東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ
2018年 2017年 2016年

■中川伝道所メッセージ
2018年 2017年 2016年

《すべての人を照らす光》2016年12月25日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる福音書1:1〜13
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:1〜12)

<はじめに>
 クリスマス、それはキリストの来臨によって私たちに神を現わし、啓示するためであった。使徒ヨハネはキリストをロゴス(ことば)なる永遠に存在する神として紹介している。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
(ヨハネ1:1)
 ことばなる神の子、キリストは来世(来臨)される前は父なる神と共におり、天地を創造されたのである。
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3、創世記1:1)
 その神なる、キリストが「私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:4)何という神のみ業であろうか。何という栄光の恵みであろうか。

1、光なるキリストは闇の中に輝く

 神なる、イエス・キリストはご自分を『私は世の光』と、紹介された。
「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(ヨハネ8:12)

 イスラエル人でいかに高慢な人でも自分を神の位置に置く人はいない。神は唯一なる神であり、絶対者であることに、畏れを抱いている人たちの中で、『私は世の光』と言われたことは、驚くべきことであった。
 この宣言は、正にキリスト・イエスの神性の宣言であった。 神はイスラエルを40年間、「夜は火の柱、昼は雲の柱」となって、荒野を導かれた。
その明るさこそ、素晴らしい恵みの光であり、生ける神の臨在を現わした。
 その実体なるお方、キリストが世に来られ、闇の世を照らし、光の本源となった。
 
2、暗きに打ち勝つ光

キリストが「まことの光」(9)といわれる根拠は、罪のために死なれたが、死を破って復活されたからである。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)
 やみの力といえど、「まことの光」を消してしまうことは不可能であった。ヘロデが赤子を殺そうとしたが、神のご介入によって駄目になった。
 
3、キリストはいのちを与える神

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:4)
この光はいのちを与える。太陽の光がなければ、どんなに肥料を与えても死んでしまう。
光であるイエス・キリストはいのちを与える。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
 主イエス・キリストの救いを信じ、受け入れた人には神の子供とされ、永遠のいのちが与えられるのです。

(聖書研究祈祷会;飯狃嗟宰匯佞離瓮奪察璽犬茲2016.12.20)

《聖夜の光と恐れ》2016年12月18日 渡邊泰範牧師  

ルカ26〜38、2:8〜12,マタイ1:20
「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。』」(マタイ1:30)

<はじめに>
 クリスマスは確かに神から人類への最高の贈りものであり、素晴らしい喜びの出来事です。クリスマスは不思議に満ちた(ワンダフル)出来事でした。それ故、「羊飼いたちが恐れた。マリヤが恐れた。ヨセフが恐れた。」と、記されています。

1、羊飼いたちの恐れ

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10〜11)

 主イエスのご降誕は王様でもなく、身分の低い羊飼いたちに知らされました。野宿で夜番をしていた羊飼いたちに、突如み使いが天より遣わされ主の栄光に光照らされたので「恐れた」と、あります。ではなぜ恐れたのでしょう。それは、自分たちの生活とは全く異なる天的な、聖なる主の栄光を見たからです。

 しかし、羊飼いたちはベツレヘムに行って、「マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」時、全部、御使いが告げた通りだったので、恐れはなくなり、神をあがめ、賛美しました。

2、マリヤの恐れ

「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。』」(ルカ1:30)

 マリヤは想像を超えた、神よりの新しい使命に恐れます。いかなる女性もいまだ通ったことのない、神の御子の母という大役を受け、自分の胎内に、「世の救い主イエスを宿す」という栄光ある使命を授かったからです。

 しかし、マリヤの恐れはみ言葉に従う事によってなくなりました。
「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」
(ルカ1:38)
私たちも全能の神のみ前にマリヤの如く明け渡しましょう。

3.ヨセフの恐れ

「主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。』」(マタイ1:20)

 神は御子イエスを、ヨセフの関わりなく除外したかたちでこの世に遣わした。聖霊による受胎である。マリヤは黙していた。ヨセフの目にはマリヤの体が分かるようになり彼は悩んだ。ヨセフは愛する者の裏切りと映ったかも。もんもんと眠れぬ中で眠りにおちた。そして、ヨセフは夢の中で、み使いの声を聞いて恐れが取り除かれた。

「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(マタイ1:24〜25)
「恐れないで・・」ヨセフは眠りからさめ、疑いの雲が晴れ、主のお言葉に従い、マリヤを守り、迎えた。

《神は私たちと共におられる》2016年12月11日 渡邊泰範牧師  

マタイ1章18〜25節
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:23)

<はじめに>
 救い主イエスが人となって、遣わされるには、神には愛の激しい痛みがあった。御子の誕生を描いた聖画を思い出す。何とイエスが生まれた天井の欄間には「十字架」が映し出されていた。主イエスは十字架に付けられるためにこの世に来たのである。

1.処女降誕;キリストの来臨、キリストの先在性

 第一テモテ1章15節に「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」と、ありますようにキリスト・イエスは父なる神の御許から来られたのである。
「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイ1:20)
 クリスマスといえばマリヤの処女降誕が問題になるがキリストの先在性(父なる神の御許から来られたこと)が信じられれば、これはむしろ当然の事である。神はイエスに母を与えたが、父は神自らが父にておられたのである。

2.罪からの救い主、イエス・キリストの誕生

  「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)
クリスマスといえばプレゼントである。それはクリスマスにお生まれになったイエス・キリストが、神から人類への大きな贈物であったことに始まる。 
今年も巡り来たこのシーズンに、本来のプレゼントにあずかることにしよう。
イエスとは、すべての罪から私たちを救う方という意味である。
「そして女に、『あなたの罪は赦されています。』と言われた。」(ルカ7:48)
主のご在世中、イエス・キリストの大きな恵みは赦罪の贈物であった。
「キリスト」とはヘブル語の「メシヤ」と同意義のギリシヤ語で、「油注がれた者」の意味である。
 キリストは人の心を治める王であり、人のために祷告する、とりなす祭司であり、預言者である。

3、インマヌエル;私たちの中に住まわれるキリスト

 「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。    
(マタイ1:23)
 この言葉は旧約聖書イザヤ書7章14節の成就である。「インマヌエル」とは私たちと共におられる神をいう。このイエスは、私の救い主であり、また、日々私と共にいます主でおられる。
処女マリヤにキリストが宿られたことは秘蹟である。しかし今、聖霊により信仰により、キリストは老婆にも娘にも男子にも宿られるのである。これは信仰の奥義と言われます。
過去の歴史の上に起きたイエス・キリストの降誕という事実が、今や私たちの実際的経験の中に起らなければならない。聖霊のお働きによって、私たちひとりひとりの中にイエス・キリストがお生まれなければならない。

《クリスマスの意義》2016年12月4日 渡邊泰範牧師  

ルカ2:11、汽謄皀藤院В隠機▲ラテヤ4:4
「『 キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(汽謄皀藤院В隠機

<はじめに>
 動乱の世に在って、今年もクリスマスがめぐって来た事は、実に感謝なことです。私には55回目のクリスマスを迎えます。何遍迎えても喜びと感謝に満ち溢れます。イエスは「罪から私たちを救うばかりでなく、信ずる者に日々私たちと共におられる。」
生ける友なるお方です。

1、救い主のご誕生

 クリスマスの第一の意義は主イエス・キリストのご誕生であります。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
この上よりのお言葉はかの夜、ユダヤの野にあった羊飼たちの頭上にもたらせたクリスマスのメッセージです。
今、数は少ないかも知れないが、良心の呵責なく、外からの誘惑を退け、内心の罪の力にも打ち勝ち、死の恐れもなく永遠を望んで奉仕する一群が世界に存在するのは、この救い主の誕生の賜物であります。
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)
主はお生まれになったばかりではなく、私たちのの罪から救ってくださるお方さまです。

2、救い主のご来臨

 主のご誕生と共に用いられるクリスマスの第二の意義は「ご来臨」と言うことであります。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(汽謄皀藤院В隠機
「主は来られた」という言葉は新約聖書には多く使われています。
これは受肉降誕前の主の先在性を示すものであります。クリスマスといえば、処女降誕が問題になりますが、主の先在性が信じられれば、これはむしろ当然の事で、普通の生まれたかたこそ不合理となります。神はイエスに母をお与えになったが、父は神自らが父でおられたのです。
主イエスは父のもとから来て又、父のもとに帰られたのであります。

3、救い主のご派遣

 主イエスは勝手にこの世に来られたのではありません。父に遣わされて来たのであります。クリスマスの第三の意義はご派遣です。「定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わした。」(ガラテヤ4:4)
ヨハネの福音書には、父に遣わされた主のみ姿が明らかに現れています。『父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』(ヨハネ20:21)   
ここに私たちの使命が明らかになっています。

4、救い主のご顕現

 最後に主のご降臨(クリスマス)はご顕現であったと言われています。「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」(汽撻謄蹌院В横亜
主イエスのご誕生もご来臨もご派遣も、はじめから先在して居られたお方が現れ、来られ事になります。

《主によって喜びをなせ》2016年11月27日 渡邊泰範牧師  

詩篇37篇
「「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
(詩篇37篇4節)

<はじめに>
 詩篇37篇は主を畏れ、信仰によって生活する者は祝福を受ける教訓と、反して主に逆らう者はこの世で繁栄しても神よりの裁きが記されている。主の救いに与かった最大の喜びは「主ご自身を喜ぶことである」。事情境遇によらず、主の者とされ主を内に宿す者は主を喜び賛美するのです。

1.主を喜ぶ者の祝福

 詩篇37篇は5番目の日本のいろはがるたの如く、節ごとの頭文字がヘブル語のアルファベットの順に並んでいる詩篇です。善悪を強調的に詩っている長い詩です。

 多くの人がこのダビデ調の詩を愛し、暗唱してきたことでしょう。主より祝福を受ける教訓が1節から8節まで詩われています。
4節は積極的に「主をおのれの喜びとせよ。」と賛美しています。主ご自身を喜び賛美する者に、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」と約束しています。
主は私たちの心の願いを神はご存じでそれをかなえて下さいます。故に、あなたの側(そば)に、主に逆らい責めて来る人がいても、腹をたてず主に祈り、主を待ち望みなさいと教えています。

「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。」(詩篇37篇7節)

私が受洗して新しい聖書を購入し、本郷善次郎牧師にサインを求めた時、本日の聖句が大きく記されていた。
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願.いをかなえてくださる。」(詩篇37篇4節)

“Delight yourself also in the Lord,And He shall give you the desires of your heart”(nkjv 訳)
尊いお言葉を頂き、「主を喜ぶ」とは具体的に、主は何を求めているのか、そして、私の願いに何を応えて下さるのか、長い間祈り待ち望んだ。

 ある日、その応(こた)えを得た。それは、25歳の時、主よりのみ声に“献身の召し”に応えた時頂いたお言葉の意味が分かった。
「群衆を見て、・・弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36〜38)
主ご自身を喜ぶ人生は福音の宣教に導かれた。

2、“主を喜ぶ賛美”の素晴らしさ(聖句)

・「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」(ハバクク3:18)
・「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」(詩篇1:2)
・「私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。」(詩篇9:2)
・「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。」(詩篇13:5)
・「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」(詩篇16:9)
・「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)
・「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」
(詩篇32:11)

《主の足元で》2016年11月20日 渡邊泰範牧師  

ルカ10章38〜42節
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(ルカ10:39)

<はじめに>
 マルタとラザロの姉妹であるマリヤは心引かれる人物です。主イエスはベタニヤにある彼らのホームにたびたび泊まられました。ベタニヤのマリヤの記事は三ヶ所出てきます。主が来られると、マリヤはいつも愛する「主の足元」に座りました。私たちも主の足元でお言葉を聴き従いましょう。

1、愛するイエスのそばに近寄るマリヤ

 妹のマリヤは、マルタが食事の用意にせわしく出入りしている間、主の近くに座り、み言葉に聞き入りました。
主に耳を傾け、主から教えを受けることはマリヤのこの上ない喜びでした。主のみ声を聞くということは最も大切なことです。
マリヤは主イエスを愛しているから「主の足元」に近づいたのです。愛はいつも愛する者の近くにいたいのです。
私たちも愛する聖徒のメッセージを聴いて恵まれたことはどんなに霊魂の祝福となったことでしょう。後々も、その受けた主の恵みはいつまでも心に残るものです。

2、ベタニヤのラザロが病気になった時のマリヤ

「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(ヨハネ11:3)
 主が愛されたベタニヤのホームでラザロが重い病気になった時、マリヤとその姉妹マルタは主の助けを仰ごうと、直ぐに使者を出しました。
 ところが主は来られず、主はわざと行くのを伸ばしたように見られました。
 使いがイエスに着いた時はラザロはすでに死んでいました。しかし主はなお二日、滞在先で留まりました。
 漸く来られた主にマルタは、迎えに出て、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21)と、困窮をぶっつけました。
 しかし、マリヤはなおも「家ですわっていた。」
(20)と記されています。そして、マリヤは、イエスのおられた所にて、お目にかかり、その足もとにひれ伏して、『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』といった。
主の「足元にひれ伏した」マリヤはそこでイエスがラザロを死から蘇らせる奇跡を見たのです。
 マリヤが主のみ顔を仰いだ時、「イエスは涙を流され」(35)深い愛を示されました。主イエスは死んだ人をよみがえらせるために、病んでいる人を癒されなかったのです。
 「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

