるのではなく、愛の律法によって、キリストに繋がっていることの自由であります。
「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」(エレミヤ31:33)
 キリストにあるいのちの御霊の法則であります。愛によって全うされるのです。

2、行いなき信仰が生み出すもの

1)制御されない舌、言行不一致(1:19、26)
2)真実、誠実の欠如(1:26)
 それが偽りの信仰に結び付いています。不誠実、不真実とは品性の奥深い所に光が届いていないことです。
 「舌は火であり、不義の世界です。」(3:6)
 スコットランドの牧師、ジョージ.B.ダンカン先生は『あなたの舌を見せなさい』という、有名なメッセージを残しています。主にお従いして、まことの信仰に進みましょう。

(飯塚俊雄 牧師9.13祈祷会メッセージを使わせて頂きました。)

《わきあがる喜びの泉》2017年10月1日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ4:1〜26

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」
(ヨハネ4:13、14)

<はじめに>
 収穫の秋、稲穂は黄金に色づき、刈入れの釜を待っています。秋の特別伝道集会が全国各地の教会で行われています。
 主イエスは初期の伝道においてユダヤからガリラヤに向かう途中、そこに一匹の羊を追い求める、主イエス・キリストの良き羊飼いの姿を見出します。イエスはユダヤ人と犬猿の中にあるサマリヤを避けず、わざわざ通って行かれました。そのスカルという町の井戸端でイエスは独りになって、水を汲みに来たサマリヤの女を救いに導かれたのです。その女性の救いをきっかけに、サマリヤ全土にリバイバルが起こりました。
 私たちもイエスの個人伝道に倣って、み言葉の種を蒔きましょう。そして魂の収穫の時を迎えるのです。

1、一人の魂を追い求めていたイエス

 主イエスは井戸端に旅の疲れを覚えて座っておられました。時は6時(ユダヤ時間;昼の12時頃)、そこに人目を避けるようにサマリヤの女が水を汲みに来ました。サマリヤの女は井戸端が賑わう朝と夕方の時間を外して、誰もいない時間を見計らって来たのです。

 実はこの女性、過去に5人の夫があり、現在生活を共にしている男性は正式な男性ではありません。主イエスはこの女性の過去を何もかも知り、見抜いておりました。主イエスは最も救いを必要としているサマリヤの女に、近づき、平易な挨拶を交わしました。

「わたしに水を飲ませてください。」(7)と、主イエスは謙遜に、親しみを込めて話しかけられました。そこで彼女は「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」(9)と答えています。

二人の会話は進んでいき、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16)と、イエスは女に言われました。秘めたる一点に図星をさされました。

サマリヤの女は主イエスが人生の真の解決者であり、自分の救い主であることが分かり、砕かれ、悔い改め、イエス様を救い主として信じ、受け入れました。
そしてあまりの喜びのために、水がめをそこに置き忘れ、イエス・キリストのことを伝えるために、町に飛んで行きました。(28、29)
その結果、多くの人がイエス・キリストのところに来られ、リヴァイヴアルが起きました。(30)

2、主イエス・キリストが与える命の水

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4:14)
「わたしが与える水」とは、イエス・キリストを知り、信じることによって与えられる、『心の内側から湧き上がる喜びの泉』のことです。
たとえ目に見える祝福が奪われ、試練や逆境に立たされても、なお内側から湧き続ける、喜びの泉です。
更に、この泉は「永遠のいのちへの水」です。心の中に湧き上がる、喜びの泉、永遠の命のことです。

《神の国の生活の秘訣》2017年9月24日 渡邊泰範牧師  

マタイ6:25〜34

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

<はじめに>
 主の救いに与かった者は永遠の命が与えられ、神の国に召された者であります。キリスト者は地上で神の国にふさわしい生活の秘訣を勝ち得たい。その秘訣は、主イエスの弟子たる者は、『先ず、心の王座に主を迎え、第一のものを第一にすべきであること。』を学び、従いたいのです。

1、主を心の王座に迎えること

 神の王国(Kingdam)は王なるキリストが臨在して居られるところです。それ故、キリスト者として先ず、王を心の王座に迎えることです。という事は、キリストを王として私たちの人生の王座について頂くことです。そうしてこそ、はじめて、「御子を持つ者はいのちを持っておる。」(汽茱魯唯機В隠押砲箸いΔ海箸成就するのです。キリストを持たない者はキリスト者であることは不可能であります。

2、王なるキリストを第一とする事

 今日、混乱はどこにでも見られますが、それは主なるキリストを第一にしないことから起きています。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)
先ずとありますように、優先権の原則を示しています。
「何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」(マタイ6:25)

主イエスは「食物は不必要である」とは言っておりません。命の食物に対する優先、体の着物に対する優先を述べております。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。」(マタイ6:26)
人間の空の鳥に対する優先を述べています。優先権の頂上は神の国です。

イエスを王として第一とする忠誠心を堕落させようとするライバルがいます。世と肉と悪魔というライバルが私の主イエスへの忠誠心を他に向けさせようとして、誘ってくるのです。その声に耳を向けたら、破滅に向かって進むことになります。

3、主を第一とする者への約束

 「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
(マタイ6:33)と約束されています。
 王なる主は、責任を持ってすべての私たちの生活の必要を知っておられ、保証して下さいます。王なる主は宇宙の創造者なる神であります。
したがって、その持っておられる資源は無尽蔵であります。
 私たちは暗黒の王国から、このような光の王国に住む者とされたのです。混乱から秩序と平和の中へ移されたのです。

 主がもう一度来られる時、神の御心を痛める一切のものが排除され、神が統治されるのです。主が再臨される時、神の支配は完成し、神の統治が実現します。やがて教会はその使命を達成するでしょう。しかし、神の国は永遠に続きます。

《キリストの愛(生活の動機)》2017年9月17日 渡邊泰範牧師  

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「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」(競灰螢鵐硲機В隠粥

<はじめに>
 昨日の朝、「キリストの愛われらに迫れり。」と、主の強きお言葉で起こされた。
この14節のお言葉が高三の時、夢にまで現れて、『キリストの十字架は私の罪のために死なれた。』と、神の愛を諭され、キリストに全ての人生を委ねたのです。

1、キリスト者生活の動機

 主イエス・キリストが私たちに示されたキリストの愛、『ひとりの人がすべての人のために死んだ』、この主の愛を受け入れたキリスト者(クリスチャン)の生活の動機は『キリストの愛』に応えようと、主に喜ばれる者になりたいと、願うのです。(9節)

 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(汽茱魯唯粥В隠亜

 父なる神は、私たちに対する大いなる愛のゆえに栄光を捨て、この世に来られたのです。そして十字架に示された主イエス・キリストの愛は、私たちの罪のために死に、私たちが新しく生きるためにキリストは甦られた(復活)のです。

 主イエスが私たちに抱いておられる愛が、たちに注がれてくる時、先ず「罪の赦し」が与えられます。そして神の家族の一員となり、私たちの前に生き甲斐のある地上の生活が開けて来るばかりでなく、永遠にまで至る祝福の生涯が約束されます。
この主のご愛に応えようと、私たちは神に感謝するようになります。神を礼拝するようになります。
また主イエスを崇めるようになります。
さらに又、行いをもって、奉仕することを、喜ぶ者になります。
キリスト者がこのように変えられてゆくのは、キリストの愛によるのです。
『キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。』(競灰螢鵐硲機В隠粥

聖書学者フイリップス氏はこのお言葉を「キリストの愛が私たちの行動そのものの源泉になっているからだ。」と訳しています。
キリスト者の総ての原動力、動機は『キリストの愛の支配』から来るのです。

2、キリストの愛に応える

 私のキリストとの出会いは高三の秋、一枚のビラを入手して、神田の共立講堂で開かれた、キリスト教の特別講演会(オズワルド.J.スミス)に導かれた時でした。
その集会で、目に見えずとも生ける神の子、イエス・キリストが居られることを知りました。それから、この集会の事務局から紹介された柴又キリスト教会(本郷善次郎牧師)に熱心に通いました。

数か月後、牧師の奥様より、「イエス・キリストをあなたの救い主として、信じているでしょう、洗礼を受けませんか?」と勧められた時、クリスチャンになる決心がなかったので躊躇しました。

 惜しいことをしたなと、集会に行くことを禁じられていた家に帰りました。ところが、翌朝主は夢に現れ、御言葉をもって私を導き、諭されました。
「神の和解を受け入れなさい。」(競灰螢鵐硲機В横亜
と、主は勧められました。「十字架は私の罪のためと、ただ信じれば良いのだ!」と、イエスさまを救い主として受け入れました。すべてが新しく変えられました。

《十字架上の強盗の救い》2017年9月10日 渡邊泰範牧師  

ルカ23:32〜43

「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23:43)

<はじめに>
 十字架上の犯罪人の救いの物語は、史上最大の驚くべき恵みです。自分を傷つけ、苦しめる者たちに、「父よ。彼らをお赦しください。」という、十字架上の主イエスの「罪の赦しの愛の一言」が、一人の強盗を救いに導いたのです。

1、驚くばかりの恵み

 十字架上の犯罪人が救われたことは、『キリストの救いとは行いによるのではない、ただ恵みによるのだ!』という、二つの聖句を力強く物語っています。
「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:5)
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ロマ3:28)
 彼は救いのために何の準備をする時間もありませんでした。彼はただ死刑の執行直前の身だったのに救われたのです。主の救いは時間をかけることでないことをここで証明しています。彼は自分の犯した罪の償いも出来ません。これから神の奉仕をすることも、人々への愛の働きもすることが出来ません。それでも彼は救われたのです。

 この事は、たとえ聖書を読み学ぶことも、祈りに打ち込むことも、教会に出席することも、献金をすることも、奉仕や宣教の働きに参加することが出来なくても人々は救われるのです。

2、強盗の驚くばかりの信仰

 人が救われるのは信仰だけです。この十字架上の犯罪人が救われたのは、ただ信仰によったのです。その彼の信仰告白は驚くばかりです。まず彼は仲間の犯罪人の悪口をたしなめました。
「おまえは神をも恐れないのか」。次に彼は「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:41)

 自分の犯した罪を正直に深刻に認めています。また、主イエスの無罪性をも認めたのです。さらに驚くことに彼はイエスが「御国の権威をもって」、おられる主である事を信じていたのです。
そればかりか、主イエスがやがて、終わりの日に、もう一度、「来られる」、再臨の主でおられることさえ、信じていたのです。ここに救いの信仰があります。

3、強盗の驚くばかりの変貌と救いの勝利

 信仰による救いは、私たちの人格を根底から造り変えます。かつて彼は恐ろしい強盗でした。人を殺害し、物を略奪していた事でしょう。今の今まで、もう一人の強盗とイエスをののしったと記されています。
「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:44)

 その男が神の前に、罪を悔い、砕けた心となり、純真な信仰が宿り、彼は救われ、全く変貌したのです。そして、主イエスの救いと勝利の宣言を得たのです。
『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』何という無上の幸福でしょうか。もはや死も悲しみも痛みもない、あるのは天上の天使と贖われた聖徒たちと共に賛美し、礼拝する栄光の世界です。

《信仰と希望と愛(掘法2017年9月3日 渡邊泰範牧師  

汽灰螢鵐硲隠馨錬院腺隠垣

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」(汽灰螢鵐硲隠魁В検

<はじめに>
 8/23、8/30の祈祷会で、飯塚俊雄先生が語られた、愛の章、第汽灰螢鵐硲隠馨呂料躋腓慮狭討鮖箸錣擦督困ます。(要旨の一部です)
 パウロは愛の無限の価値を雄弁と対照させています。雄弁は人間の魂や意志に働きかけ、高潔な目的や行いに向かわせる力です。
「 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。」(13:1)
 愛と預言と対照させている。奥義と対照させている。信仰とも。慈悲とも。

1、愛は人生で最高のもの

愛は信仰より大きい、最高のものです。何のための信仰だろうか。それは魂を神に結び付けるためである。では人を神に結び付ける目的は?その人が神に似る者となるためである。

しかし神は愛である。それ故、信仰という手段は愛という目的のためにある。だからこそ愛は信仰よりも偉大なのである。
私たちは異教の世界に宣教師を送り続けて来た。しかし自分の中に熟成している神の愛以上のものを持って行くことは出来ない。

 私たちは一つの外国語を話すには数年を要する。リビングストンがアフリカに出かけた当時、彼の他に白人はいなかった。親切な医師である彼の存在は人々の脳裏にあとあとまで残っていた。人々がリビングストンの思い出を語る時、彼らの顔は輝いていたという。
私たちもどこへ行くにも、愛という素朴な魅力を持って行こう。

