東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ
2018年 2017年 2016年

■中川伝道所メッセージ
2018年 2017年 2016年

《キリストをうたう》2016年12月25日 飯塚俊雄牧師  

ルカ2:14〜20

 クリスマスの夜の天の明るさは、神が神にしかできない究極の愛の仕事をされている明るさである。対照的に地の暗さは、神の救いのみわざに無知、無関心の闇に沈んでいるこの世の姿を示している。

 御子が地上に行かれることを知った御使いたちの驚きと敬意が大賛美となった。イエスさまが行かれたからには、究極的な救いは成就したと確信し、栄光あれの賛美となった。

一、主は天の栄光をこの世に持ち込まれた。即ち、神が共にいて下さる臨在の輝きである。
一、また御使いの賛美は、地上に真の平和が主によって到来する歓喜である。
罪ゆえに離反した神との関係が癒され、愛と信頼が確立するのだというハレルヤである。
一、地において最初の賛美を献げたのは羊飼いたちであった。なぜか。天の告知に対して直ちに応答したからである。東方の博士たちも星の導きに応答したが、喜びに溢れ賛美した。さらに彼らは赤子イエスに真の救いを見て信じた。知り得た知識を行動に活かそう。

《主を待ち望む》2016年12月18日 飯塚弘道牧師  

汽謄汽蹈縫隠款

 キリストは贖罪の仕事を完成して昇天されるにあたり、「わたしは、もう一度来ます」と約束されました。二千年前には、私たちを罪と死とサタンの支配から救うために来られました。これをクリスマス(キリスト礼拝)と言い、再び来られるのを再臨と言います。

 最初の時も、神は長い年月をかけて、人々が神の民にふさわしく生きてほしいと父祖や預言者たちを通して、悔い改めを呼びかけて来られましたが、民の反逆性は甚だしく、遂に御子ご自身が人となって来られるという宇宙的大事件となったのです。飼い葉おけで生まれ、十字架に向かってひたすら進まれたイエス様は「完了した」と叫ばれ、三日目に復活されました。では、再臨を待つ私たちはどのように歩むべきでしょうか。

第一に、きよい生活です。はっきりと罪を言い表し、十字架の血で洗って頂いたらきよく生きたいと思うはずです。
第二に、互いに愛し合いましょう。
第三に、希望を抱いて進みましょう。やがて永遠の御国でなつかしい人たちと再会できるのです。

《マリヤの賛歌》2016年12月11日 飯塚俊雄牧師  

ルカ1:39〜56

 マリヤの心は熱い。待ち望んだメシヤのいのちが今や彼女の胎内で息づいているのだ。わがたましいは主をあがめる。神の偉大さを高らかにほめたたえる讃美の力強さよ。

一、彼女は神の憐れみを賛美する(50節、54節)神は聖なる全能のお方である。しかも、卑しく低い者を顧み、寄り添い、力となって下さる。
イスラエルを選んで、律法を与え契約を結ばれると、彼らが不信、背信であっても、エレミヤを通して「わたしは永遠の愛で愛し誠実を尽くして来た(エレミヤ31:3)」と言われる。
その憐れみは今や全世界、全民族へ救いの恵みというかたちで完成された。神は罪と死と亡びの支配下にある私たちにみ子イエスを究極の救い手として与えて下さったのである。

一、彼女は力ある方が私に大きな事をされたと歌う(49節)。
大きな事とは主イエスを聖霊によって受胎したこと。この事実こそ彼女だけでなく全世界に大変革をもたらした。倫理的変革である(51節)。価値観の転換である。社会生活(51節)、経済的(53節)革命である。

《まことの光が世に来た》2016年12月4日 飯塚俊雄牧師  

マタイ2:1〜12

 時はローマ帝国の最盛期。皇帝アウグストが指一本動かせば文明世界がすぐになびいたという。まして東方の一属国ユダヤの田舎に一人の赤子が誕生した事など、意にも介さぬ小さな出来事だった。しかし、贖罪のために神が人となられるという宇宙的大事件である。

 人は無関心であっても大自然は明確なしるしを歴史の中に残している。

一、東方の博士たちは連夜、まばゆい昇り行く巨大な星に、メシヤの星(民数記24:17)を読み取り、身支度を整え果敢にも旅に出た。有名なドイツの天文学者ケプラー(1571〜1630)は、計算によりBC7年5月に土星と木星が魚座で出会い、翌年火星まで加わった事をつきとめた。想像を絶する輝きだったという。

一、その光の中で生まれた「ユダヤ人の王」とは。天の星まで喜びおどらせる世界的な王、イエス・キリストである。真理そのもの、永遠の王、主の主である。

一、ヘロデはイエスをライバルと見た。律法学者たちは知っていながら無視した。博士たちだけが礼拝を献げ喜びに溢れた。

《われらと共におられる神》2016年11月27日 飯塚俊雄牧師  

マタイ1:18〜25

 神には愛の激痛があった。御子イエスを地上に送って死なしめるのである。御子はみ父のみ心に完全に従順であった。「わたしにからだを用意して下さい」(ヘブル10:5)こうして白羽の矢はナザレの村の処女マリヤに当たる。「聖霊があなたを覆う。聖なる神の子があなたに宿る」。彼女は答える。「おことば通りになさって下さい」。これらは三位一体のなされた秘儀であり、人知を超える。

 神が罪を犯した人間と共になるための唯一の方法がこれであった。

 こうして、イエスは罪深い人間の系図の中に入るかたちで歴史の中に来られた。イエスとは、すべての罪から私たちを救う方という意味である。別名、インマヌエルとは私たちと共におられる神をいう。十字架を目前にして主は祈られる。「父よ。わたしを信じた人たちが永遠にわたしと共に居り、わたしの栄光を見るようにして下さい」。
十字架上でも悔い改めた強盗に、わたしと共にいると約束し、復活の後にも世の終わりまでいつも共にと言われる主である。

《感謝のうた》2016年11月20日 飯塚俊雄牧師  

詩篇100篇

 三千年も昔なのに、この詩の作者は「全地よ。主に向かって喜びの声を上げよ」と叫ぶ。自分にいのちを下さった神に感謝を、と言うのである。感謝の普遍性がここにある。

 感謝とは、神の恵みを知る心。だから喜んで奉仕に当たる。純良な質の奉仕。喜んで仕える人は魅力的である。感謝の具体性である。

 感謝する人は生ける神を礼拝せずにおれない。讃美が口に溢れ、聖日礼拝を生きがいとする。感謝の宗教性である。

 年とともに神を愛し、み心に従いきよい生涯へと生きる。「喜びの賛美」、「神への奉仕」、「神の大庭に入れ」と続く呼びかけは「知れ、主こそ神、主が私たちを造られた」は「私たちは主のもの」、主の宝としての存在、永遠の守りの保証へとつながる。主のご愛の保護、その真実ないつくしみに養われてこそ、この世の旅路は楽しい。私たちの心の奥深く喜びの泉が湧いていないなら、主のみもとに行こう。主はこの喜びを具体化するために、この世に下り、十字架の死によってその愛を実証されたのである。