3、マリヤの高価な香油注ぎを主は喜ばれた

 マリヤが非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを持って来て、主に惜しげもなく注いだ時、イエスはマリヤの愛の行為を大変喜ばれました。
もったいないという批評に対して、「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」(ヨハネ12:7)

《よくなりたいか》2016年11月13日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ5章1〜18節
「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」(ヨハネ5章6節)

<はじめに>
 恩寵とは罪深い人間に神から与えられる無償の賜物です。生ける主は今日も、罪に滅びる者を癒し、安息を与えようと捜し求めています。 ベテスダの池の情景は非常に痛ましいものでした。イエスは「大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。」のを見て癒されたのです。

1、神は全く力のない者に救いを与える

 ベテスダの池での病人の癒しはユダヤ人の祭りの最中に行われました。神はこの外形ばかりの祭りを嫌っていました。ユダヤ人が神から離れていたからです。
 大勢の病人の中に38年間臥せっていた人がいました。伝説によれば、天の使いが天から下りてきて水をかき回しその時に水に飛び込むと癒されることでした。
 その所にイエスさまが来られました。主イエスが長い間病気だった人をどのように扱われたかを注目しましょう。まず最初に「よくなりたいか」と、質問しました。
 イエスさまは、その人が本当に変わりたい「願望」を持っているかを知りたかったのです。
 この病人のように希望を捨てた、全く力のない者を見る時に、神は救いを与えたいのです。
「これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や助ける人のない悩む者を救い出すからです。」(詩篇72:12)
 イエスの質問にその人の答えは、
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ5:7)
自分はよくなりたいが、助けてくれる人がいないのですと、答えました。
 
2、主なる神は癒される

 「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト23:26)
 この病人に対する主イエスの命令を見てください。「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」(ヨハネ5:8)
 主はいま信仰を用いよ、とお命じになります。曖昧な望みを捨てて、いま信仰を働かせよと、お命じになります。
 今が恵みの日と覚えて、信仰を働かせ、今、立って歩むならば、その瞬間に癒しを受けることが出来ます。
私たちも福音を宣べ伝える時に、「信仰を働かせよ!」と、命じることは必要です。

3、癒される救い主イエスは罪を赦される

 「しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。」(13)私たちは主を知ることよりも恵みを受けることを重んじます。癒しを受けても、主を知らなければ完全な恵みではありません。
 後に、イエスさまが癒してくださったことを知ったこの人は多分、自分の罪のために38年も患ったことでしょう。それ故、イエスさまは「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。・・」(ヨハネ5:14)と、命じられました。主は外側の体を癒されるばかりでなく、内側の心の罪を赦されます。

《信仰の前進性》2016年11月06日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる4章46〜50節
「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。・・その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」
(ヨハネ4:47、50)

<はじめに>
 主イエスを信じた、この役人の信仰には進歩的な信仰が見られます。47節には「聞いて、主のみ許に行き・・願った」とあります。そして50節には「信じた」とあります。何と素晴らしい信仰の前進性のステップが見られます。この役人の信仰のように主を信じ受け入れる人が起こされることを主に祈ります。

1、聞く信仰(Faith Hearing)

「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて」(4:47)この役人が主イエス・キリストを信じ受けいれる第一ステップは「主イエスが来られたことを聞いた」という事です。
 この役人は、子供の病気を癒してくれる人が他になく、すべて徒労に終わり、今にも死にそうな息子を癒して頂きたいと主イエスにすべてをかけていたのです。
 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ロマ10:17)

2、捜す信仰(Faith Seeking)

 「イエスのところへ行き」(47)役人の信仰は主イエスが来られたことを聞くだけでなく、主のみ許に行ったのです。主にお目にかかるまで、まる一日かかったのです。
 F・Bマイヤーは未熟なクリスチャンに「神に時間を貸せ」と勧めました。私たちは自らの問題が速やかに解決されることを切望します。
 神に期待し、神を待ち望まないで、神を信頼しない人がおります。
 この役人のキリストへの信頼は生き生きとしたものです。時間への経過とともに、子供の病が絶望的になった今、キリストだけが助け主と確信したのです。

3、嘆願する信仰(Faith Pleading)

 「下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。」(47)
 この人は今やキリストの前にひざまずいて祈っています。
この役人の信仰の真剣さが主のみ前で証明されました。証明するものは祈りです。
 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(汽茱魯唯機В隠粥
 キリストは祈りと願いを一つにされ、神の御心にかなえば、聞いて下さるのです。

4、安息する信仰(Faith Resting)

「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」(50)
 役人は主イエスの単純な言葉を聞き、信じて帰って行きました。
「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」
 今や祈りは信仰となり、嘆願する信仰は安息の信仰と変えられました。彼は帰って行くとき、役人の僕たちに出合い、彼がイエスの言葉を信じた同時刻に子供が直ったことを知りました。
 私たちもその信仰に与かり経験したい。

《主イエス・キリストの招きと救い》2016年10月30日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書11章28節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

<はじめに>
 間もなく巷はクリスマス商戦一色。このクリスマス・シーズン、教会は一人でも多く「イエス・キリストの救い」に与かることを祈る。今日もイエス様は「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、招いておられる。
 キリスト教の救いとは何か、お話しをしたい。

1.神とはどんなお方でしょうか。

「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記1:1)
私たち日本人の神概念は、あいまいです。
聖書が示している神は天と地を創造された方です。歴史の中でご自分を啓示しておられる神であり、宇宙を創造し私たち人間を造り、生かしておられる神です。神は聖なる方であり、私たち一人一人を覚えて限りなく愛して下っている神です。

2.神は愛である。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
この有名な聖書の言葉は、聖書の中心的なメッセージです。全宇宙の主である唯一の神は、愛の神です。その独り子であるイエス・キリストを私たちの救いのために、この世に遣わしてくださったのです。 
イエス・キリストは神からの最高の贈り物です。 
人間の愛はいつも相手に何かの条件を求められますが、神の愛は主権的な愛です。私たちに愛される資格がないのに、無条件に愛して下さるのです。

3.神の招き

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10)
人の子とはイエス・キリストのことです。
救い主、イエスは「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)と言われました。 
 私たちは、神様から離れて、迷子になった羊にたとえられています。
 主イエスは命をかけて、迷子になった、私たちを尋ね求めています。なぜ私たちは喜びのない、感謝なき、不安の生涯を送っているのでしょうか。
 人間は高ぶって、神にそむき、自分勝手に生きようとしたのです。「人生最大の問題」は神様の前に罪を犯して、神から離れていることです。聖書は神に逆らうことを罪と言っています。

4.罪の赦しと救い

人の罪を解決するお方はイエス・キリストだけです。
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」(汽撻謄蹌押В横粥
救い主、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして死なれました。神の救いに与かるのは、私たちの善行や修業によるのでなく、キリストの十字架の贖いの故です。
私たちがただ心を開いて、キリストを救い主として、信じて、受け入れれば救われるのです。

《変わらない主のご愛》2016年10月23日 渡邊泰範牧師  

ヘブル人への手紙13:5〜8
「ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」(ヘブル13:5)

<はじめに>
 この世の中は実に変化が甚だしい。主イエスは、私がもう一度来る時(再臨)、世は騒動と、飢饉が起こると予言しています。現に、シリアの内戦で各国が戦っています。この時代にも救い主「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル13:8)と、約束しています。

1、変らないお方イエス・キリスト

 変らないお方であるイエス・キリストを心に迎え、信頼して行く人生は何と幸いなことでしょうか。金がありましても、いつのまにか何処かへ飛んでいってしまいます。自分の健康も自分の経験もあてになりません。また人もあてになりません。皆さんは誰をあてにして生きておりますか。あらゆるものは変化します。しかし主イエスは決して変わりません。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル13:8口語訳)
主イエスは今も、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』と、主ご自身が言われるのです。

 何という驚くべき神の約束の言葉でしょうか。いつまでも変らないお方はイエス・キリストです。何故ならば、このお方は神でおいでになるからです。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのです。」(ヘブル4:14)

主イエスは私たちの罪のために十字架にかかり、死んで三日目によみがえり、生きて父なる神の右におられます。
主イエス・キリストを救い主として信ずる私たちの祈り、願いに、大祭司として、父なる神のみ前に執り成しおられます。
主イエスは目には見えませんが、私たちといつも共においで下さいます。
平安のない世に在って、これからの生涯もこの変らないお方、イエス・キリスト様にお頼りして、見上げて、仰ぎ、信じて行きましょう。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ9:33)
イエスさまにお頼りする人生は決して失望に終わらないのです。

2、変わらないお方、イエスを信じ、心に迎えよう

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
主イエスを信じる者が救われるのです。しかし、信じない人にとっては何の力もありません。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37、38)
誰でも、渇き求めて、イエス様のところに来て、信ずる者は、渇きが癒されるだけでなく、イエス様が命となって、流れ出ると、約束しております。
罪の放蕩に浸りきった人でありましても、イエス・キリストを救い主として、信じ、受け入れる時に、十字架の贖いの力はすべての人の罪を赦し、すべての汚れを聖め、そして私たちを新しく生まれ変わらせて、神の子として下さる。過去の生涯との訣別です。

《王妃エステルの信仰》2016年10月16日 渡邊泰範牧師  

エステル記4章16節
「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

<はじめに>
 「我もし死ぬべくば死ぬべし」(エステル4:16文語訳)この王妃エステルの信仰告白はエステル記の要であるみ言葉です。ユダヤ人の敵であるハマンによるユダヤ人虐殺計画が王の布告により実行されようとしています。王妃エステルは養父であるモルデカイによってこのことが知らされ、王妃に召し出されたのはこの時ばかりと、決断し、死をも覚悟して王に直訴します。

1、自らに課せられた神のご計画を知ること

 モルデカイは、ユダヤ人の救いのため、エステルを選び、召されたことをエステルに自覚させようとしました。
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル4:14)
 この時のためだ。「エステルよ、黙ってはならない」と、モルデカイは迫る。
 キリスト者とは神に召し出された者です。今一人一人がキリスト者として召されたのは何のためか。自ら負うべき神の計画は何か、知ることです。
 このことのために時をかけて、神に近づき、祈り求めることです。

2、神のご計画を知り身を投じること

 「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)
 エステルは神のご計画をはっきり知りました。
「我もし死ぬべくば死ぬべし!」とは、「もし死ななければならないのなら、死にます」、「死ぬことがみこころであるならば死にます」という意味です。
 ですから、生きることも死ぬこともただ御旨のままにということです。
 私に洗礼を授けてくれた本郷善次郎師が尊敬した笹尾鉄三郎先生は「我もし死ぬべくば死ぬべし!」と、このみ言葉に導かれて以来、日本の福音化、リバイバルを求めつつ東奔西走しました。
そして、九州の講談で倒れ、蠟燭(ロウソク)が燃えつきるように、天に移されてまいりました。(笹尾先生の記事は「霊の糧」に遺されています)

3、導かれた神のご計画の成就を切に祈る

 エステルはモルデカイに祈りの援軍を求めます。
「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)
 この断食は断食の祈祷を意味します。「私のために断食を」と言いましたが、エステルが許可なく王の前に出る時、金の笏(しやく)が述べられると、彼女が救われることです。
 しかし、そのことは全ユダヤ人の救いに通じるのです。イエス・キリストによって「大いなる救い」という召しをこうむった者は、キリストの体である教会人としての生き方が求められます。

《第一にキリストを伝える》2016年10月9日 渡邊泰範牧師  

第二コリント4:1〜6
「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。」(競灰螢鵐硲粥В機

<はじめに>
 パウロは復活したキリストのご顕現により、主より使徒として召され、「わたしの名を、異邦人、王たち・・の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」と、キリストを宣べ伝える者とされた。(使徒9:15)。
パウロは聖徒として召されたコリント教会の方々に宣教を第一に力説しています。

1、神の召しを知ること

 「あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく」(競灰螢鵐硲粥В院
 パウロがキリストから直接、この宣教の任に召されたとの確信がある故に、如何なる迫害や困難にも立ち向かうことが出来ました。
 5章では和解の福音を委ねられている事を強調しています。
「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(競灰螢鵐硲機В隠后
 同4章2節で「神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」と、パウロは先ず宣教のの動力は人々に対してではなく、私を召してくださった神だと、神への責任を述べています。

2、神の言葉を説き明かすこと

 神の言葉がいつも教会の中心でなければなりません。神の言葉に対する私たちの使命は、神の言葉をまっすぐに忠実に語り続けることです。
「恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし」(4:2)
み言葉の真理を曲げず、明らかにすることです。
人の歓心を買うために、そこに何かを付け加えたりしないで、真理をそのまま語ることです。
  「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(競灰螢鵐硲押В隠掘
 当時はこのお言葉のようにぶどう酒に水を混ぜるように、人々の歓心を得るために神のお言葉に混ぜ物をするような説教者がいたのです。 これはパウロが「異なった福音」(競灰螢鵐硲隠院В粥砲世噺世辰討い泙后