ここで愛を分析してみよう。
1)忍耐;愛は長く耐え忍ぶ(愛には終わりがない)辛抱強い。
2)親切;愛は親切です。
3)寛容;人を妬(ねた)まない。
4)謙虚;愛は自慢せず、高慢になりません。
5)礼儀;礼儀に反することをせず。
6)無欲;自分の利益を求めず
7)温和;怒らず
8)善意;人のした悪を思わず
9)誠実;不正を喜ばず、真理を喜びます。

 この9つが神よりの最高の賜物であり、完全な人を造る。日常生活の総和であり、私たちの言動を仕上げるものである。

2、愛はいつまでも残る

 豊かに愛することは、豊かに生きることである。
パウロが愛を最高の財産として、断定した理由を述べる。「愛は決して絶えることがありません。」Love never Ends.愛には終わりがない。(8)
 「預言の賜物ならばすたれます。」(8)預言者は真の意味において、国王より偉大であったが、バプテスマのヨハネによる、神の子・イエス・キリストの出現の成就で、預言は「すたれ」、その役割は終えたのです。

 「知識ならばすたれます。」(8)私たちは一部分しか知り得ないのです。パウロは当時の人たちが相当の価値として、認めているものも、すたれてしまうと決めつけている。

《主への従順》2017年8月27日 渡邊泰範牧師  

マタイ16章21〜28節

「イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。』」
(マタイ16:24〜25)

<はじめに>
 キリスト者にとって信仰と従順は切り離せません。復活の主に会ったペテロは主イエスの懇ろなご愛によって信仰を回復し、ネロ皇帝の迫害下に遭っても主に従いました。そして、苦難に与かっている同胞を励まし、主への従順を勧めました。

「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」(汽撻謄蹌院В押

1、十字架の死に至るまで従ったイエス

主イエスは父なる神のみこころを成し遂げるため、十字架への苦しみの道を歩まれました。全人類の救いのため十字架の死に至るまで、父なる神に従いました。主は十字架にかかる前に弟子たちに「主への従順」を要請し、模範を示されました。
主の12人の弟子の一人、ペテロは弱さの故に、イエスが十字架にかかる前に、3度、「主イエスを知らない。」と否んでしまいました。

しかし、テベリアの海辺(ガリラヤ湖畔)で復活した主イエスは傷心のペテロに現れ、「私を愛するか」と、三度も問われました。
ペテロは主のご愛に、砕かれ、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(ヨハネ21:17)と、ペテロはすべてをご存知の主に、自らの弱さを悔い、すべてを主に明け渡し(主に委ね、お任せし、捧げること)ました。

そのペテロに主イエスは、『わたしの羊を飼いなさい。・・年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。』(ヨハネ21:17〜18)再召命と殉教を予告されました。
そして、主はペテロに「わたしに従いなさい」(ヨハネ21:19)と言われました。

キリストの救いに与ったクリスチャンには当然、主から頂ける恵み と同時に試練、困難が与えられます。順風満帆の時は主に感謝し主を賛美することはたやすい。しかし主イエスは私たちに試練という学課を与えて、さらに筋金入りの立派なクリスチャンに育て上げるために、「主への従順」を学ばします。

2、主の弟子としての条件“自分の十字架を負え”

 イエス・キリストに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負いなさいと言われます。この意味における自分の十字架とは、神の御旨ならば、神と人とのために苦しみ、犠牲になることです。

人にはおのおの負うべき「自分の十字架」があります。
神は、一人一人に丁度、相応しい十字架を授けて下さるのです。主は馬槽(まぶね)の中からカルバリまで、一生、十字架の生涯を送られました。主に従う者は、自分の十字架を避けてはならないのです。
「わたしのために命を失うものは、それを見出す」との逆説は、霊界における定則なのです。

《信仰と希望と愛(供法2017年8月20日 渡邊泰範牧師  

汽灰螢鵐硲隠馨

<はじめに>
 今朝のメッセージは先週に引き続いて8月16日の聖書研究祈祷会(説教者;飯塚俊雄 牧師)で開かれた、“愛の賛歌”と呼ばれる第一コリント13章、「信仰と希望と愛(供法廚導かれた。前回の祈祷会で愛の章を学んだ時、「愛を追い求めなさい!」(汽灰螢鵐硲隠粥В院砲髪答の祈りをした。どれだけ愛するイエス様のように近づいたか顧みたい。

1、愛の価値(1〜3節、先週の続き)

 2節の『山を動かすほどの完全な信仰』以上の大きな完全性がないだろうか、あるのです。
「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
(汽灰螢鵐硲隠馨錬垣瓠

 『全財産』とある。一部ではない。地上において自分の生存を支える全条件を放棄するのである。これは中々普通の人にはできない決心である。しかしそれだけではない。自分のいのちが残っているではないか。だから、そのいのちまで『焼かれるために渡す』という。そこまで行けば徹底した自己放棄と云えるのではないか。

 これこそ、人間として考えられる最高の道徳行為である。しかし、パウロによれば「愛がなければ、何の役にも立ちません。」となる。外面的なわざに過ぎないというのである。もし人間が素晴らしい言葉の才能を持っていても、それが自己追求のためであるならば、‥自己犠牲となっても、自分の偉大さを証明しようとする思いが根っこにある限りは、それらは騒がしい鐘の響きに過ぎないし、無益である。

2、愛とは何か(4〜7節)

 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(汽灰螢鵐硲隠馨錬汗瓠

 寛容(Long suffering )とは辛抱強いということ、親切は情け深いということ、次いで七つの力強いことばで、愛とは何でないかが示される。まず、「人をねたみません」、ねたむとは嫉妬のこと、ねたみこそ罪の女王といわれる。なぜか、心のねたみの感情は目立たないものであるが、それだけに陰湿であり、陰険の力を持つ。
自慢とは人を見下すこと。高慢とは、自分を誇り、自己宣伝をすること。6節以降は、パウロは愛を積極的なかたちで定義する。
 「不正を喜ばずに真理を喜びます。」(6節)
愛とは、単なる情緒的な同情心とか、好きとかいう感情ではない。それは倫理的な真実であり、それは神の意志そのものを意味しているからである。

 喜ぶというのは、魂の底から湧く感情である。それは愛と真理から生み出されると、パウロは言う。
 「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(7節)
 「すべて」という力強いことばは、愛は絶対的あるということ。愛は普遍的ということ。どんな事態にも打ち勝されることはないという事である。
 「愛は決して絶えることがありません。」(8節)愛には終わりがないのである。なぜか、それは、この愛が神の意志だからである。

(飯塚俊雄牧師の聖書研究祈祷会8/9、8/16のメッセージ要旨)

《信仰と希望と愛(機法2017年8月13日 渡邊泰範牧師  

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愛は決して絶えることがありません。」(汽灰螢鵐硲隠馨錬言瓠

<はじめに>
 東京若枝教会の8月9日の聖書研究祈祷会で「信仰と希望と愛」と題して、「愛の賛歌」と呼ばれる非常に有名な第一コリント13章が開かれた。クリスチャン生涯において、絶えず主の愛に導かれ、この聖書の箇所のお言葉が鏡のように、心に映し出される。飯塚俊雄 牧師は一度、皆さんと深くこの愛の章を学びたいと言われた。

1、愛の価値(1〜3節)

 パウロは第一に愛の無限の価値を持つことを力強く訴えます。それを、人間に備わっている天賦の能力の三つの可能性を、とことんまで徹底的に描きつめるのです。でも、そのような偉大な可能性であっても自己追求の思いに縛られている限り、つまり、愛が欠如している限り、身を結ばないと言う。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(汽灰螢鵐硲隠馨錬雲瓠
 「人々のことば」、つまり「いろいろの国のことば」である。私たちが外国語を一つでもマスターするだけでもたいへんである。当時のローマ帝国には多くの異民族がひしめいたことを思えば、この多民族国家において意志疎通できる人の存在は大きな意味を持っていた。
 またこの「ことば」を異言ととれば、当時のコリント教会では、礼拝や祈りの時、普通のことばではないある特殊なことば語ることが珍重されていた。
終末の出来事を先取りした新しいことば、神との霊的な交わりが成立している徴(しるし)と見られていたからである。 
 さらに「み使いたちの言葉」となると、天使たちが神のみ前で神を賛美するために用いている言葉の意味である。そのような言葉を操ることが出来るとすれば、それは人間の可能性をすでに超えている。そのような人間としての素晴らしい言葉の可能性も、もし愛がなければ「やかましい銅鑼(どら)や、うるさいシンバルと同じです」。これは異教の祭礼において、興奮を引き起こすために、騒がしく楽器を奏でる騒音だと、言い切ったわけである。

 では単なる音ではなく、中身のある言葉ならどうか、とパウロはさらに踏み込む。
「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」(汽灰螢鵐硲隠馨錬伽瓠

 『預言する力』は、文字通り、当時におけるもとも偉大な賜物(カリスマ)であった。それは神のみ心と人間とこの世の運命までも読み取れる洞察力である。となると、『あらゆる奥義とあらゆる知識とにつうじていても』という事につながる。奥義というのは頭だけの観念に過ぎない。もっと素晴らしい可能性がないだろうか。

 『山を動かすほどの完全な信仰』であろう。これは奇跡を生み出す偉大な力として現れる信念と言ってもいい。主の言葉を思い出させる。(マタイ17:20)
 しかし、そのような奥義と知識さらに超人的信念があっても『もし愛がなければ、何の値打ちもありません』。
(飯塚 俊雄牧師の聖書研究祈祷会のメッセージの要旨、次週へ続く。)

《栄えに満ちた喜び》2017年8月6日 渡邊泰範牧師  

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「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(汽撻謄蹐亮蟷罍院В検

<はじめに>
 “イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており・・信じている”このお言葉は真珠のように輝いています。何と美しい言葉でしょうか。ペテロはネロの迫害下(ネロ帝の治世:紀元64〜67年頃)の中、各地に追い散らされている同胞に、輝きに満ちた喜びと慰めの賛美をおくっています。
それは、キリストの救いを純粋に受け入れ、その中に主と親しく交わり、憩い、『生ける望み』を持つようになったと、述べているのです。
苦難は長く続きません。主イエス・キリストが現われる、『再臨』の時、私たちは称賛と光栄と栄誉に与かる者となるのです。

1、苦難に遭っている同胞への手紙

キリスト者は苦難において勝利を得る事が出来ます。もしこの手紙が苦難の手紙であるなら、それは、また愛と慰めに満ちた、希望の手紙でもあります。
教会の窮乏と迫害に関してペテロが告げているのは、歴史も預言も、過去も未来も、ひとしく神の力強い御手のうちにあり、主の再臨の時に現わされる、神の栄光に与かるという輝かしい保証です。
これこそペテロが「生ける望み」(1:3)と呼んでいるものです。
 1節の選ばれた人々とは、父なる神の予知のもとに、やがてご自身の教会に結びつく予知、予定を指しています。この選びの範囲は「御霊の聖めに与っている人」を示唆しています。
  “エミ・カーマイケルは書いています。”
『おお もしゲッセマネがなかったら 今日この世にあるものが信仰を根こそぎにしてしまうでしょう
カルバリは人生を解き明かすものだからです私たちがどんな苦難の道をたどっていても
そこでだけ 主にお会いできるのです。そして すべての緊張と恐怖と争いは穏やかな主のおことばの前に波のように消え去ってしまいます』(p・リース著;苦難の中の手紙より抜粋)

2、神への賛美

 ペテロは離散している仲間に「すべての苦難のかなたにある、生ける望みのゆえに」神を賛美せよ!と勧めています。
甦られた救い主は「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない天の資産」(4節)を用意しておられます。キリストが輝きの中に再臨される時、パウロが言っているように、「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」(コロサイ3:4)
5節の「神の御力に守られている!」これは実にすばらしい聖句です。「私たちが通らなければならない、この試みに満ちた騒々しい世の危険と困難のさなかにあって、私たちは神の御力に守られているのです。
「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い。」(7節)
苦難とキリストへの従順は神のみ旨なのです。

《一切の秘訣》2017年7月30日 渡邊泰範牧師  

ピリピ4:10〜14

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
(ピリピ4:13)