《神に守られている人たち》2016年11月13日 飯塚俊雄牧師  

汽撻謄1:1〜9

 この手紙の著者はペテロである。女性のあざけりに恐れをなし、三度までも主を否定した男である。しかし慰め溢れる優しさに満ちるこの手紙の主旋律は「喜び」である。しかも「栄えに満ちた喜び」である。激しい試練と弾圧の中で、キリストの苦しみにあずかれる光栄を喜び、あらゆる恵みに満ちた神が、私たちを完全にし、堅立させ、強固にし、不動の証人と造り上げると断言している。

 神の御力に、信仰のパイプで連結する時に与えられる「守り」とは、このような人物に変身されることにほかならない。それは、

一、罪がことごとく赦され、新生した魂である。
一、み心のままに従う生き方をするため、永遠の初めから予定され選ばれた者である。
一、よし試練をくぐるともそれを活用し、自分の霊性を甘美なものとする人である。
一、栄光あふれる歓喜と救いの完成にあずかる希望に燃えて、主に仕える人物である。

 主はこのような人を称賛され、彼らによって光栄を得られ、永遠の栄光を共にされる。

《神が私たちの味方であるなら》2016年11月06日 飯塚俊雄牧師  

ローマ8:26〜39

 全宇宙が神の主権によって創造されて以来、神の自由意志で動いているというのが聖書の主張です。神は万事を予知し、私たちを選び、義とし、聖化し、栄化されます。その選びの絶対性、確実性を訴えます。そして、神を味方とする人生の究極の勝利を保証するのです。

一、私たちは神の永遠の目的の中に居場所を与えられています。神はすべての人が救われて悔い改める事を望んで居られます。亡びるなら本人が神の恵みを拒否したからです。神のご目的は私たちを罪の滅びから救い、潔めてキリストのようにすることにあります。

一、神はみ子の十字架によって愛を示し、子たる身分を与え、アバ父と呼ばせて下さいます。

一、神は摂理的支配を以て、神を愛する者に万事が最善となる確信を与え楽観させます。神のご計画には愛のご意志があるのです。

一、神との愛の交わりは永遠で、いかなるものもこの愛を引き裂けるものはありません。これこそ人間がこの地上で到達できる最高点です。あなたは神を味方としていますか。

《人生三つのうめき》2016年10月30日 飯塚俊雄牧師  

ローマ8:18〜26

 私たちが生きる不条理なこの世は、これからどうなって行くのだろう。もろい肉体をまとった私たちはやがてこの世を去る。それから先はどうなるのだろう。これら重大な問題に対し、神は今どうされているのだろう。「いのちの御霊は罪と死との法則から私たちを解放した」とは言うが(ローマ8:2)。これらの問題に聖書はキリストの十字架と復活の事実と再臨の約束をもって明快に答える。

一、被造物のうめき(22節)。大自然は人間の罪のとばっちりを受け、虚無に服している。弱肉強食の修羅場を見よ。しかしキリストの再臨により、やがて新天新地が誕生する。これを生みの苦しみにたとえ、希望の痛みと言う。

一、キリスト者のうめき(23節)。私たちの肉体自身が贖われる日を待ち望んでうめく。すでに聖霊の初穂を頂いているのも、栄化の保証であり、再臨の日こそ救いの完成の日なのである。

一、御霊のうめき(26節)。その日を目指し、御霊は私たちに祈りを促し、言葉にならない痛みで、み父に執り成していて下さる。

《まことの礼拝者》2016年10月23日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ4:3〜30

 この物語の中心は、人にとって神礼拝は神の至上命令であること。神とはいかなるお方であり、人はどのようにこの神を礼拝すべきかを教えている。舞台はサマリヤの井戸辺。登場するのは名もなき一女性と「わたしがメシアである」と自己紹介された神ご自身。

 女は罪の底に淪落し、品性を汚し人格の尊厳を失い、飲んでも飲んでも渇くこの世の歓楽に沈んでいる。すでに、霊性という一物残して一切を失っている。主はその霊を目がけて、いのちの泉の内に持つ人生を語り、「それを下さい」と言う彼女の罪の事実を指摘し、悔い改めを迫る。罪赦された人間にとっての最深の欲求は、愛なる神を礼拝することである。

 彼女は場所の優劣を主に問うが、場所や形式ではない。神は霊なるお方であるから、霊と真実な心での礼拝こそ神の求めたもうところであり、メシアの来世によって新しい時代の到来を告げる。一時間前の裏ぶれた女性が聖霊と力に満たされ、サマリヤ全土に祝福をもたらす人物になる。真の救いとはこれである。

《天に向かって走る》2016年10月16日 飯塚俊雄牧師  

ピリピ3:3〜21

 一度限りの人生を輝かせたいと思う時、使徒パウロの生涯をしきりに思う。殉教を目前にして、走り切ったと断言し、静かに首をさしのべた彼。栄冠をすでに手にしていたのである。若き日、彼はキリスト教弾圧の急先鋒であった。
復活の主に変えられて「異邦人の光とする」、行けの命令を耳にして以来、使命を果たし終えるなら、いのちは惜しくないと言い切ったほど、福音に燃えた彼。

 彼にはキリストこそ価値観のすべてであった。主を知っている。人格的に霊的に合体している。万事聖霊のご支配のままであった。だから彼には栄光の希望が輝いていた。

一、彼には満ち足りた中での渇きがあった。エバー・オンワード、絶えざる前進である。
一、キリストの十字架の血による罪の赦しが明確であった。過去が全く切れていた。
一、この一時に励んでいると明言できた。
一切の付着物をこぞぎ落とし、人生をしぼり込もう。渇き、忘却、集中。これが栄冠への道である。円熟した信仰とはこの生き方である。

《人生はなぜ淋しいのか》2016年10月9日 飯塚俊雄牧師  

詩篇51:1〜17

 淋しいのは罪があるからです。いのちを下さった愛なる父なる神に背を向け、その愛を受けつけないからです。人間の淋しさは神なき淋しさなのです。神は全世界にも勝る貴重な存在として愛して下さっています。独り子イエスのいのちに代えるほどの愛なのです。

 ダビデは人妻を奪い、その夫を死に追いやる大罪を犯しました。巧みな殺し方でした。神の聖なる憤りに触れたと聖書は言います。

 もはや、どんなに外面を飾っても、神の手は重くのしかかり、骨も枯れるほど苦しみます。ここで王の体面をかなぐり捨て、素裸になって神に叫びます。なぜ叫べるのか。神には憐れみがあるからです。そこでこそありのままの自分になれる!正直に告白できる唯一の場、それは十字架の前です。彼は自分の本性の中にしぶとく根を張る醜い自我性を根こそぎ取り除き、きよい心、不動の霊を新創造して下さいと祈る。砕けた悔いた心の幸いを実感し罪の束縛からの解放を歌います。この恵みに生きる時、淋しさからも解放されます。

《神の愛にこたえる》2016年10月2日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ20:24〜29

 主イエスが復活されたことを仲間から聞いても、「私は決して信じない」というトマス。キリストの死を見届けた彼には、その無残な姿はキリスト教の死滅とも見えたのです。
「私は釘で穴のあいた手に指を突込んでぐりぐりしなければ」と。トマスはいい加減に妥協しない。誠実な疑いを隠さない。分かるまで食いさがる人の中に信仰の姿があると言えます。あなたも納得するまで問いなさい。