3、キリストを宣べ伝えること

 「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」(競灰螢鵐硲粥В機
 パウロの時代には、人間を崇拝するような危険がありました。外から見たイメージが大事でした。
 パウロ自身はどのように見られていたのでしようか。
 「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」(競灰螢鵐硲隠亜В隠亜砲噺世錣譴討い泙靴拭
 そのことをパウロも認めていました。「自分は弁舌をもって説き伏せようとはしていない」と言っています。
 パウロに敵対していた人々は非常に、外見を気にしていました。
 ですからパウロは「自分を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます」と言っています。

《大切なものは何か》2016年10月2日 渡邊泰範牧師  

マルコ12:28〜34
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:30)

<はじめに>
 宮におられたイエス様に一人の律法学者が「何が一番大切なのか」と、真剣に求めてきました。私たちクリスチャンは、組織に振り回されて、何が一番大切かということを忘れてしまう傾向があります。み言葉の宣教と祈りよりも、他の事で忙しくして、見失ってしまう危険があります。

1、第一に神を心から愛すること

 イエスに近づいた律法学者は敵対心を持つことなく、イエスがいろいろな質問に的確に答えられたのを見て感動していました。そこで、律法学者が宮で普段なしている行事の違いを見たのか、一人で来てイエスに尋ねました。 
「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)
イエス・キリストは言われました。
「われらの神である主は、唯一の主である。」(マルコ12:29)
唯一の主である神は、信じる者もその方だけを信じ、神が人生の中心でなければならないのです。

 さらに、イエスは『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(30)と、言われます。
この命令は、私たちの持っているすべてもって、神様にお答えするということです。様々な私たちの生活の中で、神を愛することです。
 
2、隣人を愛しなさい

 第二に優先すべきものは、犠牲を払ってもでも隣人を愛することです。
「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:31)
私たちは自分の事については本能的に気にかけます。それを他の人にも意識して、愛しなさいと言われるのです。
隣人を愛するという事は、自分にとっては部外者のような人をも愛する事です。人を偏り見ず愛する事です。神の御子キリストは私たちの罪を赦すために、十字架上で死なれました。
父なる神はすべての人の贖いの代価として、御子の命を与えて下さいました。私たちも犠牲をもって、他の人にも愛を注がなければなりません。

3、どうしたら天国に行けるのか

イエスは大切なことは「神を愛すること、また人を愛することに尽きる」と言われます。
このことはすべての人類の共通の願望です。でもここに問題があります。人間的な努力では不可能という事です。 それは、私たちが主に完全に信頼する時に可能となるのです。クリスチャンの信仰は、他のいかなる信仰とも違っています。聖書のメッセージは、「私が何かをするか」ではなく、「主なる神がどういうことをなされたのか」ということです。
 私たちが神にすべてを明け渡して行くことです。「神を愛し、隣人を愛する」ということは、イエス・キリストが私たちのために全てを成し遂げたという事の上に立っています。

 それではどのようにして、「神を愛し、隣人を愛すること」ができるのか。それはキリストの中にあることによってのみ出来ます。キリストの救いを受け入れる時、聖霊によって新しく生まれ変わり、いのちなるキリストを心に宿す者となります。そうして、二つの大切な命令を守ることが出来るのです。

《神との和解》2016年9月25日 渡邊泰範牧師  

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「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(競灰螢鵐硲犠錬横粟瓠

<はじめに>
 私は55年前の聖霊降臨日(ペンテコステ)に喜んで洗礼を受けた。私が何故洗礼を受けて、クリスチャンになったか、極、簡潔に証しをしたい。 
高校三年の時、「真実と聖さ」を求めてキリスト教の伝道集会に導かれた。
その集会で、真実なるイエス・キリストが居られることを知った。その御愛に満ちたイエス様は私の心を知っていて下さり、慰められた。
それから聖書を購入し、貪るように読み、紹介された柴又教会に通った。
真の神様がいることを知らない両親の反対を受けたが、隙を見て逃げるように教会に行った。
牧師先生は「あなたのために祈っていたのよ。」と、待っていてくれた。
間もなく、本郷善次郎牧師の奥様から、
「洗礼を受けませんか?」と、言われた。
「私にはまだクリスチャンになる自身がない。確信がない。」と、答えた。
クリスチャンになったらどうなるのか?クリスチャンには責任があるので、未だ、しっくりいかないので洗礼を躊躇した。

1、洗礼を受ける資格と確信

洗礼を躊躇したその夜、主は夢に顕れた。
主は言われた。
「クリスチャンになることは難しいことではない。ただ主の十字架を自分の罪の赦しとして、受け入れ、「神と和解しなさい」と、本日のお言葉、第競灰螢鵐硲犠錬横粟瓩里言葉が強く、臨んだ。
朝、目覚めて「あ・・そうですか。主を受け入れます。十字架は私の罪のためです。信じます。」と言った時、次の聖書のみ言葉が与えられた。
 
2、キリストを受け入れた者は新しく造られた者

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(17節)
主は私の心にお入り下さり、新しく造られた者と、宣言して下さり、喜びに満たされ、朝を迎えた。
そして、牧師に「洗礼を受けます」と、言った。
主は私たちのありのままでよい。自分を取り繕うこともなく、「主イエス・キリストが私の罪のために死んだ。」その救いのみ業を感謝して、自らの罪を悔いて、キキリストの救いを受け入れた。
主は私の罪を赦され、神の子として下さった。

3、洗礼はクリスチャン人生のスタート

 「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(14、15節)
洗礼によって古き過去の自らが十字架につけられ、死んだのである。これからは自らを喜ばせるのでなく、神に喜ばれるように、神に従っていく人生なのです。
洗礼はクリスチャンのスタートである。クリスチャンになっても、直ぐ、心に描くような聖い人、完成された人、キリストのような人格に成れないことを知った。
日々、心の主権を主にお任せして、お従いして行く時、愛なる神は私たちを聖め、キリストのように完成し、天国に導き下さるのです。

《神の近くにいることの幸い》2016年9月18日 渡邊泰範牧師  

詩篇73篇
「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」(詩篇73篇25節)

<はじめに>
 詩篇73篇は礼拝に仕える楽長の一人、「アサフ」(主の神殿の詠唱者)の賛美です。アサフはこの世の悪の栄えるのを見て、懐疑心と妬(ねた)みを抱きました。しかし、詩人は神に諭されて神の近くにいることを喜び、主ご自身を愛します。

1.神のご支配の中にいたアサフ

 詩人は普段から神のご支配の中に生活し神を信じていました。
「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」(1)と、建て前として告白してきた。しかし、現実の世の有様を見てつまずき、すべるばかりとなった。
 「それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。」(3)
アサフは悪者の栄え、神なんかいるものか神が何を知るというのかと、神をあざけり、高慢を見てねたみ、つまずいたのです。
この妬(ねた)みのつまずきはクリスチャンであれば、誰にでも陥りやすい罠である。
「確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。」(13)
 いつも教会で主の礼拝を守っていても、詩人は神の義に不信を持った。
  飯狃嗟裟萓犬呂海硫媾蠅魏鮴發靴董◆嵜誉犬砲亙程式がある。『主イエスを見つめて行くことが勝利の方程式』」と言われる。

2、聖所に入って悟ったアサフ

 「私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。」(17)
 アサフは魂のむなしさから聖所に入って、主に解決を求めた。主の救いに与(あず)からない者の終極を見て、滅びることを悟り、神のご真実を見て、懐疑は晴れた。
この地上での栄耀栄華(えいようえいが)は蜃気楼(しんきろう)のようで、天の父の御國では影もかたちもないことを知る。
詩人は霊の眼が開かれ、諭されて賛美する。
「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。」(22)

3、神の近くにおることの幸

 詩人アサフはあの獣のようになって、唸っていた者を掴(つか)まえて、神の恵みに与かっていたことを知らされ、神信頼への念は強固となって行く。
「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。」(詩篇73篇23〜24節)
 アサフの疑問、煩悶が徹底的だっただけに、その暗雲を突き抜けてのちの神への信頼感は、古今の絶唱となった。
「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。」(25節:新共同訳)
 この訳に納得する。「地上で主を愛する生活」こそ、天国が慕わしくなるので、詩人は「神の近くにいることの幸い」を高らかに賛美している。(28)

《神に喜ばれたエノク》2016年9月11日 渡邊泰範牧師  

創世記5:21〜24 ヘブル11:5〜6
「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神と共に歩んだ。・・ 神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:22〜24)

<はじめに>
 今朝は「神が共にいて下さる」という、主の臨在信仰をもって、神と共に300年間歩んで、死を見ないで、天に移されたエノクの信仰の秘訣に倣いたい。日々の雑踏の中に生きる私たちに、エノクの如く、神を畏れ、聖く生きることを教えられたい。

1、覚まされたエノクの信仰の秘訣

エノクの信仰は私たちを魅了します。神と親しく交わり天を慕いました。そして天に移されました。エノクはメトセラが誕生した年、65歳になって神と共に300年間歩んだとあります。
エノクはメトセラが与えられた時、神を畏れず不敬虔な者たちに対する、神の裁きの啓示を受けたことをユダ書を通して知ります。信仰が覚まされたのです。

「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」(ユダの手紙14〜15)

神の裁きとはノアの洪水です。メトセラが亡くなった直後、ノアの洪水が来て滅ぼされたことを知ります。

2、神に喜ばれたエノクの信仰

エノクは罪がはびこる環境であっても、神の御前に神を第一として神に喜ばれる生活を日々送りました。

「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:5〜6)

エノクの信仰が神に喜ばれていたと、天に移される理由が述べられています。神に喜ばれる信仰とは、生ける神さまはいつも側(そば)近くおられると、信じることです。神ご自身を求める者に必ずこたえ、報いてくださることを信じたのです。

神にいつも目を留めたのです。私たちは他人の評価を気にします。しかし神にどう評価されるかということが、最も大切なことです。
エノクの信仰の偉大さは、神に喜ばれることを第一にしたことです。
使徒パウロもやがて主の御許に行って、主と共に住むことを願っていたので、地上で生活している時も、それから離れているにしても、「ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」(競灰螢鵐硲機В晃語訳)と、いっています。

エノクが天に移された如く、私たちもキリストの救いに与かる時、罪が赦され、天に携えあげられる望みが約束されています。

《渇く者への主の招き》2016年9月4日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ7:37〜38
「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」
(ヨハネ7:37〜38)

<はじめに>
 主イエスの招きに応じてイエスを信じ、主権を主に明け渡し従って行くと、私たちの心の内に永遠の命なる泉が湧き上がり流れ出る者となる。

1、渇き求める者に与えられる生ける水

 『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』と、主イエスは祭りの頂点とも言える日に立ち上がって叫ばれた。
 仮庵の祭り(イスラエル人が荒野の天幕生活を記念して、仮庵を造り、8日間行う祭り)でユダヤ人は供えられた犠牲を見たり、神殿に水を灌いだり、また様々な宗教上の儀式に与かりました。
しかし、心の満足を得ないことを知った主イエスは民衆に叫ばれたのです。
 主イエスはマタイの福音書11章28節の
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、同じ霊的な意味で、主イエスは私のもとに来て飲みなさいと、招かれています。
「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(イザヤ55:1)
生ける水の源なる主イエスは旧約聖書と同じ言葉をもって招いております。 
 
主イエスはサマリヤの女に言われました。
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)
本当に生ける水が心の奥底から流れ出る者になりたいと渇望する者に、必ず生ける水は注がれます。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」 
(ヨハネ黙示録21:6)
 主は未来において、天の御位にお座りになる時にも同じ招きをします。罪人をご自分のもとに招いてくださいます。これは幸いなことです。
 
2、主を信じるものに生ける水が流れ出る

「見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。」(エゼキエル47:1)
 エゼキエルは新しい神殿の預言をしました。宮から生ける水が流れ出るのを見ました。主イエスはエゼキエルが預言したように、『私を信じる者』に、生ける水が注がれ、流れ出ることを約束されました。
 主イエスこそ生ける水を与えることのできるお方であると信じ、委ね、主に自分を明け渡す時、流れ出るのです。『生ける水』とは御霊(聖霊)を指して、言われたのです。
この時、御霊はまだくだっていません。しかし御霊が臨みますと、このような人になることができます。
主イエスが『生ける水の川が流れ出る』といわれたように人々を生かし、人々の渇きを潤し癒して行く者となれるのです。

《安息の獲得》2016年8月28日 渡邊泰範牧師  

ルツ記4章
「わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。」
(ルツ記4:10)

<はじめに>
 ナオミはルツの落ち着きどころを求めていましたが、神の導きによりボアズがルツを妻とし安息を獲得します。
 ルツは自分の受けられる特権を要求してボアズにその前途を委ねました。3章18節の「成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。」と、ルツは座して待ちました。ボアズは当時の取り決めに従い、ルツの願いに応えて万事を成し遂げました。
私共も主に身も魂も捧げます時、弟子たちが10日間座して聖霊を待ち望み、火のバプテスマを受けたように私たちもその恵みに与れます。
ルツ記は美しい、すぐれた物語であるが終わりに、若い幸福な妻、また母であるルツのことを書くかわりに、年老いたナオミのことを書くのに費やされています。
嘗て、苦渋に満ちたナオミの顔が今や、祝福と喜びに満ちた顔に変わったことが思い浮かばれます。 
私たちも今の暗さに観念して、失望してはなりません。夜は必ず開け放たれるのです。