<はじめに>
 すべてキリストを信ずる事によって、貧しく暮らす術(すべ)、豊かに暮らす術も、あらゆる場合に対処する秘訣が得られます。
小島伊助師はこのお言葉を、帰英直前、B・Fバックストンより頂き、「免許皆伝」として、皆に宣べ伝えてきました。
小島師は、「クリスチャンたる者、この信仰の秘密、奥義を会得しなくてはいけない。」と勧められました。
 本郷善次郎師が奥様を天に送られ、寂しい想いが募る日、小島伊助師からこのお言葉、)が贈られ、励まされましたと、静かに話されました。「一切の秘訣を得たり。我を強くしたもう者により、すべてのことをなし得るなり。」(文語訳;ピリピ4:13)

1、パウロの贈り物への感謝の手紙

 ピリピ書が書かれた最大の動機は愛の贈り物(獄中に捕らわれているパウロへの経済的支援)に対する感謝を表すためでした。
 ピリピ書4章は「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(4:13)と私たちの能力(ちから)なるキリストを述べています。ピリピ書のパウロ書簡は他の書に見られない、実に体験的に書かれています。
パウロはエパフロデトを通してピリピ教会から贈られたささげ物に、「私のことを心配してくれるあなたがたの心」(ピリピ4:10節)と率直に大きな喜びを表しています。
一つの贈り物を通して愛の交わりが生き生きとよみがえっていることを表しています。
 ピリピの教会はパウロによって開拓された教会なので、教会はパウロを愛していました。パウロは今、ローマの獄中にあると聞いて、教会はエパフロデトを遣わし、献金を届けたのです。
パウロは献金に対して、感謝しないわけではありませんが、パウロの本当の喜びは、もっと別の所、もっと深い源泉、キリストご自身から湧き出ている能力(ちから)の秘訣でした。
「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ4:12)

2、どんな境遇にも満足するパウロ

「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(4:11)と言ったパウロは具体的に、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも、知っています。」(新共同訳ピリピ4:12)と証しするのです。
貧しさの中でも、楽しく暮らす方法もあります。貧しい中でしか味わえない、愛の分かち合いの心豊かな生活があります。
 一方、豊かに与えられた時も、金銭に負けないで、豊かさを賢く生きる暮らしもあることを、体験的にパウロは述べています。
私の大先輩である主に忠実な兄弟は、90歳近くになっても、大手術から生還してきました。
まだ地上での 働きが残されているから、私は生かされている。「宝を天に積もう。」と、莫大な献金を主の働きのために捧げられました。愛する兄弟はもう地上にはいない。

《重荷をになわれる主》2017年7月23日 渡邊泰範牧師  

詩篇68:19

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」(詩篇68:19)

<はじめに>
 この度の白内障の手術を通して、大学病院の患者の姿は、「イエスは、・・群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:35〜36)今も、イエスが憐れんだ光景と変わらない。あらゆる病気と重荷で倒れている姿に、主の愛に迫られた。

1、重荷はおろすべきもの

 重荷は負うべきものではない。冒頭の詩篇の言葉、「日々、私たちのために、重荷をになわれる主」とある。主イエス・キリストは私たちを招いておられる。イエス様は優しく、へりくだった方だからその重荷は重すぎるから、“私に降ろしなさい!そうすれば魂に安息が与えられる。”と、言われます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 重荷の最大のものは、「罪の重荷、呵責」である。しかし、私たちはこの重荷を負っていく必要がありません。何故なら神はキリストに在って、それをご自身で負って下さるからです。
 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」(汽撻謄蹌押В横粥

 私たちには、未来についての恐れという重荷があります。それに対してペテロは勧めています。
 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(汽撻謄蹌機В掘
 私たちの一切の重荷を「神に委ねる」ことです。「心配する」のは、神の側です!
 また、私たちには明日という、未来に何が起こるか、分からないという、恐れの重荷をかかえこんでいる人が何と大勢いることでしょう。
 私たちの主イエスが、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。」
(マタイ6:34)と命令しています。
 「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(6:32)
ということに基づいています。

2、重荷は負い合うもの

 「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」
(ガラテヤ6:2)
 他人が抱えている、重荷、弱さとか、失敗について、キリストから受けた愛、神の恵みをもって、その重荷を共有することです。

3、重荷には負うべき責任がある

 「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)と、パウロは言っています。この重荷は責任という重荷です。その責任とは家族に対する責任、仕事上での責任、家や教会の隣近所への責任などがあります。 この責任は誰に対して、責任があるのか、神ご自身に対してです。「なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。・・私たちはみな、神の裁きの座に立つようになるのです。」
(ローマ14:10)

《人生の主》2017年7月16日 渡邊泰範牧師  

ローマ14:9

「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ14:9)

<はじめに>
 あなたの人生の所有権を持たれるのは主イエス・キリストのみです。あなたの心の王座に主なるイエスを迎えて、人生のすべての領域に主に明け渡しているでしょうか。「ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」
(コロサイ1:18)
 主を第一とする生活は祝福される秘訣です。

1、主はすべての贖われた人生に浸透される

 主イエス・キリストはカルバリの丘で十字架につけられ葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、次いで昇天されました。いまや主はご自身の復活のいのちを聖霊の内住によって私たちに住まわれるのです。

「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」(ヨハネ14:23)
この復活のいのちによって主はすべての贖われた人生に浸透するだけでなく、それを所有されます。私たちはキリストにあって新しく造り変えられて行く者です。(新創造の恵み)

2、主を心の王座に迎えよう

 主イエスによって占有されてない人生の領域は、その人の生涯における危険帯となります。このようなキリスト者は信仰生活、教会生活を始めても、主を心の王座に迎えないのです。主は十字架にかかられただけでなく、復活して今も生きておられます。そして信じる一人一人の中に生きておられます。私たちはこの真理を発見して、主キリストを私たちの心の中の部屋へ迎え入れたわけです。
 しかし、信仰がここで止まってしまった人の信仰姿勢は間違っています。
 主なるキリストにすべてをささげて、主を第一とする生活に導かれましょう。ペテロもキリストの主権に服従してきっていなかった故に圧力に屈し、主を否定しまったのです。キリストがあなたの人生にとって確実に、無比の主となっていないなら、敵する者の標的にあなたはなってしまいます。

3、キリストの主権を認めること

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
(ローマ10:9)

 このみ言葉の如くイエス・キリストを主、すなわちキリストを主権と認めなければ救われないのです。聖霊によらなければ、誰もイエスを主と呼ぶことは出来ないのです。

「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(汽灰螢鵐硲隠押В魁

 キリスト者の生活には完結点というものはありません。み言葉の光によって、さらに広範囲の人生の領域が照らし出されることによって、「主よ、この領域にもあなたが主権をもってお臨みください。」と祈ることです。

《責められるところのない者》2017年7月9日 渡邊泰範牧師  

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「主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」(汽灰螢鵐硲院В検

<はじめに>
 私たちは映画「レフト・ビハインド」のように花婿なる主イエス・キリストが上より私たちを迎えに来た時(再臨の日)、地上に残されず携え上げられることを待ち望んでいます。主の救いに与かった人は、「責められるところのない者として」主ご自身が堅く守って下さいます。

1、私たちの救いを堅く保つ主のご真実

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)
「私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者」という主張は一体何にもとづいているのでしょうか。
次の節の冒頭でそれは神の真実であると答えています。キリストとの交わりに召してくださった神は決して裏切ったり、考えを変えたりしないのです。
 私たちを召された方は最後まで堅く保ってくださいます。なぜならば神は真実だからです。神のご性質に、また契約に真実なのです。
「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(競謄皀藤押В隠魁
私たちには弱さがあっても、神は真実です。

 第一コリント1章2節に「聖徒として召され」とありますが、9節ではさらに「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」とあります。
 主との深い、個人的、親密なこの交わりこそキリスト者生活の本質であります。
 私たちは「キリストの現れ(再臨)」を待つ間に、すでに「キリストとのお交わり」に与かっています。キリストを目をもって見奉る前に、信仰によって共に歩むことが出来るのです。
 神が真実であり、その真実をもってキリストとの交わりに召して下さったのであれば、「キリストの現れ」によって、はじめて私たちのものとされる完全な交わりから落ちるようなことを許されるであろうか。そのようなことはありえないのです。
「キリストの現れ」によって、このキリストの交わりが完成されるまで、交わりに召された神は「最後まで堅く保って下さる。」のです。
最後まで耐える確信は私たちの内にはありません。私たちの確信は神にあり、神は私たちを保って下さいます。神は真実だからです。

2、キリストの日はクリスチャンが完成する日

 私たちの『主イエス・キリストの日』とはクリスチャンが確立される日です。
 旧約でアモスが語られた「暗い裁きの日」ではなく、喜ばしい救いが成就する日です。
 コリントの教会の前に書いたテサロニケの手紙には同じような祈り、願いが書かれてあります。
  「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(汽謄汽蹈縫隠機В横魁■横粥

《あなたの道を主にゆだねよ》2017年7月2日 渡邊泰範牧師  

詩篇37篇1〜40節

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
(詩篇37篇5節)

<はじめに>
 生涯を主に委ね主に信頼した人は、主が成し遂げ主が大いに祝福して下さる。先日詩篇1篇で『祝福の道』を教えられたが、学ぶだけでなく実行することです。心の王座に主を迎え、主のみ旨に従う人は祝福されるのです。多くの人は世の名誉に流されるのです。

1、祝福される秘訣

 詩篇37篇は“詩篇のいろは歌”です。詩の大意は、義人(主の救いに与った人)が今は艱難と窮乏の中にあるが、やがて主があなたを祝福するのであるから、悪人の繁栄しているのを見てねたんだり憤慨したりしてはならないと教えています。

1)「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
(詩37:4)

 キリスト教は教えでなく、生けるキリストご自身です。主の救いに与かって真新しい聖書に牧師にお言葉を頂いた時、冒頭の聖句が記されていた。今もこのお言葉は、私にとって宝のような聖句です。『主に喜ばれる事、主に喜ばれる人生』は日々の祈りです。
  
“愛少女ポリアンナ物語”(エレナ・ホグマン・ポーター作)の主人公、Pollyannaは『喜びをつくる』代名詞となっています。「父を亡くした一人ぼっちのポリアンナは、おばのパレーにひきとられて暮らすことになった。孤児のジミーや偏屈なペンデルトンらとの出逢い。ポリアンナはお得意の“よかった捜し”で、逆境に遭っても、相手の“いいところ”を見つけて、ベルディングズビルの人々を幸福にしていく。」物語です。

 「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、葡萄の木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」(ハバクク3:17、18)
ハバククのように周りの環境に左右されず主ご自身を喜ぶことです。それが神に“祝福される秘訣”です。

2)「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩37:5)

 たしかに、悪人の繁栄、横行ぶりに、ねたむなと言われても、なかなか出来ません。(詩篇37:1) 
 ただ、一切の審判者、広義をつかさどる主に信頼し、善を続けて行くことです。そして、自分の方から何かをするよりも、成り行きを主なるイエスにお委ねし、お任せし、主と共に歩み、主を信頼して行く時、主に祝福されるのです。
『主に委ねよ』(アンドリュウ・マーレー)という良書がありますが、“主に委ねる信仰”とは、丁度、愛する主イエスが運転する自動車に乗るような生涯です。
逆に、主に委ねない信仰は、自ら運転者のようになって、主の運転に指図する、“バックシート・ドライバー”(Back−seat driver)のような人生です。

2、救いと滅び

神は救いの神であるが、それと共に滅ぼす神でもおられます。「主に祝福された者は地を受け継ごう。しかし主にのろわれた者は断ち切られる。」(詩37:22)
主に罪を赦され救われた者の道を主は知られ、滅ぼされないのです。

《主のみ心とは何か》2017年6月25日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書6章10節

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:10)

<はじめに>
 “主の祈り”「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」とは、主イエスが自ら実践していたことです。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)と、主イエスは三度も繰り返し祈っておられます。

1、主のみ心とは何か

1)主のみ心が行われるところが天国です。
「あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)
あなた方の父なる神の御国(天国)はみ心が行われるところです。御国とみ心は一体です。ですから、“主の祈り”は御国の到来の祈りに続いて、当然その結果として、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るのです。

2)主のみ心はあなた方が聖くなることです。
 「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(第一テサロニケ4:3)
 あなた方の父なる神が聖であるように、あなた方も聖くなることです。

3)主のみ心は私たちを神の子にすることです。
 「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:5)

 私たちの主なる神のみ心は、私たちを神の子とし、ご自分にふさわしく、キリストに似た者とし、永遠の御国の相続者とすることです。 ですから、主のみ心とは、人間を祝福する神の永遠のご計画です。主イエスは、クリスチャンの模範として、み心を示されました。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」(ルカ10:27)
 主イエスが語られた、このみ言葉を“クリスチャンの完成した姿”のモデルとして生きることです。
 私は今、神のみ心の中におかれている。なぜなら「主イエスを信じて、救われているから」と言おう!  
神の救いのみ業は、御国へまで導き下さいます。