 次に、どこで疑うか。それは教会の中でです。八日前のその日、彼は家に閉じこもって交わりに出てきませんでした。みことばに光を当て、鈍い私たちの知性を照らし、信仰へと決断させるのは教会です。教会を離れては疑いを克服できる場所はこの世にありません。

 さらに、主は信じる者となれ、と静かにみ手をトマスに差し出します。彼はたまらず、「私の主、私の神」と叫び、礼拝する。この「私の」は愛のことばです。私の夫と言えば、この人との人格関係があるという意味です。
彼は南インドにまで宣教し、殉教します。

《失望しないで祈れ》2016年9月25日 飯塚俊雄牧師  

ルカ18:1〜8

 祈りは、救われた私たちに神が与えて下さった交わりのパイプです。全宇宙を造り、私たちにいのちを与え、み子イエスをくださるほどに愛しておられる神を、お父さまと呼べる特権を、どれだけ感謝し、活用していますか。

 主は、祈りには待たされることもある、しかし、ふさわしい時に必ず実現して下さることの実例を、たとえで語っておられる。

一、祈りにはしぶとさが要る。決して失望してはいけない。うるさくて仕方がないほど、ねばることが神の喜びなさるところです。

一、社会的に圧迫されている貧しいやもめを神の選民に対比しておられる。神を無視し、しぶとい自我に生きる社会の中で、私たちは再臨の主による最後の審判を知っています。

一、神を恐れず、人を人とも思わぬ不正な裁判官でさえ、やもえの執拗な訴えに根負けして、願いを聞いてやったとすれば、まして独り子をさえ下さった愛の神が私たちの祈りに応えなさらないはずはない。但し、このやもめのような信仰があるでしょうか。

《老若共に生きる教会》2016年9月18日 飯塚俊雄牧師  

出エジプト20:12

 現代は他人と口をきかずに生活が出来るし、目を合わせなくても何でも入手できるネット社会です。一方、両親の不和、家庭内の会話の断絶、育児放棄、虐待、暴力が満ち満ちて、人知れず苦しむ人が絶えません。そのような時代にあって、「あなたの父と母を敬え」とはどういう意味でしょう。

一、まず、その根拠です。それは私たちを造られた神の三位一体性にあります。愛なる神は父、み子、御霊の永遠の交わりをしておられ、私たちもこの神に似た者として造られ、堕罪してもなお神は、み子イエスによって愛の共同体、神の家族の回復を十字架上で宣言、再臨の日の完成を目指しておられます。これが基盤です。

一、なぜ父と母を敬うのですか。これは単なる道徳訓ではなく、私たちが親によって生存したからです。その親が老い、介護者も老いる現実。この命令を守る人は真の聖徒です。

一、この命令は私たちを赦しと愛の世界へ導きます。いま私たちは神の家族です。神を父と呼び、主を兄と仰ぐ霊の兄姉がいます。

《あなたの家、身内に》2016年9月11日 飯塚俊雄牧師  

マルコ5:1〜20

 主イエスのお心にはギリシア風の十の都市(デカポリス)への重荷がありました。そこはガリラヤ湖の東岸、ガダラやゲラサ、ダマスコなど旧約聖書を知らない異邦人の町々でした。その日、主はガリラヤ湖で暴風雨の中をやって来て、すでに夕暮れ、疲れ切っておりました。すると夜の闇の墓場から大声を上げて飛びかかって来る男が居りました。足かせも鎖もひきちぎるほどの怪力を持つ悪霊に憑かれた人、狂人とされ、誰からも恐れられた孤独な人でした。

 彼は主の前に来ると礼拝し、私を苦しめないで下さいと哀願。お前の名前はと尋ねられるとレギオンと答える。主に名を聴かれた人の生涯は変わります。変えられます。ヤコブが、ペテロがそうでした。彼を捉えていた悪霊は追い出され、彼は正気に。「主よ、私を連れて行って下さい」。「いいえ、あなたの家、身内の許に帰り、神の恵みを証ししなさい」。異邦人への最初の宣教者は、悪霊に苦しんだ村一番の嫌われ者の彼だった!

 罪の暴力の悪霊に苦しみ支配されて来た私たち。今はだれもが主の証人なのです。

《生きて働く信仰》2016年9月4日 飯塚俊雄牧師  

ヘブル11:1〜6

 信仰とは、今望んでいる事柄の実在性を確信することです(柳生訳)。つまり、神にあって期待していることが必ずそうなると受けとめることです。そこには時間的な要素があります。キリストを信じれば救われる、これは即刻、実現します。しかし主の最大の約束である再臨は二千年間も待たされています。

 空間的要素もあります。見えないお方を見続けたモーセが実例です。臨在信仰です。

 生きて働く信仰は、まず肯定的です(6節)。神のみ言を疑わないで信じて従うのです。さらに受容的です。イスラエルの民はカナン入国を約束されていました。新約聖書では勝利と平安の意味ですが、彼らは耳で聴くだけで心で信じようとしなかった悲劇が背景にあります。そして、前進的です。幼稚園にいつまでもいないで完成を目指して進みます。エジプトを慕い求める肉的な生き方に背を向け、荒野に向き返るなら神の栄光が見えます(出エジプト16:10)。それは建設的。
11章は信仰の勇者の列伝です。救い、潔め、成長させる信仰は必ずやり遂げます。

《感謝のささげもの》2016年8月28日 飯塚俊雄牧師  

競灰螢鵐8:1〜12

 主イエスはお金の話をよくなさいました。レプタニ枚を献げた未亡人、一枚の銀貨を血まなこで探す女性。お金は人間の高貴な部分と卑しい部分が触れ合う場所なのです。だから、パウロも少しも躊躇しないで教会の必要を訴え、正しく用いるよう指導しました。引き合いに出したのがマケドニアの諸教会の事例でした。彼らの現状は、激しい試練と極度の貧しさでしたが、与える姿勢は、満ち溢れる喜びと惜しみなく施す富と表現できた。

一、それは彼らがまず自分自身を神に献げていたからです。
一、その献げきる信仰はどこから。彼らはキリストの恵みを知っていたから。恵みとは、万有の主である神が独り子を私たちに与え、キリストは地にくだり、十字架の死を以て一切を私たちに与え尽くして下さった。その「恵み」を彼らは知っていた!
一、コリント教会の過去の積極性の実績を評価し、その姿勢の完遂こそ栄光だとした。
一、神の本質は9:8。だから、分に応じ、惜しみなく、喜びを以て、これが献金の精神です。

《私たちの大祭司イエス》2016年8月21日 飯塚俊雄牧師  

へブル2:17、他

 自分が独りで神の御前に立つ日がやがて誰にでも来ます。その時、どうしても必要なのは、自分の裏も表も知り尽くした上で、なお愛し、過去の汚れを真っ白にして執りなして下さる方ではないでしょうか。旧約聖書に見るこの執り成し手、仲保者、つまり大祭司が新約のイエス・キリストです。

 主イエスは永遠の主権者・王であり、神のご意志を私たちに伝える預言者であり、人間を代表して神の前に執り成しをされる祭司です。ご自分を罪なき犠牲(いけにえ)とし、大祭司となって私たちの罪の贖いを成し遂げられたのです。

 大祭司としての資格は、あわれみの心です。人間の苦しみ、弱さに共感、同情できること。そのため、神であるキリストは人間性をとらねばなりませんでした(ヨハネ1:14)。