1、ボアズ、ルツと結婚する

ボアズ、ルツの願いに応えて行動する。ボアズが長老を招いた問題は、第一に産業を贖うこと(エリメレクの所有する畑地)、第二にルツを贖うことでした。
近親者の贖い人は、一度「私が買い戻しましょう。」(4)と言ったが、後これを断って、ボアズに譲っている。人間生来の愛と親切とはここにその真相が表わされている。
「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」(6)といった。
自分が損となる事を発見してこれを取り消したのである。しかし、ボアズはそうではなく、自分の嗣業をも失い、また自らルツに与えてまでこれを贖った。
われらの救い主、イエス・キリストは天の栄光を捨てて下り、おのれを空しくして人となり、遂に自分の生命をも棄てて血を流されたのである。
わたしたちはキリストの貴い血によって贖われ、キリストの新婦とされたのである。これは贖いの恵みの絶頂である。

2、ルツ、ダビデ家の系図に入る

「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子(オベデ)を産んだ。」(ルツ記4:13)
このようにルツが目出度くボアズと結婚してオベデを生んだ事により、ナオミはその名のようにナオミ(楽し)となり、夫エリメレクを亡くした悲しみは祝福に回復された(14、15)。
オベデが後のダビデの祖父となったので、この異邦人の女ルツは終わりにダビデ大王の祖先の一人となった。
これが本書の大団円であるが、ルツの名誉はこれだけでなく、キリストなるメシヤの系図の中の一人となった。
「ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、 エッサイにダビデ王が生まれた。」(マタイ1:5〜6)
私たちもルツのように世に染まらず、主に一切を任せて、行くと時、祝福が与えられる。

《ルツの従順掘2016年8月21日 渡邊泰範牧師  

ルツ記3章
「私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」(ルツ記3:13)

<はじめに>
 ルツはボアズの親切に満足せず、ボアズの愛、またボアズと一つになることを願う。そのように私たちも主の恵みを拾うことで満足せず、主イエスご自身と一つになることです。ボアズが親戚の人で、一家を贖う責任があることを知りました。ボアズの愛を受けてボアズと一緒になることを願います。

1.ルツ、ボアズと一緒になることを願う

 二章に於いてルツがボアズから豊かなる恩恵に与ったことを学びました。
ルツは実に喜びの音づれを聞きました。即ちボアズが親戚の人で、一家を贖う責任があることを知りました。
「しゅうとめナオミは彼女に言った。『娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。』」(ルツ記3:1)
ナオミはルツに「身の落ち着く所」を捜し求めた。

ボアズによって、ナ安息のオミが失った畑を買い戻す権利を有する人であることを知ったルツは、ナオミの命ずるままに、当時の正当な慣習にのっとって、保護される身分として意思表示をしました。
私たちも、キリストの尊(たっと)い血によって、罪が贖われ、買い取られたのです。
「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(第一コリント1:30;新共同訳)

 主人ボアズが夜間、穀物をふるって、疲れ、着のみ着のまま、打ち場に臥して眠った後、ルツが主人の足許に横たわったことは、決して不謹慎なふるまいではなかった。当時の律法に従ったにすぎません。
 ボアズが目を覚ましてルツに気付いた時、ルツはへりくだって応えました。
「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(ルツ記3:9)

 ルツのとった信仰と愛の大胆な行為は、主は私たちにも求められます。私たちも主ご自身との親しいお交わりを飢え乾く者となりたい。

2、ボアズ、ルツの願いを聞き入れる

 ナオミがルツに指図した行為に対して、ボアズが敬虔な人なので、何も問題は起こらなかった。
「ボアズ」とは「彼に在りて力あり」との意味で、昇天されたキリストの模型です。
「すると、ボアズは言った。『娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。
 さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。』」(ルツ記3:10〜11)
 ボアズに近づいたルツの大胆は彼の前に尊ばれた。ボアズは律法にそって、その願いを几帳面に果たした。

《ルツの従順供2016年8月14日 渡邊泰範牧師  

ルツ記2章
「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」
(ルツ記2:12)

<はじめに>
 ルツはモアブの地を離れ、ナオミに連れられてベツレヘムに着く。思わず近親者ボアズの畑に落穂拾いに行く。ボアズはルツがナオミに対して行ったことを聞いて、ルツを慰め食事を与える。ルツは謙虚な態度でボアズの好意を受ける。

1、ルツ、落穂拾いに行く

「落穂拾い」の光景はミレーの絵(素朴で貧しい農民の生活を描く)で馴染み深い。貧民や旅人のために麦の収穫よりこぼれ落ちる穂を遺しておくよう律法(レビ記19:9)に命じられている。
ルツは異国にきて落穂を拾って食を得なければならなかったが、これを恥とせず姑ナオミに仕えた。
その後ルツは「はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑」(3)で「落穂拾い」をすることになった。

2、ボアズ、ルツに懇切に好意を施す

「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(ルツ記2:11〜12)

 神に従順なルツに対して、その信仰と献身に対する「十分の報い」が与えられるのは当然であろう。
ルツがエリメレクの一族で、非常に裕福なボアズの畑に「はからずも」行ったのは神の導きであった。

3、ルツ、ボアズの愛にへりくだって応える

「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」(13)
ルツのボアズへの感謝は、そのまま私たちが主にささげる感謝である。
ルツがイスラエルの神、主のみ翼の下を頼りとして、その民と郷土を捨てた時、ユダの「裕福な人、大いなる贖い主ボアズ」に出会い、後に、ボアズの新婦となり、その富を受ける身となった。

4、ボアズより受けた愛をナオミに告げる

 ルツはボアズから飽くほど受け、その余りを持ち帰ってナオミに与えた。自分が満足するだけでなく、ナオミに分け与えるほどに恵まれたのである。
ここにボアズは律法の命ずる以上に「束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。」(16)と、若者に命じている。
へり下る者に与えられる福音の恵みは、私たちの求める所、思うところをはるかに勝るものである。
「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、」(エペソ3:20)

ルツは今や、主の僕たちとの交わりの中に主のパンを食し、且つ、疲れた体を休める、安息が与えられた。

《ルツの従順機2016年8月7日 渡邊泰範牧師  

ルツ記1章1〜22節
「ルツは言った。『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』」(ルツ記1:16)

<はじめに>
 ルツ記は異邦人モアブの女ルツの名をとって書名としている。文学作品としても、また霊的な書としても実に優れている。本書は士師時代の頃、イスラエル人に嫁いだルツが、夫の死後その姑ナオミに従ってベツレヘムに帰り、失った嗣業をユダヤの風習に従って近親者ボアズによって家族の嗣業を贖い返し、ボアズに嫁ぎダビデの祖父オベデを生んだことを記す。

 本書はルツがボアズに贖われた如く、私たちが主に贖われたことの深い意味を教えている。ルツ記は士師記の付録と言われているが、人類の文学史上ルツがナオミに言ったことほど美しい言葉はない。この書の目的はダビデ家の起源を示すと同時に、異邦人が救われて、贖い主キリストの新婦となる事を預言的に美しく示している。

1.信仰生活の堕落と改宗者・ルツの固い決意

1)安息の放棄;エリメレクのモアブ移住と災い
エリメレクが飢饉の時ユダのベツレヘムを去り、異邦のモアブに行き、そこに滞在したことは彼の信仰生活の失敗を表わす。
飢饉があったのは当時、士師時代には人皆その心のままを振舞って、神を忘れた(士師21:25)ための懲らしめと思われる。
ベツレヘムの地は神が特別に御目を留めたもう、神の約束の地である。(申命記11:12)ベツレヘムとはパンの家の意である。

 エリメレクは試練として、飢饉が来てもなお、神の摂理の中に神に信任すべきであったが、神の敵陣の地に供給を仰いだことは信仰生活の堕落である。彼はそこで死にその家庭に不幸が続いた。アブラハムもこのために失敗したことがある。(創世12:10)

 夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして彼らは約十年の間そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。

2)ナオミ、安息を願って故国に帰る決心をする

エリメレクの妻ナオミから離れたオルパは俗化した信者を表わし、ルツは「子羊の行く所へはどこへでもついて行く」信者の模範を表す。

「ルツは言った。『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。』」(ルツ記1:16〜17)

 ルツは親族、友人などを全く捨てて、何の望みもなくただ一人の姑ナオミを頼りに、見ず知らずの国に往くことを決心した。これは義理や人情のためでなく、ナオミの信ずる神を選んでの宗教的決心である。

 これが真にキリストの新婦の心である。ルツはすべてを捨てたが、後に知られるように、贖い主ボアズの新婦となって無上の光栄と富とを享けた。異邦人より選ばれたルツはキリストの新婦の模型(雛形)である。キリストの系図に入ったのである。

《キリストを知る》2016年7月31日 渡邊泰範牧師  

ピリピ人への手紙 3:7〜14
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、・・」(ピリピ3:10)

<はじめに>
 “キリストを知る”ここにすべてのキリスト者の経験と努力の目標がある。最も重要な事はキリストご自身を知ることです。パウロは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」と、力強く証言し、さらにキリストを追い求めている。

1、キリストご自身を知ること

 キリスト教は生けるキリストご自身である。キリスト者がキリストを知ることは聖め(聖化)の恵みです。ある聖書に造詣の深い学者で常に穏健な考えを持っている方が言っています。
「『どのように表現され、また定義づけられる聖霊の恵みであっても、深いキリストの知識に至らせるか』自問自答することです。」

 もしも、私たちの経験がキリストについてのより深い知識に至らせることがないなら、それは神の霊の働きではありえないのです。何故なら、聖霊はキリストについて証し、聖霊はキリストの栄光を現わすからです。

「その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)
「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)

2、キリストを知る故にすべてを捨てる

「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)

 パウロは本当にキリストを知り、価値観の大転換が起こりました。キリストを知らない時に得たものが損と思うようになり、キリストを知れば知るほど、「それらの物を捨て、ちりあくたと思っています。」と言い切るのです。

 パウロは主キリスト・イエスを知る素晴らしさのゆえに、今までの肉の頼みも誇りも一切が損と思われ、何の抵抗もなく手放したのです。

3、キリストをさらに追い求めること

 「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」 (ピリピ3:13〜14)
 
この聖句を愛し、キリスト者の完成を追い求め、天国に召された聖徒を憶えます。ジョン・ウエスレーが「キリスト者の完全」でこのみ言葉を引用し、説教録に残しています。

 パウロのように素晴しいクリスチャンはいなかったでしょう。パウロは伝道者としての召しを受け、キリストを知り、御霊に満たされて。素晴らしい業を成してきました。しかし、パウロの心の中には、「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。」と、さらに天国に行くまで、キリストご自身を追い求めたのです。

《能力なるキリスト》2016年7月24日 渡邊泰範牧師  

ピリピ4章 1〜23節
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
(ピリピ4:13)

<はじめに>
 ピリピへの手紙4章の課題は、「私たちの能力(ちから)なるキリスト」です。
私たち、クリスチャンに喜びと平安をもたらし、主なる神への奉仕と証しの生涯を全うする力の源泉は皆、キリストにあります。その力を、「私を強くしてくださるキリストによって」頂き、勝利の生活を歩みましょう。

1、あなたのそば近くにおられる主

 4章の1〜7節の鍵の言葉は「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」(4:5)
「主は近い」と訳されていますが、この言葉には二つの意味があります。
顱ゼ腓里敢椴廚近い。髻ゥリストの臨在が近い。
これは感覚ではなく信仰によって認めるものです。キリストご自身は、聖霊によってあなたのそば近くにおられます。
この悩み多い世にあって、様々な試練、失望、信仰の落胆の沼に遭遇する時も、あなたのそば近くにおられるキリストご自身との、親しきお交わりによって、勝利して行くことが出来るのです。

2、神の平安に守られる秘訣

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(4:6)
思い煩うことは不信仰です。主イエスも「思い煩うな」といっています。
野の花を見よ、空の鳥を見よ、神様がみんな養い、育てて下さるから思い煩う必要はないと言っているのです。そのために、心配、不安になることがあったら、感謝をもって、ありのままを報告して、祈りなさいと勧めています。
すると、「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(4:7)
人知では測り知ることの出来ない「神の平安」が与えられます。

3、あらゆる境遇に足りることを学ぶ秘訣

 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(4:13)
ピリピの教会はパウロによって開拓された教会なので、教会はパウロを愛していました。パウロは今、ローマの獄中にあると聞いて、教会はエパフロデトを遣わし、献金を届けたのです。
パウロは献金に対して、感謝しないわけではありませんが、パウロの本当の喜びは、もっと別の所、もっと深い源泉、キリストご自身から湧き出ていました。
「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(4:12)
パウロは私を強くして下さる方、キリストによって、貧しさの中にあっても、豊かに与えられた時も、あらゆる場合に対処する秘訣を得ていると、ピリピの教会を励ましたのです。
パウロの中には平安が与えられ、喜びと感謝がありました。私たちも境遇に左右されず、足ることを学びたい。

《聖めへの招き》2016年7月17日 渡邊泰範牧師  

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「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(第競灰螢鵐硲珪錬雲瓠

<はじめに>
 クリスチャンとは「生ける神の宮なのです。」(16)と繰り返し、パウロはコリントの教会に薦めております。私たちの体が聖霊の宮であることを主より教えられていないと世の欲に汚され、主の聖霊を悲しませてしまう。ここに主の「聖めへの招き」があります。

1、聖めの確実性(certainty holiness)