2、父なる神のみ心を実践したイエス・キリスト

 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、み心のとおりにしてください。」(ルカ22:42)
 主イエスは十字架を前にして、ゲッセマネの園に入りお祈りをされました。父なる神様はイエス様の肉体をお考えになって、天の使いをお遣しになり、力を与えられました。
 「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ18:11)
ゲッセマネの祈りで、主イエスは十字架という、すべての人の罪を赦す贖いの杯(さかずき)を飲むことが父なる神の『みこころ』であることを知り、十字架の死に至るまで従いました。(ピリピ2:6〜8)

 イエス様のご生涯は終始一貫、「み心を成させたまえ」と、父なる神のみ心を行ったのです。
 神様に喜ばれる生活をするためには、神様のみ心を知らなければなりません。神様のみ心は、御霊によって、み言葉によって、祈りの中に示されます。

《赦しの恵み》2017年6月18日 渡邊泰範牧師  

マタイ6:9〜13

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12新共同訳)

<はじめに>
 もし、この祈りが「他の人を赦しますから、私の罪も赦してください。」であったとしたら、他人を赦すことが自分が赦されることの条件ということになり、とてもこのような祈りを捧げることは出来なかったでしょう。
大切なことは、主の祈りはすでに信仰を持っている人のための祈りであるという事。言いかえれば、すでに罪赦された人のための祈りえだるという事です。ですから、『人の罪を赦すという事は、自分の罪が赦される条件ではなくて、すでにキリストによって罪赦されているから、自分も罪を赦します。』という事なのです。
 
1、人を赦すということ

 それは非常に難しい事です。自分の罪がただ赦されているということが分かった時、初めて私たちは人を赦すことが出来るようになります。
 しかしその場合でも、神が私たちを赦してくださるように完全に、とはなかなかいかないでしょう。でも本気で人を赦すことを考えるようになり祈る者となるのです。自分の罪が赦されたことを喜んでいるなら、私たちは謙遜になることが出来ます。自分の罪の大きさを知っているから、他人に対しても謙虚になれます。何よりもキリストの死によって、罪赦されたその喜びと感謝は赦せないような人を赦すことに立ち向かう力となります。

 ですから、自分の罪が赦されるための条件があるとすれば、それは自分の罪深さを知る悔い改めです。これが他者に対しても寛容な私たちとするのです。

 ですから、『この祈りの真の意味は、キリストによって赦された意味を、さらに深く悟らせて下さいということ。』です。
 キリスト者の生活は赦しです。赦しは妥協ではありません。目をつぶることでもない。赦す人は深く鋭く罪を知っています。ですからごまかすことが出来ません。神のまなざしをいつも意識しているからです。神は御子の十字架をこの世にお立てになり、罪赦される以外に解決の道がないことを示しました。
それによって、私たちは罪を赦すための代価の大きさ、その厳しさ、喜び、尊さ、望みを知り得たのです。

2、パンを求める祈りの次に罪の赦しの祈りがあるのは大切なことだから

「罪の赦し」の句の前に“そして”の語がついているのです。『パンを与えて下さい。そして罪をも赦して下さい。』というのが、この祈りの本当の意味です。
その意味は、パンが体にとって日毎の糧であるように、『ゆるしも魂にとって毎日の糧』ですというのです。・・・ルカ伝では「罪を赦す」といい、マタイでは「負債を赦す」とあります。罪とは負債のように償うことです。・・・キリストは私たちの罪のため、ただ一度だけ死んでくださいました。(ローマ6:10)
それによって過去の一切が赦されただけでなく、現在の罪も、これからの罪もすべて赦されます。
(飯塚俊雄先生の6月14日の聖書研究祈祷会要旨をそのまま使わせて頂きました。)

《主に信頼する人》2017年6月11日 渡邊泰範牧師  

詩篇第1篇1〜6節

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇3節)

<はじめに>
 C・H・スポルジョン(英国の説教者)は、「最高の幸せ、最も純粋な幸福を求める人はこの詩篇を読むべきだ」と言いました。詩篇一篇は詩篇全体を総括したようなもので実に美しい詩です。主イエスの山上の垂訓と同じように、クリスチャンとなった幸いな人(祝福されている人)の姿とはどんな人か、また如何にして幸いな人となれるか、それは『主に信頼する人』の道なのです。

1、神を敬う正しき人の生活と受ける祝福

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」(詩篇1篇1節)

「幸いなことよ」と始まっていますが、幸いな人とは神に義(正しい者)と認められた人で、キリストの救いによって罪が赦された者です。
その祝福がいかに大きいものであるかを詩っています。神の恵みを受けている人の特徴は「悪者のはかりごとに歩まない人」です。罪はまず私たちの思いに入ってきますので、神を敬う道、神のことばに従い世俗的な人のずるさやたくらみに耳を貸さないことです。そのために日々神の言葉なる聖書を読み、養われ祈ることが大切です。

 「罪人の道に立たず」とは、私たちの思いに入った誘惑は、次にその罪人の道に足が向きますが、今私はキリストの救いに与り、神の子となり聖くされました。心が新しくされた者ですからその集いに加わりたくないという気持ちに変えられた人です。

次に、「あざける者の座に着かなかった、その人」とは、誘惑は先ず思いに入り、次に、罪人の道に行動を起こさせ、最後に、どっぷりと罪の座につかせてしまいます。キリストの救いを受け入れない者は神などのことであざけります。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
(詩篇1篇2節)

2節は神の恵みを受けている人の積極的な歩みが詠われています。主に信頼する者は神のみ言葉、聖書を愛し神のみ言葉に毎日導かれて行く者です。お言葉を喜び一人静かに瞑想し、昼も夜もそのお言葉を思い巡らすことです。

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇3節)

3節は神の恵みを受け祝福された人の姿です。信仰によってキリストの命に深く根を降ろした人生こそ、神の恵みを受けた人の姿です。神の祝福は命です。成長です。美しさです。実りです。

2、神を敬わない人の状態と運命(4〜6節)

 「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみ殻のようだ。」
(詩篇1篇4節)

 悪者とは神を敬わない人のことです。神を敬わない者の特質は無価値で、いのちがなく簡単に動かされます。悪者は風に吹き飛ばされる、もみ殻のように、滅びうせる運命なのです。

《聖める力》(ペンテコステ礼拝)2017年6月4日 渡邊泰範牧師  

使徒行伝1章8節

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒行伝1:8)

<はじめに>
 イエスさまは昇天される前に、「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ14:16)と約束されました。
 イエス様のような助け主なるご聖霊は主イエスが十字架にかかった日から丁度50日目に祈り待ち望む者に注がれました。ご人格を持たれた聖霊が、「あなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」と言われました。その力なる聖霊が私たちの心に住んで下さり、心を聖めて(きよめて)下さいます。聖霊の力とはキリストのみかたちに似た者となる力であるという事です。
 
1、聖霊の力

 聖霊の力は聖める(きよめる)お方です。
ペンテコステの日に、聖霊が注がれた時、「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」(使徒2:3)と、あります。
 聖霊の象徴、炎は聖める力をもっています。
金属の製錬作業の高炉で不純物が取り除かれる如く、私たちの心の王座にキリストを迎える時、自我の人から愛の人に、キリストのように造り変えて下さるのです。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。」
(ガラテヤ5:22〜23)
 
2、私たちの中に住まわれる聖霊

「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
(ヨハネ14:17)
私たちの中に住まわれる聖霊、それはキリストの救いの福音を聞き、又それを信じた者に与えられる聖霊なのです。ですから信仰をもって約束の聖霊を受け取るのです。
弟子たちは自らの心の穢れを知って、悔い改めた時、完全な罪の赦しを得ました。
「私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(汽茱魯唯院В掘
 聖霊は聖め、聖め続けて下さるのです。主がもう一度この世に来られる時、栄化(キリストのように二度と死なない体に変えられること)されて、栄光の御国に連れてって下さるのです。

3、聖霊は宣教の霊

 「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒行伝1:8)
 ペンテコステの日に教会が初めて世に誕生しました。使徒行伝は聖霊行伝と言われるほど、聖霊の力によって伝道が、ユダヤから始まって地の果てまで宣べ伝えられました。
 この聖霊の力について、世界の牧師と言われたポウロ・リース先生は、「人々が成功の試金石としてみなしている、奇跡とか、目立った人々にもてはやされる事々の力ではなく、聖霊の力とはキリストのみかたちに似た者となる力である。」と述べています。

《神の武具を身に着けよ》2017年5月28日 渡邊泰範牧師  

エペソ6:10〜24

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6:11)

<はじめに>
 クリスチャンの信仰生活は暗闇の世の主権者“悪魔とその配下の悪の霊”との戦いである。巡回伝道者、平松実馬先生が柴又キリスト教会の特別伝道集会に招かれた。先生を教会にご案内する時、先生はタクシーの中で手を上に振り上げ、空(くう)を切るような動作を繰り返した。まさに悪霊との戦いである。
この特別集会は聖霊が働き、友人は主の救いを信じ、受け入れ、直ちに献身し、伝道者となった。
「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:27)
私たちは悪魔にスキを与えないように、神の武具を身につけなければならない。

1、神の武具
1)真理の帯と正義の胸当て
「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、・・」(エペソ6:14)
腰は最も重要な部分です。私たちが聖書の真理に立つ時、神は驚くばかりの力と自由を与えられます。

2)福音の靴
「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ6:15)
 福音の履物、それは神のご愛を受けて、神の平安を宣べ伝える福音の靴を履くことです。

3)信仰の大盾
「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。」(エペソ6:16)
 これは特別に重要な武具です。もし悪魔が罪を責めたてて来たら、十字架の主を仰ぐことです。もし、失意や死の恐れが来た時、再臨の主を待ち望み、仰ぐことです。

4)救いの兜
「救いのかぶとをかぶり、」(エペソ6:17)
 悪魔は頭脳を混乱させてきますが、救いの真理に堅く立ち、それを鮮明に他の人に証しをすることです。

5)御霊の剣なる神の言葉
「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:17)
 これまでの武具はすべて防御用です。御霊の剣は攻撃用の武器です。御霊は神の言葉と共に働きます。悪魔にとって、神のみ言葉ほど恐ろしいものはないのです。主イエスは荒野における悪魔との戦いにおいて、神の言葉を用いて勝利されました。

6)祈祷の槍
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」
(エペソ6:18)祈りこそ悪魔に勝利する秘訣です。

2、日常、陥りやすい悪魔の罠
「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか」(ヘブル2:3)
私たちが大いなる主の救いに与かっても、悪魔は、主の救いは、なかったかの如く、引きずり落そうと、企ててきます。集会を励み、怠るな!(ヘブル10:25)と、警告しています。

《神と共に歩んだエノク》2017年5月21日 渡邊泰範牧師  

「エノクはメトセラを生んだ後、300年、神とともに歩み、・・神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:22〜24)

<はじめに>
 今日5月21日の聖日は、救い主イエス様を心の王座に迎え入れて丁度、56年になりました。
 私は受洗と同時にエノクの生涯に魅せられて、毎日神の臨在(神が共にいますこと)を憶えました。その喜びと感謝を表したい。

1、神と共に歩んだエノク

 「神が共にいて下さる」という、主の臨在信仰をもって、神と共に300年間歩んで、死を見ないで、天に移されたエノクの生涯に倣いたい。B.Fバックストンの通訳をされた小島伊助師は「臨在信仰は聖霊の賜物です。」と、言われました。 
エノクの信仰をとおして、日々の雑踏の中に生きる私たちも聖い生涯を送ることが出来ます。
エノクの生涯の転機は65歳になって、メトセラが誕生した時、神より、来るべき裁きの啓示(ユダ14〜15)を受けたのです。
エノクは信仰が覚まされ、罪がはびこる環境の世にあっても、神と共に歩みました。

2、神に喜ばれた信仰の秘訣

 エノクが神に喜ばれた信仰とは、
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)
エノクが神と共に歩み、神に喜ばれた秘訣は、
「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)
エノクはいつも、『主と共にいる、臨在信仰』に生き、人の評価よりも、神が報いて下さると信じ、神にいつも目を留めたのです。
彼の信仰の目は周りの悪の環境に捕らわれず、天上に目を注いだのです。私たちもエノクのように神と共に歩ませて頂きたい。
私が生涯、神の臨在信仰に導かれたのはすべて自らの失敗、弱さ、病いなどに打ちのめされた時、主は顕れいで主の臨在を示し、主は悲しみを慰め、喜びに満たしてくださいました。尊い主の御言葉、「私自身が一緒に行く」と導かれました。