 苦しみを通してみ父への従順を学ばれ、救い主としての使命を全うする資格を得られたのです。さらに、永遠に生きて、神の権威を履行される方です。主は今もみ父のみ前にあって執り成しの手を上げ続けておられます。

《誰でも優勝できる競争》2016年8月14日 飯塚俊雄牧師  

へブル12:1〜7

 信仰生活とは、主イエスが私たちに伴走して、栄光のゴールインまで導いて下さるという輝かしいレースなのです。そのためにはスタートラインに立つことが条件です。

 このレースには私たちの永遠がかかっています。神が創始者であり完成者だからです。このレースは天国へのレースです。なぜならこの地上は天国の影にすぎず、天国こそ歴史の究極、永遠の実体だからです。完走するためには四つの大切なポイントがあります。

一、多くの証人たちの声援という「友」です。すでに走り終えて栄光のうちにある歴史の先達たちが雲のように取り巻いて見つめています。
一、身軽になりましょう。いっさいの重荷とは神の「御言(みことば)」への不信です。からみつく罪とは持って生まれた肉性、自己中心です。これらをまずキリストと共に十字架につけて頂いたという信仰に立つことが必須です。磔殺(たくさつ)の事実に基づく聖霊の内住です。自由です。
一、忍耐です。栄冠の故の喜びある忍耐です。
一、キリストを見上げ、目を離さない事です。

《小野慈美先生のメッセージに寄せて》2016年8月7日 飯塚俊雄牧師  

「神さまの気前のよさ」 マタイ20:1〜16

 天の御国を語られるイエスはぶどう園で働く労務者を雇うために、わざわざ一日に五回も市場に出かける主人の心をたとえで語る。

一、神の価値観はこの世のそれとは違う。
 朝早く雇われた人に一デナリを約束し、九時、正午、三時の人にも相当のものをあげると約束。そして夕暮れ五時の人をも雇い、支払いは、この最後の人から始める。朝早くからの人にも最後の人にも、同じようにしてあげたいというのが神の恵みのしるしである。

一、この神の恵みを人は功徳やモノに置き換えようとする。
 若き司(つかさ)は恵みでなく財を自分の生きる根拠としていた。ペテロは仕事をしたという功徳思想にやられていた。

 十字架上の強盗は何の仕事もできない状態にあったが、ただ信仰によって天国を約束された。私たちもやがて何もできなくなる日がある。その時でも神は一度信じた人を決して忘れることなく天の御国に入れて下さる。
神の気前よさは御子の十字架によって現実となった。
この恵みを無駄にしてはいけない。

《加藤光行先生のメッセージに寄せて》2016年7月31日 飯塚俊雄牧師  

創32:21〜

 ヤコブは主に言います。わたしを祝して下さらないなら、あなたを去らせません(26)。神はしばしば私たちを危機的状況に追い込まれる。祝福なさりたいからである。そのため神は二人きりになろうとされる。孤独にしておいて組打ちされる。一番抵抗力の強いもものつがいを外し、抵抗できなくされる。

 それは、私たちが神の向こうを張って、神無しでやろうとするからである。結果、足をひきずるようになる。それでも組打ちは続く。しぶとい。去らせませんと必死に主にしがみつくヤコブ。神に自分を変えて頂きたいからである。祝福とはなにか。それは、私たち、ありきたりの者を超自然なものにする恵みのことである。

 神よ、この自分を縛っている肉性から、死のからだから解放してください。約束の聖霊で満たし、神の力で生きる者にして下さい。だが、ここで主の問いに答えねばならない。あなたの名は何か。ヤコブ。押しのける者です。だます者、うそつきです。神は言う、もうヤコブではない。イスラエルだ。神の王子だ。神を見て、生きる者だと。

《人生で最も大切なもの》2016年7月24日 飯塚俊雄牧師  

ローマ8:12〜17

 パウロほどの真面目人間でも、神の律法に従って正しく生きようとしたが出来なかった。もがけばもがくほどアリ地獄。自分の中に住みついている罪の事実を彼は赤裸々に告白するしかなかった。

 八章に入ると事態は一変。イエス・キリストによってもたらされた豊かな恵みを語る。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。いのちの御霊が私たちの中に来て下さり、罪と死の原理、その支配から解放したからである。

 それは神が私たちの悲惨を見兼ねて、み子イエスをこの地上に送り、彼において私たちの古きアダム性、腐敗した肉性を十字架において、私たちもろともに処刑して下さったからである。キリストを心から信じた人にはこの御霊が内住しておられ、神の子であるとの自覚と確信を与えていて下さる。

 セミは「ミーン」とひと声啼くために十年地中で待つ。私たちは長い人生を与えられて、神を「アバ、お父さん」と呼ばずに終わってはならない。

《罪に勝つ力を得よ》2016年7月17日 飯塚俊雄牧師  

ローマ8:1〜10

 使徒パウロの絶望的な叫びほど人間の真相を見抜いた言葉を知らない。神の律法は聖く美しく正しい。それに従って生きようとするのだが、もがけばもがくほどアリ地獄。自分のうちに住みついている罪のためである。

 しかし、八章に入ると、一転して、キリストによってもたらされた恵みに狂喜する。
「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。
いのちの御霊の法則が、罪と死の法則から解放したからである。十字架と復活にはそれだけの力がある。だから私たちの生涯には何があろうとこの喜びがある。

「内村君、君は自分の内だけを見るからいけない。なぜ、十字架の上にキミの罪を贖われたイエスを仰ぎ見ないのか。子どもが植えた木の成長を確かめるために毎日その根を抜いて見るのと同然ではないか。なぜ神と日光にゆだね、安心して自分の生長を待たないのか」、名学長のこの一言で心の世界が明るくなった。
若き内村鑑三が罪の力から解放され、信仰の筋金が入った瞬間である。

《たましいの尊厳》2016年7月10日 飯塚俊雄牧師  

ルカ10:38〜42

 ノーベル医学賞受賞者で野口英世の友人であったアレクシス・カレルは「人間は、体が酸素を必要としているように祈りを必要としている。祈りが私たちの内的生活をどんなに豊かにするかは、その人の静かな態度や落ち着いた顔つきで分かる」と言う。

 主イエスと弟子たちがベタニヤに来られた日、マルタは腕によりをかけ、ディナーの準備に大童(おおわらわ)。客間に案内されたイエスは弟子たちを教え始める。それと知ったマリヤは自分の仕事を終えると急いで主の足もとに坐り、みことばに聴き入る。マルタは主に喜んで頂くのは山海の珍味だと。マリヤはマルタ以上に主の気持ちを察した。姉の心は接待のことで千々に乱れた。妹が手助けしてくれないのはイエスのせいであるとして、直接苦情をぶちまける。

 だが、なくてはならぬただ一つのもの、それは、イエスのみ言葉に聴く事、これが人間としての究極的関心事でなければならない。

《神を知り、自分を知る》2016年7月3日 飯塚俊雄牧師  

ローマ7:14〜25

 昔は病気になれば原因が分からなくても死んだ。医学が進歩して初めて原因が明らかになった。人は必ず死ぬ。なぜ死なねばならぬか、律法が与えられて初めて理由が分かった。神の律法を破っていたからである。律法そのものは聖く正しい神のみ心である。人間であるなら誰でも守らねばならないし、守ることが生きる条件なのだ。しかし、守れない。律法は人間の実情を映す鏡であった。人間の罪をあばくけれど救う力はない。