「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(第競灰螢鵐硲蕎錬隠供腺隠検

 聖めとは主ご自身が聖霊によって聖め(確実性)、イエス様のように生きることです。古き自我の磔殺(イエスの十字架の死により、古き我も十字架に付けられ死んだのです。)により、復活し給う生けるキリストがわが内に住まわれることです。(ガラテヤ2:19〜20)
聖められたクリスチャンは世に倣うことなく、神への献身、従順が伴います。

2、聖めの転機性(crisis holiness)

 主ご自身は聖めを求める者に、私たちを穢れから瞬間的(聖めの転機性)にきっぱりと聖めます。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ6:6)

 タケノコが成長するため化けの皮を剥ぐ。私たちも古き人を潔く脱ぎ捨てることです。

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」
(テトス2:14)

取税人、ザアカイは主に出会って変わった。
『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。』(ルカ19:8)主の弟子、ペテロやヨハネも神に明け渡すことによって変えられた。

3、聖めの徹底性(complete holiness)

「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ」(第競灰螢鵐硲掘В院砲函∪擦瓩賄按貪です。

1)妬みからの聖め
「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(第1コリントコリント3章3節)

2)不品行からの聖め
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)
 聖めとは古き自己の死、そしてキリストに生きる。

4.聖めの継続性(continuous holiness)

「恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(第競灰螢鵐硲珪錬雲瓠
 聖めは過去の経験でなく、継続的に聖め続けてくださる恵みです。
(7/13の聖書研究祈祷会、飯狃嗟宰匯侫瓮奪察璽犬茲蝓

《永遠の神の守り》2016年7月10日 渡邊泰範牧師  

詩篇91篇1〜16節
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。』と。」(1〜2節)

<はじめに>
 「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」とは、神を人生の拠り所としている人で、全能者に守られているという意味です。具体的には、主イエスをすべてにおいて認め、当てにし、よりかかってお交わりする人のことです。

1、神を人生の拠り所としている人の恵み

 神の前における人間存在の卑小さを基調とする、暗鬱、荘厳さを歌った、詩篇90篇(神の人モーセの祈り)に比べて、詩篇91篇は一転一変して私たちを驚かせる。人生無意味から人生謳歌へと一変する。

「朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。」
(詩篇90篇:6)

「まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(詩篇90篇:9、10)

 この詩篇90篇の6、9、10節に見る如く、「いと高き方」、「全能者」を向こうにまわしては、神の怒り、聖なる神の審判の前に、恐縮し、萎縮し、人生の儚(はかな)さを歌っている。

 それに対して詩篇91篇は「いと高き方」をわが住みかとし、「全能者」を、おのが宿とする方は、
「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。と、」(詩篇91篇:2)、心から歌うのである。

 2節の如く、告白する者に対して、主はご自分の羽を広げて覆い、すべての病・敵・わざわいから保護してくださるお方であるという、力強い約束とその現実をこの91篇に見ることが出来る。

 神を愛し、神に愛される、神との信頼関係を持った、密度の濃い、霊的なお交わりは、信仰者のいるべき至聖所で、これ以上の場はありません。
この限られた人生を、自覚的に一刻も長く主と親しいお交わりを持つことは最高の恵みである。

2、悩みの時に共にいて助ける神(祈りに応える神)

 神を愛し、また神を信じる者に与えられる祝福が14節からの、み言葉で述べられている。
顱タ世留臀;「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。」(14始)
髻ヅ靴僚茲寮験供─嵌爐わたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。」(14終;エペソ2:6)
鵝サГ蠅療え(慰めと救い);「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。」 
この15節の言葉には、神さまの深い慰めとご愛を認めます。
堯タ世陵世
.豊かな命
.神の啓示

《生い繁る木》2016年7月3日 渡邊泰範牧師  

詩篇92:12
「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。」
(詩篇92:12)

<はじめに>
 木には目に見える部分と見えない部分とがある。そして、隠れている部分こそ見える部分の成長の鍵である。地中に伸びる隠れた部分は隠れた供給源から栄養を得る。
 同様に、主のみ言葉によって毎日主との静思の時を確保しないならば、主イエスの恵みと知識に成長することは不可能である。

1、神との交わりこそ成長の秘訣

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:2〜3)

 朝起きて、主のみ言葉(聖書;Blble、Bookともいう。)を読み、静かに祈る。床を離れてもそのお言葉を口ずさむ。主のみ言葉によって、毎日主との静思の時を確保しないならば、主イエスの恵みと知識に成長することは不可能である。

 ケズィックの聖会で長く用いられ、また日本の聖会でも親しみのある、ジヨージ・B・ダンカン師は、「ジョン・ウエスレー(メソジスト派の創始者)は毎日の最初の時間を神にささげた。」と、紹介している。

 また、何千人ものキリスト者の霊的問題の相談を扱ってきた経験からダンカン師は、「枯れたキリスト者になってしまう根本的な問題は、毎日祈りによって神と交わりの時間を持つことを怠ることです。」と、明言している。
こうして神との交わりの時間を持ち、信仰の木が下に伸びて行くなら、上に伸びる部分も青々しく生い繁るのです。

 信仰生活における結実、それは神と共なる生活から産み出されます。神の命が、私たちのうちに流れ、神の力に私たちのすべてを委ねる時に、結果が現れてくるのです。
 
2、神との交わりの回復

 ヨハネの手紙の主要目的である、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1:3)と、記されている。
神との交わりの回復は、神様のご愛を知ることです。そのとき、神との親しいお交わりの生活が導かれて行くのです。父なる神が私たちに示された愛はここあります。

 「この命(イエス・キリスト)は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」(汽茱魯唯院В押

 神様の方から、神のみ子イエスが肉体をお取りになって、目に見る事が出来るように、手で触る事が出来るように、耳で聞く事が出来るようにと、地上に現れて下さったのです。
私たちは神から離れて堕落して罪の中に生活していましたが、私たちを滅びの中から引き上げるために、この世に救い主、イエスは現れて下さったのです。
そして、神様はもう一度、ご自身との幸いなる交わりに与からせようと神の御独り子、イエス・キリストを贈られたのです。

《愛の働き》2016年6月26日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ12:1〜11
「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)

<はじめに>
 私たちの奉仕、行いが主に喜んで頂いたらどんなに幸いでしょうか。主イエス様は十字架におかかりなさる日が近づいて来た時(三日前の火曜日)、ベタニヤのシモンの家に寄られた。ベタニヤでのマリヤの香油注ぎは主に喜ばれた。

1、マリヤの愛の行為

 マリヤはイエス様ご自身のために油を注ぎました。貧しい人たちの面倒をみるという事も良いことです。けれどもこの場合においては、もうイエス様が十字架におかかりなさる、この世の最後が近づいているという事をマリヤは知っておりました。
そこで、何とかイエス様に自分の持っているもので、最上の奉仕をしたいと考えました。そうして、イエス様ご自身を喜ばせるために、マリヤは自分の持っているもの全部を注ぎ出しました。
それを、見ていた弟子のひとり、ユダが「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ 12;5)と言われた。
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。」(マタイ26:10)
詳訳聖書では「素晴らしい事、賞賛に値する立派な事をしてくれた。」と訳してあります。
イエス様のためにするという事が一番良い事、立派な事なのです。
お祈りするにしても、人に聞かせるためのお祈りではなく、主のみ心を覚えてお祈りすることです。 
賛美する時も、主を賛美することです。

2、マリヤの純粋な犠牲的行為

 マリヤの行為は安っぽいものではなく、犠牲的行為でした。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗ったと、あります。
この行いはどの位、代価の払われた行為であったか。「この香油は三百デナリ」(労働者の賃金の三百日分)と書いてあります。ある学者によりますと、ナルドという油を作るには、たくさんのバラの花を集めて、それから搾り出したところの油である、との事です。マリヤにとってこのナルドの香油は最高のものでしょう。マリヤは高価なものを惜しげもなく、イエス様の頭に全部、注ぎかけました。
それを見ていた人たちは4節に「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」と言ったのは当然なのです。 
けれどもイエス様は、
「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」(6節)と言われました。 
マリヤの準備された行為は、主が十字架にかかることを知り、その主の愛に応える犠牲的奉仕でした。
私たちのために命を捨てて下さったイエス様のためには、私たちも、自分の持てる最上を尽くすという事が、イエス様に喜ばれるご奉仕です。
説教をするにしても、手紙を書くにしても、捧げ物をするにしても、イエス様に喜んで頂くことです。
このマリヤの愛の行為はいつまでも記念として覚えられました。(マルコ14:9)

《いつまでも変わらないお方》2016年6月19日 渡邊泰範牧師  

ヘブル13:5〜8
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル人への手紙13:7〜8)

<はじめに>
 この世の中は実に変化が甚だしく、悲しさと困難に満ちています。東日本大震災の復興が途上にある中、熊本震災に見舞われ人々は恐怖に怯えています。自然災害一つとっても、日本の政治、経済、財政の建て直しも、根本から揺り動かされ危機感を覚えます。世界も大きく揺り動かされています。地域問題、災害、テロ、貧困など悲しさで満ちています。

 そのような私たちを取り巻く環境の中で、変らない生けるお方、慰め主、主イエス・キリストが居られます。主エスは一度私たちを救うために世に来られ、私たちの罪を赦すために十字架に殺されたが、復活し、主を信ずる者の心に住み、いつも私たちのそばに居られるのです。

1、変らないお方イエス・キリスト

「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。主ご自身がこう言われるのです。』」(ヘブル13:5)

 そういう変わりやすい人生にありまして、変らないお方はイエス・キリストです。イエス・キリストを心に迎え、信頼して行く人生は何と幸いなことでしょうか。金がありましても、いつのまにか、翼(昔、日本人はお金のことをオワシと言っていました。)をもって何処かへ飛んでいってしまいます。自分の健康も、自分の経験もあてにならない。また人もあてになりません。しかし、主イエスは決して変わりません。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」
(ヘブル13:8口語訳)

 主イエスは今も、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。主ご自身がこう言われるのです。』と言われる。
以前、塩屋聖会後、主に導かれて小島伊助師を訪ねました。歓談後、玄関に来られた先生に「さようなら」と、挨拶を交わしたら、先生は玄関の上の壁を見上げるように手招きする。

 ミス・バーネット先生でしたか、綺麗に刺繍したカラフルな額のお言葉を先生は仰いだ。
"I will never leave you nor forsake you."(ヘブル13:6)
私は決して“さようなら”を言わない。<小島伊助師のウイットに満ちた意訳>

 何という驚くべき神の約束の言葉でしょうか。いつまでも変らないお方はイエス・キリストです。何故ならば、このお方は神でおいでになるからです。

2、私たちの指導者は主に召されても、主は居る

 すばらしい信仰の指導者、牧師、教師、先輩がおりました。しかし、主の御許に召されて行きました。
しかし、彼らを導き、彼らを用い、彼らを祝福なさった、イエス・キリスト様は昨日も今日も、いつまでも変わらず、今も生きて、ここに居られます。

《十字架と復活》2016年6月12日 渡邊泰範牧師  

汽灰螢鵐硲隠機В院腺隠亜■毅言
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、・・キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと。」(第一コリント15章3〜4節)

<はじめに>
 聖徒パウロは福音とは十字架と復活だと力説しています。殉教、真近に迫ったパウロは復活の主イエスに会ったことをアグリッパ王に証しをしています。この恵みこそ奉仕の原動力です。

1、十字架と復活こそ福音の真理

 「聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・」(3〜4)
「この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」とパウロは単純、明快に言われる。

 キリスト教の福音の真理は「十字架と復活」です。私たちの罪が赦されるだけでなく、主イエスが復活したごとく、私たちの死ぬべき肉体が、二度と死なない(朽ちない)体によみがえるのです。

 「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(第一ペテロ1:3)
 主の弟子ペテロは私たちも復活の恵みに与かることを「生ける望みを持つ」と、言われた。

パウロがキリストの弟子たちを迫害している時、復活の主イエスに会った。それからキリストの証人となった。パウロはこの証しを幾たびもしている。

「『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」(使徒行伝9:5)

 「あの人(パウロ)はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒行伝9:15)

 パウロは復活のキリストは誰に現れたか記している。ケパに現われ、それから十二弟子に現われ、その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われ、・・そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)にも、現われてくださった。
 生ける主は私たちにも現れる。

2、主に在る奉仕の報い

 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(汽灰螢鵐硲隠機В毅検

 主に在るその労苦、祈りは空しく地に落ちない。それ故、主の業に励みたい。
私たちは主がもう一度来られる再臨の時、主とお会いするので、主が聖なる如く、私たちも聖なるものになりなさいと勧められる。主の再臨は救いが完成する時です。

 主の再臨は私たちにとって、大いなる望みです。その日を待ち望む私たちは、地上に残された生涯がどんなに苦しいことがあっても、耐え忍ぶことが出来ます。
主にあって、労苦した奉仕が、再臨の日に報われる時だからです。

《主の愛に応える(最高の目的)》2016年6月5日 渡邊泰範牧師  

第競灰螢鵐硲機В院腺横
「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」(競灰螢鵐硲犠錬浩瓠

<はじめに>
 地上での最後の時が来た時、「ああ良かった、私の人生は、本当に良かった、有意義であった。」という生涯を送りたい。人生の目的は何であるか知りたい。

1、パウロの奉仕への動機

 神が私たちにして下さったその愛が、奉仕の動機となるものです。
パウロは14節に「キリストの愛われらに迫れり」(文語訳)と、キリストの愛が動機となっていることを説明しています。パウロが受けたキリストの愛はさらに福音(救い)を宣べ伝える原動力となっています。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。・・ また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(競灰螢鵐硲機В隠粥腺隠機