3、主の臨在信仰の喜び

 エノクが神の臨在に生きたように、神の臨在の恵みを美しく、素晴らしいメロデーで歌い上げた,メソジスト讃美歌527番“♪わが喜び わが望み; O THOU IN WHOSE PRESENCE”の原詞をご紹介します。
 私が受けた恵みを詩(うた)っているので愛唱歌となりました。

O Thou in whose presence my soul takes delight,
On whom in affliction I call,
My comfort by day, and my song in the night,
My hope, my salvation, my all.”(讃美歌527;1番)
おぉ♪主よ あなたの臨在に 私の魂は喜びます
 苦しい時、私はあなたに呼びかけます
昼は私の慰め主です 夜は私の歌となります
主は私の望み、私の救い、私のすべてです
(527番の1番の意訳)

《私たちの国籍は天にあり》2017年5月14日 渡邊泰範牧師  

ピリピ3:17〜21

「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)

<はじめに>
 笹尾鉄三郎先生が遺された説教集に「天を思う生涯」がある。先生は、「私たちはキリストと共に甦らされたのだから、天を思いなさい。」と勧められた。先生は主のご愛に燃えて、蝋燭のように身を削り若くして召された聖徒であった。

1、天国市民なるクリスチャンの特権と責任

 クリスチャンは地上では旅人ですが、同時に天国の市民です。その名前は国勢調査によって登録されている如く、天国の“命の書”にも記されています。
 「この人たちは、いのちの書に名のしるされている・・」(ピリピ4:3)
 市民権には特権と責任が伴います。天国の市民としてのクリスチャンの特権には、聖霊による喜びと自由、誘惑や試練に対する勝利があります。

 また祈りにより父なる神に近づき、神の御子キリストとの交わり、将来への栄光に満ち溢れた希望があります。
クリスチャンには天国の市民として相応しい、聖霊と神の国の原理に従った生き方をするという責任があります。キリストに対して忠実であること、神の国を慕う心です。
天国の市民であるクリスチャンは、世がクリスチャンの存在、生き方を見て、神のみこころである、聖さ、愛、慰めを証しして行くことです。
「天国ではこのようなことが行われているに違いない。」と感じるような生き方をしたいものです。

2、キリスト者の涙と栄光

 「私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」(ピリピ3:18)

 なぜ、パウロは涙ながらに語るのでしょうか。それは彼らが十字架の救いを無視し、嘲笑し、十字架に敵対しているからです。
 彼らの最後は決定的です。そのまま進めば行き先は滅びです。神との絶縁の物凄い滅びの様子を、パウロは涙ながらに語ったのです。
「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:19)
・彼らの神はその腹です。彼らの栄光はその恥です。いかにも自由を謳歌するかのように欲望を追求していますが、恥の姿です。
・彼らの思いは地上の事だけです。永遠を見つめる目がないのです。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)
 使徒パウロの涙の目は、十字架に敵対して歩む者だけでなく、今や、十字架の贖罪の恵みに生き、栄光の希望に輝く者たちに注がれているのです。
 「私たちの国籍は天にあり!」世に在りながら天国市民です。本国は天、栄光の御国です。その本国から、主イエス・キリストが栄光の「救い主」として来られるのを待つのです。

《主のご愛を受ける弟子たち》2017年5月7日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる福音書13:1〜35

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13:1)

<はじめに>
 主イエス・キリストは数時間後に迫った死刑の宣告を受け、十字架にかかる前に、弟子たちを極みまで愛されました。そこで主は弟子たちとレオナルド・ダ・ヴインチの絵で有名な「最後の晩餐」を執り行いました。

1、主はしもべとなった

主なるイエスは父なる神から出て、神に帰る時が来たので、3年余り過ごしてきた弟子たちに愛の限りを尽くされました。
「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(4節)と、あります。
実に神の御子、父なる神から万物の主権者として任せられた主なるお方がしもべのお姿(奴隷)と、なって、弟子たちの足を洗いました。 
この時、弟子たちはお互いの中で、「一番偉いのは誰か?」と、激論をかわせていました。
そこでイエスは、「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22:26)と諭されました。
この最後の晩餐の二階座敷は借りたもので、主人役はいません。イエスと弟子たちを迎え、塵埃にまみれた足を洗ってくれる方はいなかったのです。
このような時には、弟子たちがお互いに足を洗い合うのが礼儀です。しかし彼らは、「誰が偉いのか」と口論していたのです。そこで主イエスがこの上もなくへりくだってしもべとなり、足を洗ったのです。

2、主が弟子たちに示されご愛

主が弟子たちの足を洗った点について三つのことを学びましょう
第一は驚くべきことに、主権者、王なる最も力あるお方が、最も弱き者の如く、奴隷の如く、しもべとなられた事です。
第二はこの主の行為をめぐって起こった論争です。シモン・ペテロの番になって、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」(6節)と言ったのです。
イエスは彼に、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(7節)と言われました。
ペテロは自分が到底、イエスに足を洗って頂く資格のないことを考えて、お断りしたのです。
しかし、ここで重要なことを学びたいのです。受ける資格のないものに与えられる好意、それは恩寵という恵みです。この神の恩寵に対して、ペテロはいかなる態度をとるべきであったのでしょうか。
それはただ「受ける」ということなのです。何の資格も、権利も、功績もないものに与えられる、それが神の恩寵の恵みです。
罪の赦しの恵みもその通りです。恩寵の前に、私たちのとるべき態度は「感謝して受けとる」という事です。
 模範を示された主は弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と、言われました。

《主のご奉仕への備え》2017年4月30日 渡邊泰範牧師  

第一コリント1章2、9節

「2節、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。 9節、神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」(汽灰螢鵐硲院В押■后

<はじめに>
 私たちが “聖徒として召され、神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた” 目的は主のご奉仕に与かることです。

1、聖徒として召された私たち

 塩屋の神学校の卒論のテーマは、「聖徒、本郷善次郎師の生涯に見る聖潔と信仰」であった。恩師、本郷先生は教派を超えて聖徒と呼ばれた。「奉仕の前の品性、生涯の前の品性」と、説教にしばしば語られた。
本郷師の生涯を顧みて、主との親しき交わりから来る、主の臨在の前の生涯、主イエス・キリストに似るものとして、絶えず追い求め、聖めを見せた生涯であった。
「天国で一等賞になりましょう」と主のご再臨の望みに日々生きた生涯を顧みて、その信仰に倣いたい。
キリスト・イエスの使徒パウロは問題の多かったコリントの教会に寄せた手紙の中で、キリスト・イエスにあり、聖霊のみ業による聖めの恵みにあずかった者を聖徒と呼んでいます。
「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。」(汽灰螢鵐硲院В押
 私たちも『聖徒として召されている。』のである。

2、主のご奉仕に与かる恵み

 主なる神様はなぜ聖徒を求められているのでしょうか。私たちを聖徒して整え、キリストの交わりに入れさせたいのです。そして、主のお交わりに与かり、主のご奉仕に参加させたいのです。
「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」(汽灰螢鵐硲院В后
 主の聖徒としての働きは預言者、祭司、王、および救い主としてのお働きです。
 このお働きは父なる神に遣わされ、この世に神の御子、救い主として来臨されたキリストのお働きです。

3、主の奉仕の務め

 第一の務めは預言者です。預言者とは未来を告げるという意味もありますが、神様からの使命を持っている者です。神様から遣わされ、命のみ言葉を持つ者です。
イザヤのように神のみ言葉を受け、それを告げ知らせるために出て行く者です。
第二の務めは祭司です。祭司とは、犠牲をささげること、祷告すること、祝福することの働きがあります。
犠牲をささげるとは、私たちのなすべき犠牲とは、神と人に仕える、愛の奉仕です。
第三の務めは救い主としての働きです。魂を追い求めて止まない信徒とは、どんなクリスチャンでしょうか。
魂に向かう情熱を持たなければ、教役者になって、説教に立つことが出来ても、聖徒になることは出来ません。
「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル12:3)

《主は決して汝を離れない》2017年4月23日 渡邊泰範牧師  

ヘブル13:5〜8

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。主ご自身がこう言われるのです。」(ヘブル13:5)

<はじめに>
 戦争のうわさが絶えないこの世。この東京もいつ巻き込まれても可笑しくないこの頃。この不安な世にあって、変わらないのはご自分の死を通して私たちの罪を赦し、贖った主イエス・キリストです。主は復活して生けるお方として、いつも「決してあなたを離れず、捨てない。」と約束しています。

1、変らないお方イエス・キリスト

 変りやすい人生にありまして、変らないお方はイエス・キリスト様です。主なるイエス・キリストを心に迎え、お頼りして行く人生は何と幸いなことでしょうか。
金があってもいつのまにか翼をもって何処かへ飛んでいってしまいます。自分の健康も自分の経験もあてにはなりません。また人もあてになりません。人生は別れがつきものです。皆さんは誰をあてにして生きておいでになりますか。

 本日の礼拝メッセージは、数日前の夢の中で導かれた、聖霊の働きにより、み言葉が聞こえた。
「私は決してあなたを離れず、見捨てない。」との声で目が覚めた。
先週のメッセージ、「エマオの途上」で、主の生けるご臨在の恵みに与かったばかりなのに、今日はその恵みをさらに確証するほどに神の強い約束のお言葉に導かれた。
 私はこのお言葉の英語が強く明記されている。
"I will never leave you nor forsake you."
このお言葉を嘗て、尊敬する小島伊助先生宅をお訪ねした時心に深く入った。
帰り際、先生に「さようなら」と挨拶した。すると、先生は黙って、上を見なさいと指で示された。
この英文の聖句(古い英文体;kjv)がカラフルに美しく、刺繍で編まれていた。
小島先生はこの聖句を「私はさよならを言いません。」と、意訳したことを「福音」誌で想い出した。
何という驚くべき神の有り難い約束の言葉でしょうか。主イエスは十字架にかかり、死んで三日目に甦り、生きて、父なる神の右におられます。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのです。」(ヘブル4:14)

2、主は変わらず生きて居られる

「神のみことばをあなたがたに話した指導者のたちのことを思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(ヘブル13:7)
 すばらしい信仰の指導者、牧師、教師、先輩がおりました。しかし、みんな死んでしまいましたと、聖書は告げています。
みんなこの世を去って、主の御許に召されて行きました。そういう人たちがどのような働きをして、私たちにどのような感化を与えたか、よく考えなさいと、聖書の言葉は述べています。
しかし、彼らを導き、彼らを用い、彼らを祝福なさった、イエス・キリスト様はきのうもきょうも、いつまでも変わらず、今も生きて、ここに居られることを、強く語っています。

《心が燃えたではないか》2017年4月16日 渡邊泰範牧師  

みことば 「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

<はじめに>
 復活は十字架による罪の赦しと切り離せないキリスト教の福音の真理です。私たちは、主が私たちのために十字架にかかられたことを喜びます。しかし、一番喜ばしいことは、主が私たちのために甦(よみがえ)られたことです。主が甦ったことにより、死が滅ぼされ、天国が開かれたのです。

1、主を慕う者にご自身を顕されるイエス

 主が復活された午後、クレオパともう一人の弟子(クレオパの奥さんと言われている)が、エマオという村に向っている時に復活した主イエスが二人に近づかれた。 

 しかし、二人の弟子は失望と悲しみで周りが見えなくなっていたので、主イエスが同行される事が分からなかった。「イスラエルの贖いを願って頼りにしていた方は、十字架の恥辱の中で死んでしまいました。」と、彼らは、復活が信じられなかった。

「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」(ルカ24:17)と、イエスは問われた。すると二人は暗い顔つきになり、立ち止まってクレオパが答えた。
「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
(ルカ24:18)イエスは知っておられたが、「どんな事ですか。」
と聞かれると、ふたりは答えた。
「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。」(ルカ24:19、20)
クレオパはイエスに落胆の心を表した。

2、主の復活を信じなかった弟子たち

「イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。」(ルカ24:23)
仲間の女たちが、朝早く墓に行って、「イエスは生きておられる.」と、告げられたがクレオパたちはイエスが墓から甦ったことを信じなかった。