 そこで神は、特別の救済法を設けられた。み子キリストを地上に送り、十字架によって今までの罪を帳消しにし、律法の支配から離れ、キリストと合体する道である。キリストの死で自分が死んだ事と認めていただいて律法と離縁し、キリストと一つになり、キリストのいのちで生きるという事である。

 「わたしのうちに住む罪」、この神への反逆性、古きアダムの性質はキリストと共に死ぬ(ガラテヤ2:20)以外に解放の道はない。しかし、キリストに内住して頂く時、いのちの御霊は罪と死から解放してくださる。

《心砕かれる時》2016年6月26日 飯塚俊雄牧師  

ローマ7:7〜13

 私たちキリストを救主と信じ、受け入れた者には三つの特権が与えられています。

 第一は、神との和解です。神に背を向けていた人生にケリをつけ、今までの不信仰の罪を素直に詫びる。ただその事で、神は赦しと永遠のいのちを保証して下さるのです。

 第二には、キリストと合体し、きよく生きる力を受ける事です。幹であるキリストの枝となるとは、彼の十字架と復活の歴史的事実が自分の中に起きる事で、古き自分に死に、神の恵みに生きる身とされたという事です。

 第三は、律法からの解放です。律法は神の聖なるご意志です。しかし、律法は私たちの肉性を暴露し、神に従えない事実を明らかにしました。私たちは律法によって律法に死んだのです。(4節)それはキリストに嫁すためです。今や、私たちは律法の支配から解放されました。キリストの恩寵に生きる事で結果的に律法の要求を満たしているのです。かの富める青年も、主に従えば、律法の束縛から解放され、豊かな恩寵に生きられたはずです。

《人生を生かす力》2016年6月19日 飯塚俊雄牧師  

ローマ7:1〜6

 聖書は「初めに、神が創造した」で始まり「主よ、早く来て下さい」と教会の祈りの叫びに主イエスが答えて、「すぐに行く」という言葉で閉じている。初めも終わりも、神である。神が歴史を支配し、永遠を導かれる。そして、歴史の中心には、御子イエスの受肉と十字架の死と復活が輝いている。贖い、罪の赦しである。それを信じる者を神はキリストを頭とする教会とし、聖霊に導かれてみ心を行う手足とされる。

 そのために、神のご意志は律法という形で選民イスラエルに与えられた。「行いなさい」「してはいけない」の十戒である。それを守るなら「義(よし)」とされる。だが、神の律法が聖であり、正しく、良いものであっても、守り切れない現実をどうするか。神はキリストの十字架の死に自分を重ねて、古い自分に死んだ者と認定し、さらにキリストの復活に合体して、聖霊に満たされ、新しく生きる道を開かれた。4節の「律法に死んでいる」と6節の「律法からの解放」が鍵ことばである。

《隠された宝に出会う》2016年6月12日 飯塚俊雄牧師  

マタイ13:44〜46

この農夫は地主に仕える小作人だった。粗末な家に住んで、夫婦の争いも絶えず、希望がないので、つくづく生きているのがつらい。
こんな事を考えて鍬をふるっていたある日、何やら固いものにぶち当たった。手で探ってみると何とさびた金属の箱。狂ったようにこじあけると宝石がいっぱい。

まさに狂気の発見。こみ上げる熱い喜び。大急ぎで家に帰り、何もかもまとめて金に換え、その土地を手に入れる。今や彼は今までの彼ではない。明るい希望の春がやって来た!

一、畑とは聖書、宝とはイエス・キリスト。主イエスは人の目には隠された宝である。永遠の神の本質が形となったお方である。私たちの罪の贖う真実の愛がふみにじられた姿が十字架である。

一、この救いは金で買えるものではないが、何かを失わずにキリスト信仰は始まらない。この無限の宝を入手するためにはキリスト以上に重要なものがあってはならない。パウロもこの宝を手にした時、いままでのすべては糞土に等しいと。

《土の器から栄光の体へ》2016年6月5日 飯塚俊雄牧師  

競灰螢鵐4:7〜5:8

「私たちは、この宝を、土の器の中に持っています。それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

 人間は土くれで作られた神の被造物です。ここに人間のもろさと卑小性、光栄、尊厳性が際立っています。さらに、キリストと結びつくとき、肉体がキリストによって、聖霊が親しく内住される神の宮とされるのです。

一、私たちは知っています。(競灰螢鵐4:14)

 肉体という地上、束の間の天幕的存在がキリスト再臨の折栄化されるということを。

一、私たちはうめいています。(競灰螢鵐5:2〜5)

 うめきは全存在をかけた心からの願い。この天幕をたたんで、栄光の体を着たい、その保証として与えられた御霊が促すのです。キリスト者にとっては死は栄光への出発です。

一、私たちは心強いです。(競灰螢鵐5:6〜8)

 私たちは二つの居場所を持っています。地上に生きながら天の霊気を呼吸しています。愛する者たちは、すでにかしこにゴールインしているのです。

《歴史を変える三つの完了》2016年5月29日 飯塚俊雄牧師  

 第一の完了は創世記2:1です。
「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された」

 聖書の冒頭に「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。全宇宙は神が人格的意志により、目的と計画性をもって造られたのです。ですから神はご自分の栄光のため責任をもって私たちを愛しておられます。
自然科学はどのように造られたのかを研究しますが、何のためにという意味については答えられません。しかし、大きな悲劇が起こりました。自由意志を与えられた人間が神に反逆し、聖なる神との間に断然が出来ました。人は生きる意味を失ったのです。

 第二の完了は、十字架上で主イエスが言われた「完了した」(ヨハネ19:30)。神は罪による亀裂を癒すため、罪なき御子イエスを地上に遣わし、身代わりに罪を負わせ、その死によって救いの道を完成させて下さった!

 第三は、世界の歴史に終止符を打つ、新天地の完了です(黙示録21:6)。
悪魔は成敗され、キリストの教会が新しいエルサレムの聖なる花嫁の装いを整え、神なるキリストと合体します。そして永遠です。ハレルヤ

《不安を克服する道》2016年5月22日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ14:27〜31

 主イエスが愛する弟子たちと地上での最後の別れの場面である。不安におびえる彼らに主は「わたしの平安」を与えると言われる。そう言われるご本人は数時間後には十字架につけられ、むごい死を遂げるのである。それでもびくつかない平安があるとすれば、この世が与えるようなものではない。では、イエスの与えて下さる平安の基盤は何か。

一、確かな希望である。十字架の死、そして復活、さらに昇天、父の右に着座され、宇宙の主権者として、み父より受けた聖霊を弟子たちに与えて彼らの内に内住され、彼らを通して神のみわざを継続、完遂される。「わたしはまた戻って来る」という希望と確信。

一、この世の支配者アクマに対する勝利。主は大能を帯びられるので、暗闇の支配者、悪霊は何もできない。私たちも神の下さる武具を身につければそうなれる(エペソ6章)。

一、み父への従順。神に従うことによる平安である。ペンテコステのあと、弟子たちは”力を身に帯び”不安、恐れを克服した。

《最も大切なもの〜変わらない愛》2016年5月15日 安海靖郎先生  

汽灰螢鵐13:13

 インドネシア・カリマンタンでの10年におよぶ宣教。電気も通っておらず、豊かな生活とは言えなかった。しかし、不足してから知る物の価値。かえって不足していることで、心が豊かになるのではないか。物で溢れるこの時代において、本当になくてはならないものは多くない。「心の豊かさ」こそ私たちが本当に必要なものではないだろうか。