 パウロは1〜2節で主イエス・キリストがもう一度、再臨されるとき、キリストの救いに与っている者がよみがえり、新しい霊の体に変えられる時を待ち望んでいます。
地上の肉体は幕屋です。天幕です。この肉体にある間は弱さを感じ、またいろいろの重荷を負ってうめく事もあります。けれども神さまは私たちのために、永遠の住まいを備えて下さっているのです。

「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 」
(競灰螢鵐硲機В院腺押

 現実の地上生活でまだイエス様がおいでにならない今は、どのようにあるべきでしょうか。パウロは9節でも“そういうわけで( Therefore)” と、主の愛を受けた奉仕への動機を一言で「主に喜ばれることです。」と、説明しています。

2、主に喜ばれる生活

 9節にパウロは「私たちの目的は、何をするにも、いつも主に喜ばれることです。」(リビングバイブル訳)と言っています。これが私たちの人生の最高の目的です。やがて私たちは主イエス様にお会いします。その時に、イエス様から喜ばれる者となりたい。

 10節に「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。
キリストの救いに与ったクリスチャンは、罪は赦されているので、罪の裁きを受けないが、その奉仕が忠実であったか問われます。

「その主人には彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。』
(マタイ25:23)
主に喜ばれる生涯を送りたい。

《天を慕う生涯》2016年5月29日 渡邊泰範牧師  

ピリピ3:17〜21
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)

<はじめに>
 今私たちの住んでいる地上は仮住まいで私たちは寄留者である。私たちの真の住まいは天にある。私たちが慕う天の住まいこそ、私たちの栄光の望みです。主イエスは十字架の苦しみを通して私たちに天の住まいを用意して下さった。そこから主イエスは迎えに来られる。

1、天を慕う生涯

♪ 旅人(たびびと)なるこの身にとりて 慕わしきは天(あま)つ故郷(ふるさと)
  救い主にまみゆるまでは  心満たすものはあらじ(総合聖歌677番)
この愛唱歌の如く、お互い「天を慕う生涯」を送りたい。

「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。・・移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
(ヘブル11:5〜6)

 エノクがいつも神を見るごとく、神の存在と神よりの評価を基準に、神の報いを信じ、神と共に300年間歩んで、死を見ないで、神はエノクを天に移された。
エノクの昇天は、罪の贖いによるキリストの救いに与った私たちも、やがて主イエスの再臨の時に、天に携えあげられ、主の顔を見て、いつまでも主と共に居ることの約束の予表です。

 信仰の父、アブラハムは天のふるさとを慕い求めた。
「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」(ヘブル11:16)

 旅人とは故郷に心の目を向けている人である。わたしたちの故郷は天国である。地上での生活は通過点に過ぎず、彼は地上のいかなるものにも執着しない。地上での生活がどんなにいやなときがあっても、この世の向こうに、良き天の故郷があれば、耐え忍べるのである。
私の母も不自由な体になっても、やがて復活の体によみがえる望みが、唯一の楽しみであったのです。
母のお墓にこの16節の言葉を刻みたい。

2、再び迎えに来られる主に会う備え

 「聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:14)

 花婿なる救い主、イエス・キリストが再び来られるのを待ち望む者として、聖められて私たちは備えられたい。

「キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:1〜2)

 私たちはキリストと共に甦らされた者であるから
無理に天のことを思うのではなく、むしろ当然の事である。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(黙21:1)

 歴史を全く塗り替える主。今の地は過ぎ去り、もはや死もなく、苦しみもない新天、新地を創造される主。

《生活の優先権》2016年5月22日 渡邊泰範牧師  

マタイ6:24〜34
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

<はじめに>
 主の弟子たる者(クリスチャン)に求められる生活の優先権を主イエスは分かりやすく示している。
「第一のものを第一に」なすべきであるということを教えている。優先権の頂上は神の国と神の義である。神を第一とする生活は祝福される道である。

1、優先権の原則

「何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(25)

主イエスは「食物は不必要である」とは言っておりません。
命の食物に対する優先、体の着物に対する優先を述べております。

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(26)

人間の空の鳥に対する優先を述べています。

「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、・・」(30)

人間の野の草に対する優先を述べています。
主イエスは人間の全領域において「優先権の原則」を認めなさいと教えているのです。
神が私たちを見られて、心を痛められる一つのことは、何か犯罪を犯しているということではなく、価値観に混乱を生じ、大して価値のないものを、非常に価値あるもののように考えて大切にし、真実に価値あるものを、何ら価値がないかのように、なおざりにしていることです。

2、すべての生活の必要を知っておられる主

「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(32)

神を第一とする生活をしていれば、天の父は生活に必要なすべてを与えると約束しています。

3、優先権の頂上は神の国

 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」
ただ一回、神の国を優先させるということではなく、お互いの一生を通じて、私たちの根本的姿勢として、神の国を第一とするということです。

「神の国」とは、第一に神の領土は天地万有、森羅万象、神が創造的主権を保ち、支配権を行使しておられることです。
歴史がどのような方向に動いても、神は依然、王者として、永遠者として主権を行使し続けられるのです。

 第二に主がもう一度来られる時、神の御心を痛める一切のものが排除される時、神が統治されるのです。
主が再臨される時、神の支配は完成し神の統治が実現します。教会はその時まで神の国のために一つの働きをする機関にしかすぎません。
やがて教会はその使命を達成するでしょう。しかし、神の国は永遠に続きます。

《聖霊の働き》2016年5月15日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ14:16〜26
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)

<はじめに>
 聖霊は主の救いを信じ、主を受け入れた者に私たちの心の内に住み、ご自身の者として証しお臨みくださる。「聖霊は父がキリストの名によって遣わす、もうひとりの助け主」であると、主イエスは紹介している。

1、聖霊の賜物を受ける

 ペンテコスト(5旬節)の日に、主イエスが約束された聖霊を待ち望み、祈る弟子たち一同は聖霊に満たされた。私たちは「聖霊を与えたまえ」と祈るが、その前にあなたを神に与えたまえ」である。

「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」」(使徒2:38)

神なきキリストなき人生にピリオドを打ちキリストと和解して、父、御子、聖霊の名によってバプテスマを受けるとき聖霊は与えられる。
聖霊の恵みに与り続けるには、自分の人生を主のみ旨に即ち、主権をキリストに委ね、主に従う生涯である。

「私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(使徒5:32)

聖霊に導かれる人生は主の証人です。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

2、助け主なる聖霊の働き

♪“ O Thou in whose presence my soul takes delight,
  On whom in affliction I call,
  My comfort by day, and my song in the night,
  My hope, my salvation, my all.”(讃美歌527−1節)

 この愛唱歌は、「苦しみの時に主に呼びかけると、主のご臨在を喜ぶ、わが慰め主」と、賛美しています。

「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。・・しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:17)

父がキリストの名によって遣わす聖霊は真理の御霊です。
主を知らない方は聖霊を受けることはできません。主の救いに与かった者の内には、いつまでも御霊がいつまでも住んで下さるのです。何という恵みでしょうか。

「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:14)

 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。聖霊の恵みは私たちを御国に導かれます。

 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 聖霊の働きで際立って、強調したいことは、聖書の言葉を解き明かしてくださることです。

《罪の赦しと聖め》2016年5月8日 渡邊泰範牧師  

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「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第競灰螢鵐硲機В横亜腺横院

<はじめに>
 5月が来ると特別な喜びが来ます。それは私が18歳の時教会に導かれ、キリストの救いを受け入れ、受洗の恵みに与ったのが5月だからです。また誕生日も5月なので喜びもひとしおです。

1.キリストとの出会い

 私が初めてキリストというお方を知ったのは、18才の或る秋の夕べであった。
高校3年の秋、一枚のキリスト教の講演会のビラを入手し、温和しい学友を誘って出かけた。講師はカナダから来たオズワルド・J・スミス博士(ピープル・チャーチ牧師)であった。その集会で、初めて神様は私のすべてを知っていて下さることを知り、心が神様の愛に包まれた。

♪“いつくしみ深き友なるイエス(心に抱くイエスは何たる友や)は、われらの弱きを 知りて憐れむ” この素晴らしい賛美歌を知り、歌った。淋しい、心飢え渇く者に、イエス様は私の友となってくれた。

 その後聖書を読んで、「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らの者である。」と、このみ言葉にふれた時、神様は私の心に入った。神様は、この世の中では弱く、貧しく、何の価値なき者を見いだし、神の懐に拾い上げて下さったのです。
やがて牧師より洗礼を奨められたが、躊躇した。

 しかし、神様は直ちに夢の中で、私の心に語りかけて下さった。
「神の和解を受け入れなさい。
 神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」

神様は聖書のお言葉をもって、洗礼の意義、クリスチャンになることの意味を明確に示し下さった。クリスチャンとは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださった救い主、イエス・キリストを信じる事だ。ただ、信じればよいのだ!

神は信仰を与え、洗礼の意義を教え、キリストの救いを受け入れる確信を与えて下さった。起きて、「神様、信じます」と、言ったら
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」
(競灰螢鵐硲機В隠掘砲函導かれた。

2、罪の聖め

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(汽茱魯唯院В掘

クリスチャンとなった者が必ず通される、心に挑んでくる、私のうちに住む古き罪との戦い。そして信仰により、聖霊の働きによる罪からの解放。即ち、あなたの罪はすでに十字架の血潮によって赦されているという、「罪の赦しの確信」に立ち、又、「罪の聖め」の信仰を受け取ることです。これは尊いことです。

 第一ヨハネの手紙1章7節のみ言葉は、イエスの血は罪から聖(きよ)めてくださると、宣言し続けているのです。
「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ7:19)
この御言葉は心のうちに住む古き罪からの開放、即ち「罪からの聖め」を願い、苦しんでいるのです。
聖めの恵みを受けるには、罪を悔いて、神の光の前に出る時、聖霊によって「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と聖めを宣言してくださる。

《全生涯を導かれる主》2016年5月1日 渡邊泰範牧師  

詩篇23:1〜6節
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23:1)

<はじめに>
 多くの聖徒に愛唱されてきた、美しい詩篇23篇は霊的な豊かさがあります。
私たちはこの詩篇23篇でどれだけ神の恵みと慰めを受けてきたか、言葉にいい尽くせません。
スポルジョンはこの詩篇23篇を「天国の田園詩(heavenly pastral)と呼びました。主は私の牧者として、全生涯、責任をもって導いてくださいます。

1、主はすべての恵みを与えてくださいます。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1節)

 クリスチャン生活には世にあって多くの戦いがあります。失敗、失意、落胆、主に在る故の犠牲、そして親しくお交わりしてきた多くの聖徒との別れは淋しいものです。
しかし今日も、その戦いの最中にあって、失意どん底に陥っている時も、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と、賛美することが出来ます。

 神さまは悲しむ者に、聖霊を通して静かに私たちの霊魂に語りかけます。丁度、夜、美しい声で鳴く、ナイチンゲール(和名;サヨナキドリ 小夜啼鳥)のように、泣いて夜を過ごす多くの悲しむ者の耳に、この詩篇は心地よく響いて、希望を与え、喜びの朝を迎えさせて下さるのです。

 この1節で最も魅力的な言葉は、「私の」という言葉です。「わたしの牧者」、わたしの・・・ここに力があります。全部を主に任せますと、「主はわたしの牧者です」と、詩(うた)えます。無限の力を持っておられる全能の主が、ご自分の民に対して羊飼いの役目を引き受けられるとは何というへりくだりでしょうか。

 ダビデは自分のことを、弱く、身を守るすべを知らない、愚かな羊にたとえ、神を自分の扶養者・保護者・指導者として、いや!実に自分の全存在を委ねた方として、受け入れているのです。

 人は神によって罪が赦され、新しくされていなければ、自分を神の羊とみなすことは出来ません。ダビデのように、私たち、一人一人が神の羊であり、私たちが主のものであることを明確に、自覚することは素晴らしいことです。

 「わたしには乏しいことがない。」簡潔で明確な言葉です。主が私の羊飼いですから、私の必要を満たすことが出来ます。私は乏しいことがありません。

2、主はすべての恐れを取り除く

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)

 筆舌に尽くしがたい喜びを与えるこの聖句は、死の床に臥す多くの人々に口ずさまれ、暗く落ち込んだ心を明るくする力となってきました。
私たちが弱っている時、「主が共にいて守ってあげるよ」と慰めてくださるのです。

 クリスチャンの晩年は、生涯全体で最も平和な時であることが非常に多いのです。そういうわけで、臨終の時を迎える時も、「死の谷」ではなく、「死の陰の谷」なのです。死の本質を取り除かれ、死の陰だけが残っているだけです。

 天の光が死の上を照らし、私たちの人生の道筋に死の陰を投げかけているだけです。死は天の住まいに移される時です。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)

《主の愛に応える》2016年4月24日 渡邊泰範牧師  

マタイ16:21〜28
「イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。』」
(マタイ16:24〜25)