3、主のご臨在は私たちの人生にふれられる

 甦った主ご自身が、失望、落胆した彼らに近づき、共に歩いて行かれたが、弟子たちはイエスに気付かなかった。しかし、主が聖書を説き明かした時、彼らは主のご臨在(生ける主があなたと共にいる恵み)に触れた。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)と、感動した。
主のご臨在は彼らにとって、大きな慰めとなった。
その日が暮れようとすると、強いて主に「お泊り下さい」と、主に願った。
今も、生けるキリストは今日も私たちに近づかれる。不安を抱えた心に、主のご臨在は平安を与える。
そして、ご臨在の恵みを私たちに求め続けさせる。
さらに、クレオパたちは「主がパンを裂いたとき」、彼らの目は開かれ、イエスだと分かった。
主のご臨在の恵みに与かる秘訣は、一切を主に明け渡し、主を愛し、主の者とされることである。

《心を騒がせるな》2017年4月9日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ14:1〜14

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)

<はじめに>
 主イエスは弟子たちと3年間一緒におられました。しかし、今や弟子たちを後に遺してこの世を去って行く、と言われるのです。弟子たちの心は悲しさで満ちていました。そこで主イエスは弟子たちに「心を騒がす必要はない。」と言われました。
父なる神はもう一人の慰め主、助け主(聖霊なる神)を送り、私が言ったことを教えると言われた。

1.心を騒がせないために何を信じるのか

 私たちはしばしば、心を騒がせるという経験をするものです。突然降りかかる病、家庭問題、精神的な問題、世の中の多くの問題があります。
主イエスが最後の晩餐で、十字架のことを話されると、ペテロがイエスに問いました。「主よ。どこにおいでになるのですか。」と、そこでイエスは答えられた。
「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(ヨハネ13:36)
弟子たちの心には恐れ、不安、心配が満ちていました。主イエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われます。
天地を創造された神様は、私たちのために独り子さえも惜しまず、お遣わしになった、愛の神様です。この父なる神様を信じ、お頼りすることです。
また、「わたしを信じなさい。」と主イエスは言われました。私たちのイエス様は人間の一番恐ろしい心の悩み、罪の問題を解決するお方です。
主イエスの十字架を見上げる時、「あなたの蒔いてきた罪のためにイエス様は十字架に殺され、血を流し、いのちを捨てて下さった。」と言われるのです。
そのイエス様を信じる時、罪の赦し、罪からの救い、心の平安が与えられるのです。

2、私たちの望み、天にある住まい

 2節で主イエスが「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」と言われました。主イエスは天国という所が「わたしの父の家」といわれました。天国とはホーム、家庭であります。イエス様のお父様の家です。何という暖かい家なのでしょうか。私たちの行くべきところは天国です。天のお父様のおられる所です。この事が分かったら何と喜びに満たされることでしょうか。主イエスは数時間後に迫った十字架にかからねばならないという時に言われたのです。
ここに人類の敵とされた死を越えた永遠の命の希望があります。どんな過去を持った人でも主イエスによって栄光の御国への希望が与えられます。

3、主のご愛、天国への確信

 「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3)
主イエスが誰でも天国に行ける道を「これから用意しに行く。」と言われたのです。天国があるとしても、「私は行けるのか」と、不安と恐れがあるかも知れません。罪を持ったままで天国に行くことは出来ません。主イエスが十字架にかかって、私たちの罪を赦し、穢れ(けが)れを洗い聖め(きよめ)て、下さったから天国に行けるようになったのです。主を信じましょう。

《われ世に勝てり》2017年4月2日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ16:1〜4、33

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

<はじめに>
 主イエスは“贖罪の十字架の苦しみ”を前にして、弟子たちに、やがて栄光の彼方の御許に行くまで、この世に在っては戦いがあることを話されました。
この世(英訳;世界)とは「自己を中心として万事を考え、行動する人間世界」です。当然、福音に反抗してきますが、主は勝利されました。

1、この世での戦い

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。」(ヨハネ16:1〜2)

 主イエスはやがて弟子たちの上に迫害が起こることを予告され、彼らが敗北し、不意打ちをくわないように、心の準備を与えたのです。

 私たちは素晴らしい福音に対して、なぜこの世が反対してくるのでしょう。使徒パウロは「十字架のつまずき」という事を言っております。
十字架によって人類の救いが完成し、「すべて彼を信じる者は滅びることなく、永遠の生命が与えられる。」とありますが、この十字架は滅びる人々には愚かに思えるというのです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:12)
私たちはこのお言葉通り、福音の独自性、排他性を主張しますが、世の人は反抗するのです。

2、慰め主・聖霊が世の誤りを悟らせる

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)
 聖霊はイエスについて、証しします。
罪なき神の子、主イエスは十字架上で殺され、そして3日目に死から甦り、そして復活50日後のペンテコストに「真理の御霊」(助け主)、聖霊が教会、また個人一人一人に下ると、誤りを悟します。
「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)
 この聖霊の働きによって、世の人の目を開き、私たちが罪ある者、滅ぶべき者であることを悟らせ、永遠の生命(いのち)について、真理に導いて下さるのです。

3、世に在るキリスト者の勝利

 主は弟子たちに、この世にあっては悩みがある。しかし「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と、勝利宣言をされました。
すべてのキリスト者は、二つの住居を持っています。「世に在り」また「主イエスに在って」生活しております。
私たちはこの世で、悩み多い様々な仕事に従事しております。その中で私たちと同じ、人となられ、
私たちの模範となられた主イエス・キリストを仰ぐ時、イエスに在って、私たちは平安が与えられます。
主イエスの地上での生活は、敵に捕らえられ、様々な苦しみを体験されましたが、世に勝ち、救いを成就しました。

 主は十字架にかかる直前、地上に残る私たちに祈られました。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネ17:15)

《み心を成したまえ》2017年3月26日 渡邊泰範牧師  

ルカ22:39〜46

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

<はじめに>
 主イエスは十字架を前にして、ゲッセマネの園に入りお祈りをされました。44節に、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。」とあります。 
イエス様の祈りは何と真剣な切実な祈りでしょうか。マタイ26章38節には、
「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」とあります。イエス様は弟子たちに「祈っているように」と頼むほどに非常な苦しみの中からお祈りをされました。父なる神様はイエス様の肉体をお考えになって、天の使いをお遣しになり力を与えられました。
 「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ18:11)
ゲッセマネの祈りで、主イエスは十字架というすべての人の罪を赦す贖いの杯(さかずき)を飲むことが父なる神の『みこころ』であることを知り、十字架の死に至るまで従いました。(ピリピ2:6〜8)

1、み心に従う生涯

 イエス様は誰よりも祈りの人でした。イエス様は弟子たちにたびたび、十字架にかかって殺されて三日目によみがえることを語っていました。
 その決心をもって、エルサレムへ、エルサレムへ向かって行きました。しかし、十字架の直前になった時、非常な苦しみを覚えました。そのためにイエス様は父なる神のみ前に注ぎ出した祈りをなさったのです。
 このゲッセマネの祈りの背後にはイエス様のどれほどの葛藤があった事でしょう。
 「み心がなりますように、み心ならば父の与えたもう杯は喜んでいただきます。みこころのままになさって下さい。」と。
 この祈りは父なる神さまの前に本当に明け渡した、献げきった、従いきった姿です。
 イエス様のご生涯は終始一貫、「みこころを成させたまえ」と、父なる神のみこころを行ったのです。

2、み心を知り、神に喜ばれる生活

 「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」(コロサイ1:9〜10)

 神様に喜ばれる生活をするためには神様のみ心を知らなければなりません。神様のみ心は御霊によって教えられ、祈りの内に示されます。
 主イエスがゲッセマネの祈りをしたように、主のみ心を知るために私たちも絶えず「主よ、み心を成したまえ」と祈りつつ、従う生涯でなければなりません。
 お祈りは決して易しい事ではありません。真剣な祈りは力を要するのです。
 ジョージ・ミユーラーが90歳を迎えた時、毎日の幸いな生涯を問われた時、「神さまの恵みによって、正しい良心を保ち続けたことと、神様のみ言葉を愛す者として頂いた事です。」と答えたそうです。

《神、第一の生活》2017年3月19日 渡邊泰範牧師  

マタイ6章24〜34節

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

<はじめに>
 キリストの弟子たる者は「神の国」を第一に求めなさいと、主イエスは教えています。神、第一の生活とは神の主権を受け入れ、日々の生活においてキリストを第一にする生活です。主を畏れ、主を崇める、主の臨在(主が共にいます)の中に過ごす生涯です。

1、優先権の原則の第一は神の国です

「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」
(マタイ6:32)

 主イエスが語られる『こういうもの』とは、私たちの生活に必要な、食べ物、飲み物、着物です。主イエスは『いのちは食べ物より大切な物』、『体は着物より大切な物』と、優先の順位を分かりやすく教えています。天のお父様は人間にとって必要なものをよく知っておられますと主イエスは教えています。主イエスは「食物は不必要である」とは言っておりません。命の食物に対する優先、体の衣服に対する優先を述べています。
 さらに、自然界の被造物を通して、優先の順位を述べています。
「空の鳥を見なさい。・・あなたがたの天の父がこれを養っていてくださる。」また、「明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、天の父なる神はこれほどに装ってくださる。」と、空の鳥に対する人間の優先、野の草に対する人間の優先を述べています。
 主イエスは結論として、
「だから神の国とその義とをまず第一に求めていれば、これらの必要なものはすべて与えられる。」と全知、全能の神の約束を述べています。

2、優先権の頂上は神の国

 キリストの弟子たるものはあらゆる価値に対して神の国の優先権を認めなければなりません。ただ一回神の国を優先させるということではなく、お互いの生涯を通して、根本的に神の国を第一とする生活を教えているのです。

「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」
(ローマ14:17)

 神の国は神のみ心が行われる所です。それゆえ義なるイエス・キリスト、すなわち私たちの「知恵、義、聖、贖い」となられたキリストご自身を求めて行くことです。
神の国と義を求める霊的な面を先ず第一に求めると同時に、生活に必要な物質面を日々、求めることもイエスは『主の祈り』で教えています。
「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11)

3、神の国を優先するための支払うべき代価

 顱ヂ召了物(事柄、用事)を神の国に優先させることは、最も多く見られる人生の悲劇です。
 髻タ世旅颪鯊召琉貔擇了物に優先させることは、人生において最大の必要事です。
 鵝セ物を神の国に関係づけて解決することは、人間の最大の勝利です。

《星のように輝く存在》2017年3月12日 渡邊泰範牧師  

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」
(ピリピ2:16)

<はじめに>
 世に在るクリスチャンは「星のように輝く存在」です。世が暗さを増すほど輝くクリスチャンの存在は尊いです。
星のように輝く信者となるためには、いのちの言葉を、“しっかり、持ち抱えて”(kjv訳)、キリストへの従順が求められます。その結果、一人一人に“救いの達成”が成就します。

1、救いの達成

 「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ2:12)
 “星のように輝く”存在となるためには、先ず救いの達成が必要です。クリスチャンになると永遠の命が与えられ、天国への住居(すまい)が用意されています。
 パウロは、「そういうわけですから、愛する人たち」と、親しく呼びかけています。一人一人がその救いの恵みを自分のものとなるために、キリストの模範に倣って、従順であるように勧めています。
 ピリピの教会を生み、指導してきたパウロ先生は、私がいてもいなくても、いつも神を愛し畏れ、神の御心(みこころ)を求め、神のみ旨に従うところに『救いの達成』があると、勧めています。

2、星のように輝くクリスチャン

 「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つでしょう。」(ピリピ2:15〜16:新共同訳)
 クリスチャンは神の子(ヨハネ1:12)、神の家族です。故に、神に似るのです。“星のように輝くクリスチャン”とは、「非のうちどころのない神の子」と、新共同訳は記しています。
 神はみ子の血をもってあらゆる傷をいやし、聖めてくださいます。“星のように輝くクリスチャン”とは、「命の言葉を堅く持つ」(口語訳)者です。命の言葉とは聖書です。永遠の命という救いをもたらす書物(BOOK)です。命の言葉をしっかり持つために、学ばなければなりません。

3、パウロの労苦の報い

 「そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(ピリピ2:16)
 「そうすれば」とは、ピリピ教会の兄弟姉妹が曲がった邪悪な時代にあって「星のように輝く存在」になるならならば‥という、意味です。そのことが実現するならば、パウロが全力で伝道して来たことが徒労に終わらず、報われるという事です。
 牧者が労苦することは、群れの兄弟姉妹が「星のように輝く存在」になることです。そしてその一切は終わりのキリストの日(再臨)に評価されるのです。
 このパウロの「労苦の報い」は恩師本郷善次郎師の記された言葉に見られます。「再臨の望みなくして今日の奉仕ない。」と、言われました。