 「愛」によって心は豊かになる。近年、小学生でさえ親に愛とは何かと問う。それに対し、親も納得のいく説明が出来ない。ある学者は、「愛とは、共にいたいという思いのために支払われる犠牲である」という。聖書で言うならば、神の愛は、「神が人間と共にいたいという熱く溢れる思いのために、御子であるキリストを犠牲にされた愛」である。

 愛は、他社に愛されることにより、はじめて自分のものとなる。私たちは神の深い愛を受けている。神からの愛を受け継ぎ、私たちも神から受けた溢れるばかりの愛を、周囲の人々に与えていくことができる。

《あらしに備えよ》2016年5月8日 飯塚俊雄牧師  

マタイ7:24〜29

 私たち生きて生きて、その先に死があると思っていないだろうか。いや、死は生の延長線上にではなく、私たちがいつも背負っている。死は伴走しているのだ。
将来を夢見て漸くこれからと言う矢先、ポッカリまさかの落とし穴。だれにもある「矢先(やさき)症候群」。

この両者の共通点は三つ。
一、建てたのは家だった。誰でも一回限りの人生建築である。
一、生活の場も環境も同じ。風通し水利の便。
一、襲って来た試練も同じ。
  試練は千差万別でも、一度死ぬことと死後審きの座につくことは神の決定である。

両者の相違は決定的である。
一、砂上の家は倒れ、こっぱみじんに。
  人生そのものが、無意味と神によって判定される。
一、土台が差をつけた。頑丈な岩と砂。
一、賢明さとは将来の最悪の事態を想定し、冷静に手を打つ先見の明にある。

岩とは主イエスご自身である。神のことばを聞いて行う実践力を求めておられる。
時間を惜しまず自分を掘り下げ、主と自分との間にある砂を取りのけよう。

《赦罪から聖化へ》2016年5月1日 飯塚俊雄牧師  

ローマ書6:14〜23

 私たちの信仰生活は具体的、現実的なものです。人生は神なしとして生きるか、神ありと信じて生きるかのいずれかです。理性でもって神の実在を決めることはできませんが、実生活が決定してくれます。
まず、神の御言葉を信じて生活すれば、必ず祝福が伴い、ご存在が分かります。
「神の御心を行う意志がある者なら分かるはずだ」(ヨハネ7:17)と主イエスの言われた通りです。

 罪が赦されるとは、罪に死ぬことです。これを可視的にしたのが洗礼です。古い自己中心の自分を葬り、キリストと結ばれ、一体とされ、キリストを内に宿して新しいいのちに生きるのです。

 私たちには、なってはならない奴隷と、ならねばならない奴隷の道があります。罪の奴隷はかつての自分の姿でした。今や神の奴隷として義に生きるべきです。奴隷とはしもべ、奉仕者のことです。主はしもべとなって私たちの足を洗ってくださいました。罪の支配から神の支配へ、決定的な支配の転換です。自由の身とされつつ神の奴隷となりましょう。

《死に勝ついのちで生きる》2016年4月24日 飯塚俊雄牧師  

ローマ書6:1〜13

 キリストの死と復活は、これを信じる者の罪を赦して神の義をまとわせて下さる驚くべき出来事ですが、それがすべてではない。もはや私は罪を犯し続けるなどとても出来ないと決断する力さえ与えるのである。なぜなら、キリストの十字架の死は”私”のためであるだけでなく、”私”も共に十字架につけられたとする信仰に立たせるからである。

 洗礼(バプテスマ)とは、「キリストの死にあずかる」ことであり、キリストと共に葬られることであり、新しいいのちに復活することである。

 この信仰、このキリストの事実に立つ時、古い、自己中心のアダム性、罪の奴隷から解放される。この荘厳な事実を「知っていますか」とパウロは言う(9節)。「知っています」(11節)と言いなさい。そう結論しなさいと促す。それなら、今まで罪にささげて来た手足を、全存在を神に「ささげなさい」と。神の恵みによって神の愛子とされた事実を出発点として進歩成長し、遂にキリストのみ姿に似た者となる、これが聖化の道である。

《あなたの愛を問う》2016年4月17日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ21:1〜22

 その日ペテロは夜と明け方と真昼を経験した。それはキリストに選ばれた者の歩むべき人生の縮図ではないだろうか。

一、しかし、その夜は何もとれなかった。(3節)
 キリストに愛されながらその愛を裏切った心の闇は深い。何をしても無意味に思えた。

一、しかし、夜明けがあった。(4節)
 主イエスは既に岸に立って居られた。何もかもお見通しだった。「おおい、何もそれないだろう」。「はい、とれません」。私たちも本心に帰り、素直に正直に言おう。主は交わりを求め、暖かい朝食を用意しておられた。さあ、食べなさい。あの血みどろのお姿の主が今輝ける姿、やさしいまなざしでパンを裂いて、永遠の契約は動かないと言われる。遂に今、主との交わりは極致に達した。

一、そして、真昼の輝きが回復される。
 私たちにも、シモンという生まれながらの肉性とペテロという主が創造される聖性が同居している。私の羊をたのむ、と主は委任され、死でさえも神の栄光の場とされる。

《見ないで信じる幸い》2016年4月10日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ20:24〜31

 トマスの人柄に親しみを持つ人は少なくない。彼は熱血漢でありながら冷徹な実証主義者である。十字架まであと六日という危険迫る主イエスのエルサレム行に共鳴、「私たちも先生と一緒に死のう」と仲間に喝を入れる彼です。最後の晩餐の折、主が「あなた方はわたしの行く道を知っているはずです」と言えば「いや、分かりません」と言い切り、主から驚くべき真理の言葉を引き出した彼。熱い心と冷静な頭脳。その彼も十字架が現実となるに及んで悲嘆に暮れ、仲間の集まりにも行かず、独り耐えるのです。

 復活の主は彼に指を差し入れよとまでお迫りになり、「見ずに信じる」幸いな時代の到来を宣言。彼は「わが主よ、わが神よ」と主イエスを礼拝、ここでイエスは神として、礼拝を受け入れなさる。ここから信仰は客観的認識から人格的交わりへと飛躍する。交わりから身を引くことで最初のチャンスを逃した彼。その事で多くのものを失う。主を仰いだ彼は中途半端でない、死にまで従う人である。

《臨在の主の恵み》2016年4月3日 飯塚俊雄牧師  

ヨハネ20:19〜23

 キリストの死を敗北と思った弟子たちは人を怖れ、自分たちにふりかかる運命を恐れて固く戸を閉じていた。主イエスご復活のうわさを耳にしても、信じる気力さえ無かった。

 そこへ、イエスは来て下さり、「シャローム」と宣言、生々しい十字架の傷あとをお見せになった。主の臨在は状況を一変させ、弟子たちは歓喜に沸いた。「主は十字架の宝血を携えて、今もこの場所におられます」。弟子たちの裏切り、不信、不実を赦して余りある贖いの血、神の愛のふところに迎える血である。

 さらに、主は声高く「シャローム」。使命に生きるための平安である。来なさい、安息を上げます、父神との和解の平安。わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。これは働きの中での平安である。こうして、「聖霊を受けよ」と息吹かれる。これは主イエスが聖霊を与える神でいますことの証である。聖霊の助けなしでは私たちは何にも出来ない。ペンテコステへの保証である。潔められた魂に主は伝家の宝刀、赦罪の権威を委託される。

《キリストの復活》2016年3月27日 飯塚俊雄牧師  

ルカ24:1〜12

 復活という空前の大事件に遭遇した弟子たちは、それが旧約聖書の預言であったことも悟らず、かねて主イエスが語っておられたことも思い出せず、女性たちの報告を馬鹿げたことと見なし、かと言って心騒ぎ、一応、墓地まで走って行ったが首をかしげるばかりであった。墓前を去りかねて独り泣くのは、マグダラのマリヤ。主は彼女の名を呼ばれた。復活の主の証人第一号は、彼女であった!