<はじめに>
 先々週のメッセージは一言でいえば、クリスチャンは「キリストが僕となったように謙遜になれ」というメッセージでした。今週は鮮やかに、クリスチャンは、主の大いなる愛に応えて、「キリストに従順であれ」と導かれました。
 クリスチャンが恵まれて豊かに用いられる秘訣はこの2大メッセージに包含されています。主のご愛に応えて、主にお従いして行く人を、主ご自身が、「キリストのみ形に」に変貌させると、約束しています。

「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ8:29)

1、主の愛に応えるペテロの変貌

 復活した主は、三度も「イエスを知らないと、否んだ」傷心のぺテロに、テベリヤの海辺でご自身を顕し、懇ろに取り扱われました。

「私を愛するか」と、三度も問われたペテロは「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(ヨハネ21:17)と、すべてをご存知の主に、自らの弱さを悔い、すべてを主に明け渡し(主に委ね、お任せし、捧げること)主に従いました。
主のご愛がわかったペテロにイエスは、「主の羊を飼う」という使命を託しました。

『わたしの羊を飼いなさい。 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。』」(ヨハネ21:17〜18)

 ペテロはネロ皇帝の迫害下、殉教を遂げるまで主に従順の生涯を全うしました。
 主イエスは父なる神のみこころを成し遂げるため、十字架への苦しみの道を歩まれました。全人類の救いのため、十字架の死に至るまで、父なる神に従いました。
 私たちクリスチャン生涯にとっても、一人一人に主より与えられた自ら負うべき十字架があります。
私たちも死に至るまで忠実に、主に従い、信仰生涯を全うさせていただきたい。

2、主の愛に応える讃美歌332番

 ここで有名な賛美歌「主はいのちを 与えませり」を紹介しましょう。
♪“私はあなたに私の命を与えました。私の貴い血を流したのは、あなたが贖われ、死から甦るためなのです。
 私はあなたのために私の命を与えました。本当に与えたのです。あなたは私のために何を捧げましたか”(讃美歌332番1節の意訳)

 この讃美歌の作詩者はフランシス・ハヴァーガルです。彼女は若くして、クラシックのピアニストであり、コンサートの独唱者でしたが、その音楽の才能、すべてを主にささげました。
彼女(21歳)がドイツのデユッセルドルフの美術館にシュタンバーグという画家の「エッケ・ホモ」(この人を見よ)という絵を見て、感動して、この詩を書いたとあります。私たちも主の愛に応えて行きましょう。

《悩めるときのいと近き助け》2016年4月17日 渡邊泰範牧師  

詩篇46篇1〜12節
神はわれらの避け所、また力なり、悩める時のいと近き助けなり。」(詩篇46:1)

<はじめに>
 ユダの王ヒゼキヤの時代にアッスリヤの王セナケリブの軍勢が攻めて来て国が危機に陥った時、ヒゼキヤは預言者イザヤに使者を遣わしてお祈りを頼み、また自らも祈った。詩篇46篇は、その結果、神の奇跡によって不思議な大勝利を得た時の事を歌ったものです。マルチン・ルターは迫り来る悩みの中でこの詩篇46篇を口ずさんで、神に信頼したと伝えられています。
ルターの賛美歌267番「神はわがやぐら」はこの詩篇46篇を賛美したものです。

1、神は避け所、また力、いと近き助け

「されば たとい地は変わり、山々が海のまなかに移るとも、われらは恐れじ」(2)

たとえ大地震のような困難危険がにわかに烈しく襲って来ても、神の保護の下にあるから神に信頼する者は恐れず、神が助けてくださることを教えています。
神はわたしたちにとって、「われらの避け所、また力なり、悩める時のいと近き助けなり。」と、賛美しています。

 「避け所」とは風や嵐を避ける岩陰や強い日照りをさえぎる陰を意味しています。事実、神の民はこの陰に身を避けたのでした。
また、神は彼らの「力」でした。この神は天地を造り、その民を贖い、歴史の中で彼らに奇跡を通し、その力を継続して示し続けてきました。
そして人が最も要する悩みの中、「すぐ近くにおられる神」と、助けそのものであると告白したのです。

2、私たちのそば近くいます神(神の臨在)

「ひとつの川がある。その流れは神の都を喜ばせる。・・神がその中におられるので、都はゆるがない。」(詩篇46:4、5)

いかに敵が相集まって騒ぎたち、押し寄せて来ても、神が共におられるゆえ、大きな平安の大河(神の祝福の象徴)が静かに流れるように、神が臨在をもって助け出される。神の都(エルサレムに代表される神の臨在する場所を指す。)は、神の臨在こそが喜びですと、賛美しています。
「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」
(詩篇46:7)

3、自分の力を捨て、神にお任せした時が勝利

「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
(新共同訳 詩篇46:11節)

 神が敵を撃破し、その武器をこわして戦闘を止めさせ、世を太平ならしめた驚く神の救いを語っている。
私たちが困難に陥って、どうにもならない時、勝利する秘訣は、先ず神の前に出て祈ることです。その時、自己中心的な工作をやめて、全面的に神にお任せ、お委ねした時、主のみ業を見ることができ、主をはっきりと知ることができます。

 私はかつて、一人の兄弟のために切に祈りました。それは大変困難な時で人間の力ではどうすることも出来ませんでした。そこで愛する神様にすべてを委ね祈った時、「力を捨てよ、知れ わたしは神。」と、このみ言葉が与えられ、平安と勝利の経験をしました。

《貧しくなられたイエス》2016年4月10日 渡邊泰範牧師  

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「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(競灰螢鵐硲検В后

<はじめに>
 主イエス・キリストの本質は神として、永遠の主権者として居られたのですが、私たち、一人一人のために、天上の栄光を捨てて、この地上に人となって生まれて来ることを決意されたのです。
キリストの貧しさとは、主イエス・キリストが「人として生まれ、僕(しもべ)として仕え、そして十字架の死に至るまで従って、私たちの罪を赦すため、身代わりの死を遂げたことです。

1、貧しくなられたキリスト

 これは東京若枝教会の飯塚俊雄牧師より聞いた話ですが、『ラスベガスの砂漠で一人の老人が、自動車に乗せて欲しいと、指でサインを出していました。そこに一人の青年が要求に応えました。老人は目的地に着くと、「クオーターを恵んで欲しい」(25セント)と、要求されたので、青年はそれに応えました。そして、「私はヒユーズという者です」といって別れました。そして、後にその老人があのハワード・ヒューズという億万長者であることが分かりました。そして、ヒューズを乗せた、或るガソリンスタンドの青年、メルリンダマー氏に、遺産相続として375億円が転がり込んだのです。信じられないことが事実起きたのです。彼の人生は変わったのです。』

 ここで私たちも自分の人生を考えたいのです。私たちは何処から来て、何処に行くのでしょう。心の平安を求めています。永遠という問題を誰も教えてくれません。しかし、この問題を解く鍵がこの聖書にあります。
私たちはたった一回の人生を無駄にしたくない。永遠というものを私たちは知らない。

2、キリストの貧しさによって富む者となった

 ここで、聖書は「私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。」とあります。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」と書かれています。
クリスマスとはイエスが地上に来てくださった事です。目に見えない神が見えるお方となって、つまり永遠なる神がこの相対なる世界の中に来てくださった事です。
私たちの救い主、イエスの誕生は馬小屋でした。
神なるお方がそういう所まで、降って来られたのです。
最初に読んだ聖書の言葉に「あなたがたのために」とあります。それ程までに私たち、一人一人は神の愛の中にあるということです。神は私たちに愛の告白をしています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」
(イザヤ43:4)

 現在、私たちに不足しているのは、何かといえば、それは「愛」です。そして何故淋しいかといえば、「その愛がわからない」からです。
主なるイエス・キリストは私たちの罪のために死んで、信ずる者に命を与えて下さったのです。ここに愛があります。信ずる者に、心にキリストを持つ者となったのです。私たちはキリストに在って満ち足れるのです。

《エマオの途上にて(人生の同伴者)》2016年4月3日 渡邊泰範牧師  

ルカ24章13〜35節

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカ24:15)

<はじめに>
 イエス・キリストの十字架刑の後、復活したキリストの記事の中で特に感動的なのがこの『エマオの途上』です。レンブラントの聖画“エマオの晩餐”を思い出す。イエスご自身が途方に暮れる弟子たちに近づかれたように私たちにも臨まれる。

1、復活の主は二人の弟子に近づかれる

 主が復活された日、クレオパともう一人の弟子が、エマオという村に向って歩きながら、十字架上で死んだイエスについて話し合っている時に主は近づかれた。
 しかし二人の弟子は失望と悲しみで周りが見えなくなっていたので、主イエスが同行される事が分からなかった。
イエスは知っておられたが、「どんな事を話しているのですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。
「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。」(19,20節)
クレオパはイエスに失望、落胆の心を表した。

2、イエスが甦ったと聞いても信じなかった

「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」(ルカ24:21〜24)

 クレオパはイエスに望みを置いていたが失望した。それは当時ユダヤはローマの支配下にあったので解放されることを望んでいたからである。そして彼らはイエスが墓から甦ったことを聞いても、ただ驚いて信じなかったのである。

3、聖書を解き明かしてくださった時、心が燃えた

「イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」(29〜31節)
 主イエスがみ言葉を開き、解き明かされた時、彼らの内なる心は燃えた。又、エマオで食卓に着いた時、イエスがパンを裂き、祝福を祈り、それを弟子たちに分け与えられた時、彼らの目は開かれた。
 この出来事は、救い主であるイエスが私たちの地上の旅路のどのような場面でも一緒に歩いてくださる(同伴者)という真理を教えています。

《復活のキリスト》2016年3月27日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ20章19〜23節

イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19)

<はじめに>
 復活は十字架による罪の赦しと切り離せないキリスト教の福音の真理です。私たちは主が私たちのために十字架にかかられたことを喜びます。しかし、一番喜ばしいことは主が私たちのために甦られたことです。キリストが死人の中から甦ったように、私たちも死から甦り新しい永遠の命に生きる者とされたのです。

1、復活のキリストはマグダラのマリヤに現れた 

 安息日が終わって、週の初めの日の明け方(受難から三日目)、嘗て七つの悪鬼に憑かれていた、マグダラのマリヤと最後までイエスに従った婦人たちに現れた。
葬られたイエスを墓に求めると、主の姿はなく、主の甦りを悟らなかった。そこで主の御使いは
「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」(マタイ:28:6)
 さらに御使いは、弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい、と言われた。
『イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と』。(マルコ16:7)
復活の主イエスは十字架にかかる前夜、恐れのあまり、三度も主を知らないと、否んだ「ペテロ」をガリラヤ湖のテベリヤで懇ろに、取り扱われたのです。

2、恐れていた弟子たちに主は現れた

「週の初めの日の夕方・・弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」(ヨハネ20:19)
 私たちの罪のために、イエスがむごい、のろいの死を見聞きした弟子たちは、恐ろしさのあまり戸をしめていた。そこに主イエス・キリストは甦って現れたのです。
イエスが家に入ってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。今朝もその主は目に見えませんが生きてここに居られ、『安かれ』と言われる。
「弟子たちは主を見て喜んだ。」のです。主は先に「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネ14:18)と、言われたがその通り成就されたのです。

3、見ずして信ずる者は幸いなり

 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスはイエスが来られた時、弟子たちと一緒にいなかったので、主の甦りを信じなかったのです。
そこで、主イエスは八日の後、弟子たちと一緒にいる中、トマスに現れました。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばして私の脇にさし入れてみなさい。」と、
イエスはトマスに十字架の傷跡を見せました。トマスは、「わが主よ、わが神よ」主をひれ伏して拝した。 
イエスはトマスに「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。」(ヨハネ20:29)と、言われました。
今も生きている主イエスを愛し、主のお言葉を信じる者は、誰でも聖霊の恵みによって、主は私たちの心に住まわれます。「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
(ヨハネ14:23)

《極みまで愛された主》2016年3月20日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ13章1〜35節

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13:1)

<はじめに>
 主なるイエス・キリストさまは数時間後に迫った裁きの庭で死刑の宣告を受け、十字架で殺されなければなりません。神は私たちの罪を決して見逃しません。それ故主イエスの贖いの十字架があるのです。主のご受難を覚えたい。

1、主はしもべとなられた

 イエスさまは父なる神から出て、神に帰ることをご存知でした。そこで世に存(のこ)れる弟子たちを極みまで愛されました。主イエスはご自分の死を知らせる、「最後の晩餐」を執り行うため、自ら僕(しもべ)の姿となられました。
「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」
(4節) 
実に神の御子、父なる神から万物の主権者として任せられた、主なるお方が僕のお姿となって、弟子たちの足を洗うため立ち上がったのです。
この時の弟子たちは一体どのような態度をとっていたのでしょうか。弟子たちはお互いの中で、一番偉いのは誰か?ということについて激論を戦わせていたのです。
そこでイエスは「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。」(ルカ22:26)と言われた。そこで主イエスがこの上もなく僕となって、尊い模範を示されたのです。

2、主が弟子たちの足を洗った

 第一は驚くべきことに、主権者、王なる最も力あるお方が最も弱き者の如く、奴隷の如く僕となられた事です。

 第二はこの主の行為をめぐって起こった論争です。シモン・ペテロの番になって、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」(6節)と言ったのです。
ペテロは自分が到底、イエスに足を洗って頂く資格のないことを考えて、お断りしたのです。しかし、ここで重要なことを学びたい。