《苦難の目的》2017年3月5日 渡邊泰範牧師  

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「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。」(汽撻謄蹌院В狂語訳)

<はじめに>
 こんにち、世界至るところに苦難があります。科学と技術革新の世界に住む世にあって苦難があります。貧困と飢えの苦難は増え続けています。不公正や暴力や残酷からくる苦難、人種差別や政府圧制下における苦難があります。その外にキリストのための苦難が私たちにあります。

1、私たちの信仰の苦難

 キリスト教は決し苦難の存在を否定しません。これと真っ向から対決いたします。
 ペテロは十字架の血による聖めの恵みと主の復活の望みに与かった故、主の愛に応えて、ネロの迫害下、主のみ旨に従いました。

「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(汽撻謄蹌院В掘

 ソクラテスは「試練を通らない人生は生きる価値なき人生である。」と言われました。
日本でもキリシタン弾圧の歴史は徳川250年間以上、厳しく激しく続きました。そのキリシタンの殉教の歴史跡が長崎、天草のみならず、乙女峠(島根県津和野)にも遺されています。その地の聖堂のステンドグラス8枚に、拷問の様子が描かれています。

 その一枚には、5歳の女の子「もりちゃん」に行った役人の拷問が描かれています。飢えに苦しんでいるもりちゃんに、役人は美味しいお菓子を見せて言いました。『食べてもいいけど、そのかわりにキリストは嫌いだと言いなさい』と。
ところが、もりちゃんは『天国の味のほうがもっといい』と答え、殉教の道を選んだのです。拷問に耐え、信仰を守り抜いたキリシタン37名が流刑された津和野の地で命を落としました。
 
2、苦難の目的

 「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」(汽撻謄蹌魁В隠粥腺隠機

 私たちの人生に苦難がある時、心に住まわれるイエスが主権をもたれるか問われます。その時、イエス・キリストを主と崇めているなら、何があろうとあなたの魂に危害を加えることは出来ません。
 ペテロは苦難があっても害されない、と言っているのです。キリスト者は苦難の中から価値あるものが生まれてくるのを知っているからです。
 苦難の目的は第一に、あなたの心が主に王座を明け渡しているか、問われます。第二に私たちが苦難に会う時、主との親密さが問われます。
 主は弟子たちに、「けれども、あなたがたこそ、私のさまざまの試練の時にも、私について来てくれた人たちです。」(ルカ22:28)と言われました。
しかし、弟子たちは主イエスがののしられ、あざけられるのを見た時、主イエスを見棄てました。
 しかし、ペテロはペンテコステ(聖霊の恵みに与かる)の経験を通して、ペテロは勇気ある使徒として、キリストの苦しみに与かる者となりました。

《大いなる救い》2017年2月26日 渡邊泰範牧師  

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。(ヨハネ19:30)

<はじめに>
 私たちの救い主イエス・キリストが十字架上で、「完了した。」と叫ばれた時、その偉大な勝利の叫びには、私たちの過去の罪が「完全に罪が赦された。」という、真理が含まれているのです。
 この「大いなる救い」を受け入れる時、完全に私たちの過去の罪に終止符が打たれ、神に敵していた罪の責めは永遠に取り去られたのです。

1、過去の罪の完全な赦し

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)
 人は「罪」とは、何であるか分からず、罪を認めない人がいます。
 神戸(塩屋)の神学校時代の話しですが、土曜日の午後、神学生はそれぞれの実習教会に遣わされます。2年生の時の実習先は丹波柏原教会であった。
神学校から75キロ離れているので、途中、休憩するため国道沿いの一軒の茶屋に寄った。
ある時、その店の番頭のお婆さんに、イエス様のお話しをした。
その中で驚いたことに「私は今まで罪を犯したことがない」と、何も躊躇せず、己の義を言い表したので、驚いた。世にも不思議な物語である。
この尊いお方様は後で罪を認め、救われることを祈り、祝して立ち去った。
 聖書は「すべての人は、罪を犯した」(ローマ3:28)と記している。また、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)と記している。
 「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(競灰螢鵐硲機В横亜
 罪人であることを自覚し、罪を悔いて、イエス・キリストは「私の罪のために死んだ。」と、信じ、受け入れる時、「私の罪は完全に赦される。」のです。
 主の救いに与かって、相変わらず、罪の責めを負っているならば、平安が与えられません。
 「その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(競灰螢鵐硲機В隠掘
 受洗され、クリスチャンとなった者に、主の御霊は『新しく造られた者』ですと、宣言されます。
 この新生の恵みを受ける時、心がスッキリして、喜びに満たされます。神と和解したからです。

2、現在の罪からの解放

 十字架で完了したキリストの「大いなる救い」のもう一つの恵みは、「現在の罪の支配に終止符」が打たれることです。
 罪人が自分の過去の罪責がキリストの血によって、完全に赦されるだけでなく、キリスト者は現在の罪、悪習慣、汚れ、愛のなさの支配が取り去られ、解放されるのです。
この恵みを願い、与かりたい人は十字架の主イエスのもとに行くことです。
なぜなら、主イエスは私の罪を取り去るために、十字架にかかり、復活され、今も生きて居られるからです。
この主は聖霊によって、贖われた者の中に 内住され、今あなたの中にある罪の力を打ち砕かれるからです。
「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1〜2)

《キリストへの従順》2017年2月19日 渡邊泰範牧師  

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「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように」
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<はじめに>
 キリスト者にとって信仰と従順は切り離せない。復活の主に会ったペテロは主のご愛に応えて主に従った。それもクリスチャンを虐殺したネロ皇帝の迫害のなか主に従った。
 クリスチャンは当然、筋金入りの立派なクリスチャンに育て上げるために、試練という学科を与えて「主への従順」を学ばす。

1、深い主の愛に応えるペテロ

 この手紙は主の12人の弟子の一人ペテロが書きました。主の十字架と復活によって、主を拒んだペテロは赦され主の愛に応えて従いました。
ペテロの手紙は主の愛と慰めに満ちており、迫害のためポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散らばった聖徒に宛てたものです。
ペテロは十字架にかかる前に、3度、「主イエスを知らない。」と否みました。
イエスさまは、十字架にかかる前夜、ペテロが信仰を失わないように祈りました。
イエスさまは復活後、直ちに、テベリヤの海辺でペテロに会い、深い愛をもって取り扱われました。
主イエスは「私を愛するか」と、三度も問われました。
傷心のペテロは主の問いに、自らの弱さを悔い、すべてを主に明け渡し(主に委ね、お任せし、捧げること)ました。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(ヨハネ21:17)
そして、主はペテロが年老いてから、行きたくない所に、連れて行かれ、殉教を遂げ、神の栄光を顕すことを、告げられました。(ヨハネ21:17〜19)
イエスはこのようにペテロにお話しになってから、『わたしに従いなさい。』と言われました。
主のお言葉とペテロの「キリストへの従順」は、ペテロの手紙で実現しました。
 「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。(汽撻謄蹌院В隠粥腺隠機
ペテロは十字架の血による聖めの恵みと、主の復活の望みに与かり、主の愛に応えて、従いました。

2、主の弟子としての条件“自分の十字架を負え”

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれで もわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。』」(マタイ16:24〜25)

主より与えられた十字架を負うには、先ず自分の自我に死に(古き我はキリストと共に十字架に磔殺され、信ずる者に住まわれるキリストと共に生きること。)、主のくびきを負って、主と共に歩むことです。
自分の十字架とは、神の御旨を遂行するために苦しみ、神と人とのために犠牲になることです。
人にはおのおの負うべき「自分の十字架」があります。
「わたしのために命を失うもの」は、「それを見出す」との逆説は、霊界における定則である。

《すべてを知り給う神》2017年2月12日 渡邊泰範牧師  

詩篇139篇1〜24
「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。」(詩篇139:7)

<はじめに>
 英国で用いられた説教家、C・Hスポルジョンはこの詩篇139篇を「最も注目すべき聖なる詩」と言っています。本篇は神がすべての事を知っておられ、何処にでもご臨在して居られる神の全知遍在を記しています。
ダビデは神に一部始終知られ、何処に行っても神のみ前、み顔(臨在)から逃れられないことを知り、この奇しき神を畏れ身を屈(かが)めて、礼拝し、
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」(139―23節)
と祈っています。

1、神の全知

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」(詩篇139:1〜2)

 私たちの信じる神は、私たちを完全に知り、私たちの思いも、行為も、皆ことごとく知り給うお方です。このことを私たち自身にあてはめ、神を仰ぎつつ、祈りの中に黙想するならば多大の恵みが得られます。
神は私たちが考える前に、既に私たちの念(おもい)を知る。或いは、遥かに高い天より、私たちの心の奥底まで見透し、私たちの計画も企ても悉(ことごと)く知り、私たちのなす行為を悉くふるいにかけて、その善悪を完全に選り分ける。

 神は私たちの歩む道が正しいか、又は横道であるかを知っておられる。私たちが世の中の凡ての友より離れて、ただ独り臥して居る時も、神はあなたが如何なる思いを心に懐いているかを知っておられます。(3)
私たちの語る言葉が虚(むな)しい言葉であっても、又、善い言葉であっても、それが何を意味するか、又、如何なる考えより出で、如何なる目的を以って、話されたかを知っておられます。(4)
私たちは何処にあっても、神の御目と御手とは常に私たちの上にあります。すべての聖徒は皆、神のみ手の中にあるのです。(5)
このような知識は私たちの到底、理解し難いもので、これを説明することは更に至難である。(6)

2、神の遍在

 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。(8〜11)
神は霊なれば、私たちは神を見ることは出来ませんが、神は私たちを見ているのです。それ故、ダビデの信仰告白が7節にあります。
「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょ う。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。」(詩篇139:7)
 この聖句は詩篇のハイライトです。愛唱聖句です。私たちもアーメンと言って、この聖句を唱えると心が爽やかになります。

3、神の全能

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇139:13)
 神は私たちを創造した方なので、私たちを知りつくされるのは当然であります。

《救い出される主》2017年2月5日 渡邊泰範牧師  

詩篇34篇1〜22
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」
(詩篇34:18)

<はじめに>
 詩篇34篇はダビデが嫉妬に狂うソウルに追われて、敵地のペリシテ王アキシュという「アビメレク」の前に引き出される恐怖から救い出された時の賛美である。
 ダビデは驚愕(きょうがく)のあまり狂気を装い、絶望と思われた中から九死に一生を得て(汽汽爛┘襭横院В隠魁房腓里潴召鯊腓い砲曚畩里┐討い襦

1、逆境の時も主を賛美しょう

 「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」(詩篇34:1)
 「あらゆる時」、「いつも」とダビデは強調します。
宗教改革者ルターは弾圧を受けて、記しています。
「私は今までほんの暫く主をほめていた愚か者であった。私が無事で、安泰で会った時も、また試練と逆境のうちに会った時も主がいかに強い方であったか知らなかった。それゆえ、私は今から後、逆境に遭っても神をほめたたえよう。」と、弾圧下の経験より生まれた主の救いを讃美歌にも残しています。
 「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」(詩篇34:4)
 ダビデが味わった恐怖が、いかに圧倒的であったか物語っていまあす。その絶望的な危機の中から主に求めると、主は救い出してくださったと、主に信頼することを証し、隣人に呼び掛けています。

2、打ち砕かれた者を救い出される主

 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」(詩篇34:18)
 愛に満ちた優しい主が悲しみ、心打ち砕かれ、崩れ落ちる者を労り、救い出される絵をここに見ます。主は悔いし砕かれた者の近くに、共なり給うお方様です。

 懺悔録を書いたアウグステイヌスは言います。
「神は高きにましませり。キリスト者たる者よ、汝よろしく低きにあれ。汝いと高き神に近づかんと欲せば、高きに登らず、低くせよ。偉大なる秘密は兄弟たち、ここにあるなり。神こそはすべての上に高くまします汝自らを持ち上げて神に触るることあたわず。かえって、汝自信をへりくだらしめなば、神くだり来たりて、汝と共にあらん。」
この世は主と主につく者に盾突く世界です。

3、正しき者は悩み多し

 「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」(詩篇34:19)
 この聖句は詩人ばかりか、読む者の心に慰め、染み入ります。
 「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」(マタイ5:11)
 ある意味でキリスト者が迫害されるのは、キリスト者が平和をつくり出す人だからです。罪と世に関する聖書の教理がこの二つの祝福の教理「平和をつくる者は幸いです。」「義のために迫害されている者は幸いです。」に、的確に表現されています。
 「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」(詩篇34:20)
 世に在って、如何に苦難が大きくとも、主は救い出されるのです。