 最初の日曜日、ご自身を顕現されて五度に及んだ。主を裏切り、痛む心のやり場のないペテロにも個人的に。エマオに落ちのびる二人に同行されたり。復活された主が死なれたあの十字架は何のためだったのか。遂にその意味が分かった彼らは筋金入りのキリスト者として変貌し、やがて教会形成へと動いて行く。

 復活の主はなおも四十日に亘って、更に五回顕現されて神の国について語り、世界宣教を委託される。そのためには聖霊を受けよと命じられる。知識として知るだけでは足りない。生きた信仰は生ける主にお会いしてこそ。

《十字架に向かうイエス》2016年3月20日 飯塚俊雄牧師  

マタイ21:1〜17

 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこに」と東方の博士たちがやって来て30年、今ぞ、主イエスは王としてエルサレムに入城される。「あなたは王か」とのピラトの質問にも「その通りである」と答える主の頭にはいばらの冠が。権力を以て支配する王ではない。私たちの罪のために十字架につき、死ぬための王、柔和、謙遜、人に仕えなさる王である。

 550年前、マラキが「見よ、あなた方が喜ぶ契約の使者が突然」と預言した王が来た。主はパレードのために子ろばを必要とされる。「主がお入り用なのです」。この言葉は私たちへの呼びかけである。平和の使者として主の臨在を運ぶメッセンジャー。

一、主は宮きよめをなさる。強盗の巣としてしまった神殿。それは民族を越えた祈りの家である。主はそれを今、私たちをきよめて神の宮としてご内住なさる。これが福音の神髄であって、栄光の奥義である。

一、王は戦う勝利の王である。人間を組み伏せ支配しているサタンを十字架の力で粉砕される王である。

《主を食べ主を飲む》2016年3月13日 飯塚俊雄牧師  

ルカ22:14〜23

 シリヤ難民の祖国脱出を見るにつけ、歴史上、最大の事件はモーセに率いられたイスラエル民族の出エジプトではないでしょうか。

 聖餐は十字架を前にして、真の開放を心に刻む時で、主イエスは出エジプトの過越(すぎこし)を想起させなさいます。そして、弟子たちとの過越(すぎこし)の食事を切に望んでいたと語り、入念に二階座敷を用意させます。その背後にあるのはみ父の許に帰る時が来たというご自覚です。それに先立ち、極みまで愛されたと。ご準備とはその事でした。主はご自身がみ父から全権を託されたと確信して、初めて聖餐ができると自覚され、弟子たちの足を洗われます。

 ですから、聖餐の背後に主イエスが準備されたもの、それはそれまでのご生涯の全体であったのです。今や主はご自身の本性をはっきり語られます。十字架は体を裂き、血を流すことであり、罪を赦しきよめるためであること、それをパンとぶどう汁という見えることばで、私たちと結ぶ永遠の契約であると。これが晩餐が喜びと希望の宴となった理由です。

《神のふところに帰ろう》2016年3月6日 塩谷証伝道師  

ルカ15:11〜24

 イエス様は、『またこう話された。「ある人に息子が二人あった」』(ルカ15:11)と放蕩息子のたとえ話を始めます。

 弟息子は、たくさんの財産を持って、父のふところから飛び出していきました。しかし、財産の全てを失い、豚の餌をも食べたいと思うようになり、父のふところに帰るのです。

 しかし、「まだ家までは遠かったのに、父親はかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」とあります。神さまは、どんなに遠く離れた者であっても、神のふところに帰ってくる者を憐れんで下さるのです。

 22節には、「ところが、父親はしもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせない』」とあります。神の子となる資格は、神の側から与えられるイエス様の十字架と復活の恵みです。(ガラテヤ4:6〜7)

 神の愛により、私たちの交わりも回復していくのです。(23節)

《生きる意味を知る》2016年2月28日 飯塚俊雄牧師  

ルカ18:18〜23

 迫力に満ちたドラマである。主イエスのみ前に走って来て、ひざまずいて、問うそのひと言。「善い先生、永遠のいのちが欲しいのです。どうすればいいのですか」。人生究極の目標を口にするのである。若くして、うなるほどの遺産を手にし、国会議員である彼。すでに宗教界のリーダーでもある。律法も少年時代から遵守してきたと公言する。真面目である。

 その同じ彼が数分後、顔を曇らせ、肩を落として去って行く。なぜか。自分を手離せなかったからである。彼が口にした「善」を主は問題にされる。「善」とは本来神の恵みの深さを意味する。あれこれ人間レベルの比較ではない。律法を守って来たと言う彼は、自分をがんじがらめにしているモノの力を断ち切ることができないでいる。

 永遠のいのちは資産の頂点に置くべきものではなく、信仰によって神から頂くべきもの。イエスに従う、その事がイエスのすべてを手にする事である。パウロを見よ。一切を手離し、キリストに結びついた彼の満ち足れる豊かさを。

《義認・聖化・栄化》2016年2月21日 飯塚俊雄牧師  

ローマ6:15〜23

 「あなたがたは知らないのですか」。クリスチャンはこの世の知者、学者の知らない神の深い知恵、神の霊の世界を知っている。しかも知ったら、その事実に基づいて自分自身を神に対して決算することを勧められる。

 つまり自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者と認める。そうすれば理の当然として、自分の全存在を神に献げ、義の器として生きる。これが、罪赦されて義と認められた者が聖化へと進まずに居れぬ手順であって、後は神と永遠を共にする栄化、復活のキリストの姿にあずかるゴールを待つのみである。

 クリスチャンは誰でもこのコースをしっかり踏みしめ、「私たちは知っています」と体験を通して確信の言葉を口にし、「現在私たちが受けている苦しみは、やがて私たちに現されようとしている栄光に比べれば、物の数ではない」と自負すべきです(8:18)。

 十字架の血は罪に勝つ力を与え、もし失敗しようとも回復の美をも添えて神の子にふさわしい者とする。

《断じてそうではない》2016年2月14日 飯塚俊雄牧師  

ローマ6:1〜14

 神の恵みは罪の増し加わるところに、ますます満ち溢れるのだとパウロ。これは人によっては劇薬にもなる言葉です。では恵みが増し加わるために、もっと罪を犯そうではないかという論理が出てくるからです。断じてそうではない。その屁理屈よ、退け!サタンに向かって叫んだ主の一喝を想起させます。