《愛は恐れを取り除く》2017年1月29日 渡邊泰範牧師  

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「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(第汽茱魯唯粥В隠検

<はじめに>
 私たちが懲戒、苦悩、束縛に直面した時、心に「恐れ」が起こってきます。「恐れ」の要素は相手の意図が読めず、又、何が起こって来るか分からないからです。不確定で不透明の時代に生きる私たちに、その恐れを締め出して下さるのは主のご愛です。愛は豊かに与えることをなすからです。

1、恐怖の要素

 恐れという「恐怖」を心に投げ込んでくる要素は何でしょうか。一つは魂の力の足りなさです。神のみ旨を想う時余りにも難しく考えて、「恐れ」を抱きます。私たちに求められる服従は困難で、従うなら人に捨てられ孤独になってしまうと考えるからです。

 「恐怖」の第二の要素は自らの思考の働きによる想像です。恐怖の大部分は想像によって生まれます。人は根も葉もない事のために悩みます。例えば外科手術といった、かねて恐れていた事実に直面した時、必要以上の恐れにとらわれます。私は手術を受ける時、痛みが伴っても積極的に立ち向かいます。愛する主が伴って下さり「平安」を与えて下さるからです。また治して下さり、今まで以上に良くして下さることを信じるからです。

 「恐怖」の第三の要素は相手方の意図が分からないために恐れるのです。相手が私たちの弱さをどのように攻撃してくるか、敵対心を抱く時恐れが生じます。

2、恐れを取り除く主の愛の豊かさ

 「愛には恐れがありません。」と、述べているように恐れを取り除く治療は「愛」という文字です。
 「FAIR」(恐れ)は「LOVE」(愛)に置き換えられます。
 私たちの心に主の愛が注がれると、たちまち恐れがなくなります。どのような事情、境遇が変わっても、主の愛は私たちを蔽い、取り囲み、平安を与えて頂けます。
 愛は相手に、与えずにはおれないのです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
“神は・・ひとり子をさえも・・与えたほどに愛された”と記されています。神は今も私たち一人一人を愛しておられます。私たちの「愛の足りなさ」に対して神の愛は如何に豊かに与えて下さったでしょうか。
 深く主の愛を憶えたいものです。

3、愛の成長

「全き愛は恐れを締め出します。」愛には成長があることを示しています。“全き愛”とは完成された愛という意味です。
 愛を完成させて下さる事実は、神が十字架でなされた贖いの業です。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(第汽茱魯唯粥В隠亜
 私たちのキリストに対する愛、神に対する愛は神の贖いの愛の事実の上に根ざしているのです。

《天を慕う生涯》2017年1月22日 渡邊泰範牧師  

ヘブル11:13〜16
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。・・彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」(ヘブル11:13、16)

<はじめに>
 ♪“旅人なるこの身にとりて 慕わしきはあまつ故郷(ふるさと)
   救い主にまみゆるまでは 心満たすものはあらじ”(総合聖歌677番1節) 
この歌の如く、お互い『天を慕う生涯』を送りたい。アブラハムは神の召しに従って、父も親族も離れ、天の故郷をあこがれ旅したのです。

1、アブラハムは天の故郷を慕った

「信仰によってアブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召しだされると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです。」
(ヘブル11:8)
アブラハムはカルデアのウルで、父テラと過ごしていましたが神の召しに従って、父の家族と別れ、行く先も知らないで出て行きました。神は約束の地、カナンにアブラハムを導かれました。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)とあります。

 私は神の働き人として召し出された時、懐かしい柴又を離れ塩屋の神学校に向かいました。共に過ごした家内と母と愛犬3匹とも別れ、神戸に単身で行きました。大変つらかったのですが、アブラハムの信仰に導かれて家を出ました。家内に泣かれました。脳梗塞の母の面倒を看て貰っていましたので、申し訳なく思いました。すべての生涯を神のみ手に委ねました。そのような険しい道を敢えて進みましたので、家族の方には分かって貰えないこともあった事でしょう。
その年の秋、母は20年の信仰生涯を送って天に召されました。母の死は看取れず神戸から駆け付けました。
塩屋を卒業して、伝道の地は未知の鳥取に神は導かれました。皆様にとっても、神が一人一人に導かれた所が、祝福の地です。

 私たちは見えるところによらず、信仰に導かれてこの世を旅することです。アブラハムは生涯、外国人(寄留者)として天幕(テント)生活をしながら、神を礼拝しながら旅をしました。アブラハムは神が約束されたことの成就を信じて、忍耐をもって従いました。

2、私の母は天のふるさとを慕い求めた

「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:16)

 私たちの故郷は天国である。地上での生活は通過点に過ぎません。
地上での生活が如何なる困難な時があっても、この世の向こうに、良き天の故郷があれば、耐え忍べるのです。

 母がキリストの救いに導かれたのは、恩師、本郷善次郎先生の奥様が天に召された時、その遺影が余りにも美しく、奥様が生前、母に伝えた「教会に来なさい。」のひと声を想い出し、教会を訪ねたのです。
長い間の祈りの結果、教会に来て、その場で洗礼を志願しました。受洗して、10年は元気に礼拝に熱心に通いました。その後、10年は不自由の体になりましたが礼拝に通いました。私の母はいつも、やがて栄光の体に蘇る望みに生きました。主の恵みに感謝します。

《優先される祈り》2017年1月15日 渡邊泰範牧師  

マタイ26:36
「イエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。』」
(マタイ26:36)

<はじめに>
 主イエスはご自身の究極目的(贖罪の十字架)と対決されるために、ゲッセマネという静寂なところに行って祈られた。又、イエスは12弟子を決める時、父なる神に祈るために山に退いた。(ルカ6:12)
神の御子といえども、人となられたイエスは父なる御心を遂行する(ヨハネ18:11)ために、朝に夕べに静かな所に退き、世を明かすほど祈られた。
 私たちも神のみ旨を知り、力ある証し人となるために、祈って奉仕をしたい。祈りなくして神の業はは起こらない。
祈りの人、ジョージ・ミユーラー(1805〜1898イギリス・ブリストル没)は世俗に頼らず神のみに頼るという方法(フェイス・ミッション)を生涯貫き、数千人の孤児たちを養った。
主に信頼し、主に愛される者は祈りは応えられるれるからである。

1、楽しき祈りよ(Sweet hour of prayer)

 ♪“楽しき祈りよ、憂(う)きこの世離れ、御位(みくら)に近づき、神と語らしむ、悩みて 在りし日此処にて幾度、試むるものの罠より逃れし”(聖歌254−1番)
 祈祷会でよく歌われるこの賛美は愛唱歌である。
何故、“祈りは楽しい”のか。それは悩み、困難に直面した時、神に祈った時、「神は祈りに答えられる。」からである。
 神に祈り、応えられたことが、“此処にて幾度(いくたび)”と歌われているのが経験的で嬉しい。
「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。」(詩篇91:15)
この詩篇の作者(モーセの祈りと言われている)が苦しい時、父なる神に呼び求める時、「私(父なる神は)は答える。」と、約束されている。
 力強い祈り、神との親しき交わりである祈りの秘訣がここにある。私である、神様を普段より愛し、知っているから、助けると、約束される。
「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。・・」(詩篇91:14)

2、癌と戦った一人の聖徒の祈りの証し

 岡山の聖会で主の救いに与かった稲葉兄の祈りに答えられた証しである。彼は聖会に来た時、未だ主に救われていなかったので、主の救いに導いた。
翌年、同じ聖会で兄弟に会った。彼は喜んでいた。主を受け入れたからである。処が次の年の聖会で、彼の姿が見えないので、神戸の教会員の方に聞くと、闘病中で、それも「膵臓癌」の末期との事。
聖会の後、彼をお見舞いするため神戸の自宅を訪ねた。重病の中でも、ご馳走まで用意して、待っていてくれた。胸が詰まる想いでであった。
食後、彼は聖書を開いて証しをされた。彼は苦しい中、一生懸命、神に祈った時、「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。」(14節)と、このお言葉を頂いたと、聴き、感激した。彼は救いに与かって2年足らずなのに、「何と神に愛されているか!」と、主のみ名を賛美した。祈りの答えが鮮やかであった。

《外なる人と内なる人》2017年1月8日 渡邊泰範牧師  

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「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第競灰螢鵐硲粥В隠供

<はじめに>
 使徒パウロは「私たちの外なる人」衰えていることを語っている。私たちは土の器、幕屋(テント)なるこの体が壊れ永遠に存在しないことを知らなければならない。
 神から与えられた私たちの体は長いこと実に素晴らしく保たれている。しかし、必ずいつかはその体も新しく回復することがなくなる時が来る。
 使徒パウロの場合、キリストの働きをするのに堪えてきたために肉体の衰えが早かった。事実使徒パウロは疲れ切っていたが覚悟していたことであった。使徒パウロは肉体がたとえ衰え古くなったとしても、肉体の中に住む内なる人は衰えないという答えを持っていた。

1、外なる人は衰えても、内なる人は日々新たに

 外側の体は若くならないにしても。人は成長することをやめない。
・キリスト者は神の導きを経験することにおいて、神の言葉の知識を持ち、信じることにおいて、キリストのようになることを望む。
・神の働きの中で有益な者になることを望む。
さらに神のみ旨をに服従することにおいて、み子のようになることを望む。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第競灰螢鵐硲魁В隠検
私たちは聖霊の働きによって、「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」と、聖句は示しています。
何という主の恵みでしょうか。

2、内住のキリストの恵み

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)
 この愛唱聖句は、主イエス・キリストが最後の晩餐において、何と父なる神、子なる神が主を愛慕う者に私たちの内に住まわれると、約束されます。
このキリストの 内住を信ずる者に、その瞬間から「私たちを日々、栄光から栄光へと、主と同じかたちに造り変えてくださる。」のです。
 パウロは私たちとキリストの関係を、主が現れる時、私たちもキリストと共に、栄光の内に現れますと、述べています。(コロサイ3:4)
続けてパウロは「それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。・・・それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(第競灰螢鵐硲粥В隠亜腺隠院
と、述べています。
 ですから私たちの幕屋なる肉体が壊れても、天にある永遠の家があると確信できるのです。
「神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」    
(競灰螢鵐硲機В院

《ただこの一事を努む》2017年1月1日 渡邊泰範牧師  

ピリピ人への手紙3章1〜21節
「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。」(ピリピ3:13口語訳)

<はじめに>
 元旦礼拝は「ただこの一事を努む」というメッセージが導かれた。パウロほど恵まれたクリスチャンはいない。パウロの晩年のキリスト者としての完成への目標は「キリストの如くなる」ことであった。
 このメッセージはジョン・ウェスレー(John Wesley;18世紀の英国国教会のキリスト教司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導した。)の「完全なるキリスト者」として遺されています。また恩師、本郷善次郎先生も同じメッセージを遺されています。『ただこの一事を努む』(新改訳;励む)という標語は私たちクリスチャン生涯の目標でありたい。

1、ただこの一事を努む

 「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。」(3:13口語訳) 
パウロは全力を集中して、現状に満足せず、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために」一心に走りました。
立派な芸術家も、音楽家も、オリンピックのアスリートでも、ご自分の作品や競技に満足せず、未だだ!未だだ!と、完成を追求して行きます。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(競灰螢鵐硲魁В隠検

 私たちは皆主の御霊によって、栄光から栄光に主と同じ姿に造り変えられて頂ける者なのです。イエス様の救いは魂が造り変えられるだけではなく、外側までイエス様に似た姿に変えて下さる。
やがて主イエスの再臨の時、主と同じ栄光の姿(栄化の恵み)に変えて頂けるのですが、この地上にありながらも、主と同じ姿に聖め(聖化の恵み)られて行くのです。

 お互いは過去の失敗、成功にとらわれやすいので、前進するところの意欲を失ってしまいます。けれども自我の磔殺(私という古き己もキリストと共に十字架につけられて死んだのです。)の恵みによって過去の一切を清算して頂き、 内住のキリストによって、新しく前に向って行く事が出来るのです。

2、私たちの走る目標

「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13後〜14)

 パウロはダマスコ途上において、死から蘇ったイエス様のご顕現に出会って全く生まれ変わった生涯に導かれました。
主イエスに捕らえられたパウロは、主イエス・キリストの使徒として召され、福音の使者として遣わされたことを知りました。
それ故、パウロが今まで誇りにしていたことを
「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、・・いっさいのことをすべてのものを捨てて、それらを塵あくたと思っています。」(ピリピ3:8)と、告白しています。

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