 では、どのように罪に勝利して生きるべきでしょうか。私たちがキリストを信じたということはキリストの死に結びついて、一緒に死んだということです。それを知らないのですか(3、6、9節)。知ったらその事実に基づいて決算しなさい(11節)。自分の全存在を献げなさい(13節)。こうして自分に決着をつけてこそ新しいいのちに歩める、つまり、古いアダム性の処理力はキリストとの三つの合体にあると示すのです。

一、バプテスマによる合体(3節)。
一、つぎ木による合体(5節)。渋柿も甘い実を結ぶ。
一、十字架による合体(6節)。
私たちは主への愛のゆえに罪を犯さない、み心にかなったきよい歩みができるはずなのです。

《キリストに結ばれる人生》2016年2月7日 飯塚俊雄牧師  

ローマ6:1〜5

 私たちはみな変身願望を持っています。私たちにとって最大の問題は、人間は果たして変われるのかということ、生まれつきの自分の嫌な性格や悪い習慣が、良い教育や努力で変われるのかということです。

 これに対しキリストの十字架と復活の事実を自分に当てはめるなら、どんな人でも変われるとパウロは断言します。自己中心にしか生きられなかった古いアダム性のくさりをキリストは「バッサリ」断ち切ってくださったのが十字架の力です。

 その十字架に自分を重ね合わせ、キリストと合体し、そこで共に死んだ事実を受け入れ、信じてそこに立つことです。神が認めておられる神の側の事実ですから、そのまま受け取ればいいのです。これがキリストと共に生きるということです。これを見えるかたちにしたのがバプテスマです。キリストに結ばれたいのちは、やがてキリストが復活されたように栄光の復活が保証されます。

どんな渋柿も甘柿に接ぎ木されれば必ず甘い実を結びます。私たちは変われるのです。

《キリストとアダム》2016年1月31日 飯塚俊雄牧師  

ローマ5:12〜19

 人間の歴史は、最初の人アダムによって代表される人間の罪の歴史とイエス・キリストに代表される完成された神の救いの歴史で出来ています。アダムとは人間という意味です。

 彼は神と向き合い、祈り交われる霊的人格として造られた最初の人ですが、神の言葉に逆らって罪に堕ちたのです。「そういうわけでひとりの人によって罪が世に入り、罪によって死が入り、死が全人類に広がった」とあるように罪と死は本来、人間にとって異質のものなのです。ですから、罪の解決なしには死の恐怖はとり去ることができません。

 そこで第二のアダムとして、神なるイエス・キリストの受肉来臨がどうしても必要となったのです。キリストは人類の罪の問題を十字架の身代わりによって一挙に解決し、死を天国への栄光の花道と変えて下さった義の代表です。

 キリストの動機は愛、その効力は恵みによって与えられる永遠のいのちです。人類はアダム派かキリスト派かのいずれかに大別される。私たちは平和、恵み、栄光のキリスト派でありたい。

《あわれみのゆえに》2016年1月24日 森敏先生  

ローマ12:1

 ローマ書12章1節は、「そういうわけですから、兄弟たち」と始まります。パウロは、ローマ書1章、2章で、全ての人が罪人であり、罪から救われなければならないこと、その救いは、私たちではなく、神の恵みにより、信仰によるのだと述べた後に、「そういうわけですから、兄弟たち」と始めているのです。

 救いは、信じる者に与えられる神の恵みであり、「神の憐れみのゆえ」なのです。私たちは、義である神の怒りを受ける器でしたが、神の憐れみのゆえに救われたのです。ですから、聖い生きた供えものとして、神に体も、心も、思いも、私たちの存在の全てを神に捧げるのです。

 神に捧げることは、不自由なことではなく、むしろ、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、神に赦され、憐れみを受けたことへの感謝として捧げる喜びなのです。

 神の憐れみのゆえに、神に献げる「霊的な礼拝」こそ、神の器として理にかなった生き方であり、生活なのです。

《キリストのもの》2016年1月17日 森桂子師  

ローマ8:1〜10

 クリスチャンとは「キリストのもの」の意味です。神に創られ、本来神のものであるはずの私たちはサタンの手中に落ち、神なしでやって来ました。しかし神はみ子イエスの死の代価によって、神本来のものに取り戻してくださいました。これを救いの恵みと言います。

 では、私たちは本当に「キリストのもの」になっているでしょうか。「主よ、私はあなたのものです」と言えるでしょうか。問題はそこです。

 六章は十字架による古き自我の磔殺(たくさつ)によって「キリストのもの」となる手順を語っていますが、八章では内に住んでくださる聖霊によって神のみ心を全うできると言います。肉の思い、自己中心は絶対に神を喜ばせることが不可能です。けれども神のみ霊が内に居られるのですから、心からお従いしますと主に申し上げるなら、主の御霊は私たちの肉性をきよめてキリストに似た品性の実を結ばせ、奉仕に喜びと力を与え、日々の歩みを栄光のゴールへと導いてくださいます。私の生涯にもそのような明け渡しの時がありました。

《生きる力をつける》2016年1月10日 飯塚俊雄牧師  

創世記32:22〜32

 聖書は、「ヤコブの神はわれらの高きやぐらなり」と言ってはばからない。これが福音の本質だからである。ヤコブとは押しのける、あざむく、という意味の通り、人間の風上にも置けぬ人間だった。しかし、神はあえて彼を選び、彼を愛し、作りかえて聖徒にまで仕立て上げられた。この神をわが味方とする人生、生きる力はそこにある。

 その夜、彼は孤独だった。持ち前のずる賢さで、八方手を尽くすのだが、20年前、兄エサウから奪った苛責がうずいて兄に会うのが怖いのである。ここで彼は神の前に孤独になって向き合う。さらに、神のみ使い(受肉される前の主イエス)が現れ、夜通し彼ともみ合い、自我の中心、古き人の拠点、もものつがいをはずされる。すると、抵抗をやめて祝福して下さいとすがりつく。全き明け渡し、み心のままに生きるイスラエルとされる。神のみ顔を見ることは死を意味する。

 死んでいるのに生きている奥義を新約では「私はキリストと共に十字架につけられたり。されどキリストはわが内に生きておられる」となる。

《輝いて生きる》2016年1月3日 飯塚俊雄牧師  

ピリピ21:7〜30

 私たちが輝くために、パウロは四つの条件を挙げています。キリストの心を心とする。いつも主に、ハイと言う素直さ。み心のままに事を行わせて下さる神に信頼する。万事、つぶやかず、疑わず。いのちのことばを掲げて立つことです。これを地で行った二人の人物を紹介するために書かれたのがこの手紙なのです。

 時は西暦61年の夏、千キロも離れたピリピからローマの獄中のパウロに仕えるために、教会からの贈り物を持ってやって来た人物、それがエパフロデト(※原語では”チャーミング”という意味)。しかし職責半ばで重い病気になり、小康を得たので送り返すために添書として持たせたのがこのピリピ人への手紙です。

 彼に快く同行するのがテモテ。彼には人の立場に立って考える思いやりの心があった。師匠の頼みに快く応じる無私の人でもある。訓練を受けて来た者の特徴としての筋金入りの堅実さがあった。エパフロデトについてパウロは、私の兄弟、同労者、戦友と言う。事実、彼は福音のために死の危険も冒したのでした。

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