 受ける資格のないものに与えられる好意、それは恩寵です。この神の恩寵に対して、ペテロはいかなる態度をとるべきか。それはただ「受ける」ということなのです。 
何の資格も、権利も、功績もないものに与えられる、それが神の恩寵です。罪の赦しの恵みもその通りです。

3、主の模範に倣う

主が弟子たちの足を洗ったことについて学ぶ第三の点は私たちへの適用ということです。
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(15節)
ここに僕となられた主イエスの私たちに対する要請があります。私たちは弟子たちの前に膝まずいて、弟子たちの足を洗われた主のみ姿を見ました。
主が模範を示した通り、私たちも互いにへりくだって、仕え合い、愛し合うことです。

《十字架上の言》2016年3月13日 渡邊泰範牧師  

ルカ23:34、42 ヨハネ19:26、27

<はじめに>
 受難週が近づく中、主の十字架上の七言を開いてキリスト教会の標準、世に在って暗闇の中に輝くクリスチャンの存在を覚えたい。

1、赦したまえ

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

 人類の救い主となったキリストは山の上で、口を開いて教えられた事を自ら十字架上で実行された。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)
私たちはこの主の愛を忘れてはなりません。

2、憶えたまえ

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42、)

 イエスと同じように十字架にかけられた、地獄のドン底に下るべき犯罪人の一人は、「御国に帰る時、思い出してください。」とイエスに信仰をもって告げると、主イエスは『あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。』と約束された。これは教会の基盤である。私たちの救いは何の功(いさお)もない。ただ主の功への信頼である。

3、あなたの子、あなたの母

「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。」(ヨハネ19:26)

 主は十字架の上から、わが亡き(十字架の死)後の母を弟子に託した。弟子はこの時から母を自分の家に引き取ったので、イエスは子としての分を尽くした。

4、 エリ、エリ、レマ、サバクタニ

「これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』」という意味である。」(マタイ27:46)

 身代わりとなったというみ言は随所にあるが、この十字架上の第四言がなければ、いつどこでどういう風に身代わりとなったか、答えられない。このイエスの絶叫こそは教会の贖いの千歳の盤石(ばんじゃく)である。

5、われ渇く

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。」(ヨハネ19:28) 

 主がご自分のための要求をされたのは、七言中ただこの一言である。しかもこれは肉体に関する要求なので、キリスト教は肉体を無視しないことがこの一句に暗示される。

6、完了した

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。」
(ヨハネ19:30)

 これはただ一字(原語)である。万事完了である。これこそ勝利の宣言である。キリスト教会はこの成し遂げられた贖いの勝利の宣言の上に立っている。

7、霊を御手に委ねる

「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」
(ルカ23:46)

 クリスチャンは生涯、死の恐怖がない。死は解決している。もちろん死の針といわれる罪が始末されているからである。私たちも「イエスにあって眠りにつく」が主のように醒めれば栄光の彼方、聖顔の前である。主が復活を信じゆだねて、眠りについたように、私たちも復活の希望をもって人生を閉じる。

《安息の生涯:主イエスの招き》2016年3月6日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる福音書3章16節

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

<はじめに>
 人はしばしば、労し疲れます。人は荒野にオアシスを求めるごとく、旅の疲れを癒すため安息場を求めます。主イエス・キリストは人生の旅に疲れたすべての人に、愛をもって招いております。主は安息を与えたく、今も招いております。

1、神はどんなお方でしょうか

「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記1:1)
私たち日本人の神概念はあいまいで、偉大な人物や神秘的なものを神として神社や仏閣に祀り、拝んでおります。
しかし聖書が示している神は、天と地を創造された愛なる聖なる神です。
全宇宙を支配される神は、神の独り子であるイエス・キリストが人となって、私たちの罪を赦すために、救い主として、この世に遣わされたのです。
イエス・キリストは神からの最高の贈り物です。
人の愛はいつも相手に何かの条件や資格を求めますが、しかし、父なる神の愛は、私たちに愛される資格がないのに、無条件に愛してくださるのです。

2.救い主、主イエス・キリストの招き

人が真の幸福を得るのを妨げている「人生最大の問題」は神様の前に罪を犯して、神から離れていることです。
神から離れた人は死と神の前の裁きがあるのみで、恐れがあり、平安がありません。
そこで、罪の重荷を解放し、平安を与える、主イエスの偉大な招きがあります。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われました。 
人の罪を解決するお方はイエス・キリストだけです。救い主、イエス・キリストはわたしたちの罪の身代わりとして、十字架にかけられ死なれました。
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」(汽撻謄蹌押В横粥
主イエスは十字架にかけられて死んだだけでなく三日目に甦り(よみがえり;復活)ました。主が死から復活したように、キリストの救いに与って、罪を赦された私たちも甦る望みが与えられたのです。

3、信仰による救いと安息の生涯

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8〜9)

神の救いに与かることは、わたしたちの善行や修業によるのではなく、私たちがただ心を開いて、罪を悔い、告白し、キリストを救い主として、信じて、受け入れる事により救われるのです。
キリストを信じた人には、安息の生涯が約束されています。私たちは主イエスと共に歩み、従って行くことです。信じた者には永遠の命と天国の住まいが約束されています。

《いのちの光を持つ》2016年2月28日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる福音書8章12節

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

<はじめに>
 旧約聖書において、主イエスは光であることを度々預言(イザヤ42:6、7)されて来ました。救い主イエス・キリストが世に来られた時、自ら『わたしは、世の光です。』と言われました。キリストは目には見えませんが輝きに満ちています。主を信じる時その輝きを共有できます。

1、世の光なるキリスト

 キリストご自身の中に何物にも勝る輝きがある。
この輝きはまた、人の悪をさらけ出す力を持っている。主が述べている通りである。
「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(ヨハネ3:19)
人はみな、自分はこれで良いのだと思い込んでいる。しかし、主の光の臨在の前に立たされると、自らの真の姿に気付くのである。

 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。・・もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(汽茱魯唯院В機腺)

 光なる主は、罪を示して下さるだけでなく、私たちの罪を聖めて下さるお方です。

2、キリストの輝きの共有

 『わたしに従う者は、いのちの光を持つのです。』
このお言葉の通り、キリストご自身は親密な関係を求めておられる。しかもその親密さを享受するよう私たちに望んでおられる。『従う』という事は親しい、密接な関係を表している。この光なる主イエス・キリストは愛なるお方である。愛は距離をおいて隔たっていることに満足しない。愛は近づき、共に分かち合うことを切望する。

 『従う』とはまた、服従することを示している。権威を持っておられるキリストは、私たちに服従を求められる。主に従うとは、私たちの意思も行いもキリストの主権に委ねることである。

 主は『従う者に、命の光を持つ。』と約束される。主が『世の光』であるばかりでなく、主に従う私たちも『世の光』と主は言われる。主に従う私たちは、『キリストの輝きの共有』を覚える。心に『命の光』を持つ存在となる。

「あなたがたは、世の光である。・・あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14、16)

3、人生を救いに導かれるキリスト

『決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ』主に従う者に人生の安全性を約束されている。主イエスは決して闇の中を歩むことがなく、人生を破壊する危険からの救い、守りが約束されている。

 やみ夜の荒波で多くの船舶が遭難する。しかし、世の光なる灯台である、キリストの臨在に、私たちの人生が導かれて行く時、天国(港)に導かれる。

《主の僕なるキリスト》2016年2月21日 渡邊泰範牧師  

イザヤ52章13〜53章12節

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

<はじめに>
 キリストが苦しみを受けたことを記念する受難週を一か月後に迎えます。キリストの受難を預言(750年前)したイザヤ書52章13節から53章12節は「しもべの歌」と呼ばれ、また旧約聖書中、最も重要な箇所です。新約聖書以上にメシヤ(救い主)なる、イエス・キリストの贖罪死(私たちの罪を赦すために、キリストが身代わりとなって、私たちの罪の罰を受けて十字架にかかって死んでくれたこと。)について明らかに述べています。
聖書神学者J・グレシャム・メーチェンは「旧約聖書の中に。クリスチャンの心にキリストの贖いのみわざの預言だと思える何か一章句があるとすれば、それはこの比類なきイザヤ書53章である。」と言っています。

1、キリストと人の不信仰

「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。」
(イザヤ53:1節)
多くの預言者たちが、今に至るまでしばしば宣べ伝えてきたこの救い主イエスを誰も信じなかったと、イザヤの内にいます聖霊は嘆き訴えています。
しかし全能の主の聖手は事実イエスによって顕れたのです。
「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。」(2節)
僕(しもべ)なるイエスは、人々が想像していたような天より栄光をもって降臨されず、弱々しい赤子として、一人の婦人のお腹からお生まれになった。
乾いた土地とは、当時ユダヤがローマの属国となっており、ことにベツレヘムは実に賎しい小さな村であったことを指しています。
若枝とはひこばえ(文語訳)のことで、古木の幹からひょっこり出てくる若枝のように、イエスはダビデの裔より生育された事を指す。
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」 (3節)
イエスの内心を見ないで、ただ外側を見る人間は、このようにイエスを侮り、捨てたのである。
平和と喜びをもっておられたイエスは、私たちの罪のために悲哀の人となられた。「病を知っている」とは、らい病人のことである。
この病にかかった人は、「『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。」(レビ記13章45節)とあるように、イエスはのろわれ、捨てられた。
主イエスは私たちの罪を負って、このような病苦を霊的に、深く経験してくださったのである。
『しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。』(4節)
誠にイエスは私たちの罪のために苦しみを受けられたのに、イエスは律法を破る者、神を汚す者、国を乱す者と裁かれた。私たちがキリストのように迫害され、誤解され、一言も弁護しない経験をする時、聖霊はあなたの心にキリストの受難を鮮やかに映し出します。

《不可能の神(アブラハムの信仰)》2016年2月14日 渡邊泰範牧師  

ローマ4:2〜3、創世記15:5〜6

「さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5〜6)

<はじめに>
 信仰の父と言われたアブラハムはいつ義と認められたか。
それは彼が何か特別なことをしたとか、何か特別なことが彼の側にあったということではない。義と認められたことは彼が労して得たものでもなく、当然得るべき報酬でもなかった。アブラハムは、死からいのちをもたらす、主なる神を信じた。その時、彼は義と認められたのである。アブラハムは神の言われた事をただ信じた。

 彼の生涯においてこの信仰がどのように大きく広がっていったかを見てみよう。
私たちも信仰の父、アブラハムに倣(なら)って見えるところの現状に捉われず、信仰によって不可能を可能とならしめる全能の神を信じ、天国への旅路を続けよう。

1、アブラハム、親族と別れウルを出る

「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」(創世記12:1〜2)

 栄光の神はマムレの平原で天使の形をとって現れ、信仰の父と呼ばれ、祝福の基となったアブラハムには召命が下った。

 アブラハムは主が言われたように従った。妻サライと共に、甥のロトを連れてユーフラテス川、下流にあるシュメールの都ウルを出発した。アブラハムの父テラはウルの地で月の女神の偶像を拝んでいたようである。それ故、神はアブラハムに偶像の地ウルを出るように命令を下したのであろう。
(文献;F・Bマイヤー著、信仰の高嶺めざして)
アブラハムはカナンの地をめざして、孤独な巡礼の旅に出かけた。彼は地上では旅人であり寄留者として天幕生活(テント)を続けた。

2、彼の子孫は星の数のようになると約束された

「彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5〜6)

 アブラハムは神の言われた事を信じた。主はそれを彼の義と認めたのである。主はこの出来事を夜に啓示した。以来、彼は主の約束を思い出すごとに、あの星のきらめく夜空を思い巡らした事であろう。

 さて現実は不可能に見えてきた事であろう。自分の体も弱り、死んだも同然であった。しかし、信仰は弱らなかった。彼の信仰は日毎に強くなっていった。
神は約束をなさることが出来ると信じ続け、神は神のなさる方法でそれをなされると信頼しきっていた。

3、アブラハム、多くの国民の父となる

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」
(創世記17:1)
「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう」。
(創世記17:4)

 アブラハムに告げられた通り、来年100歳にして、約束の男の子、イサクが与えられた。妻サラは90歳であった。私たちもアブラハムに倣って、現状の不可能を打破して、信仰によって生きよう。

《いつも喜んでいなさい》2016年2月7日 渡邊泰範牧師  

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「 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
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<はじめに>
 いつも祈ることにより喜び感謝が出来るのです。ジョン・ウエスレーはこれこそ聖化されたクリスチャンの姿ですと言っています。いつも生けるキリストとお交わりしてこそ出来るのです。

1、常に喜べ

 パウロは再臨(主イエス・キリストがもう一度来られること)を待つ理想的なテサロニケ教会に「喜べ、祈れ、感謝せよ」と勧めています。
 メソジスト讃美歌"♪わが喜び、わが望み、わが命の主よ、昼たたえ 夜うたい"と、臨在の主を賛美しています。
 主と共に歩んだエノクの信仰の秘訣は主の臨在(生ける主がいつも共にいること)の中に生きたので、神に喜ばれたのです。
 ダビデは主に申しました。
「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇40:8)
 私たちがいつも喜ぶ源泉は、主のみこころを行うことです。主イエスこそ御父のみこころに従い、それを喜びとし、楽しみとしたのです。
 父なる神のみこころは、人々が救われることです。
「自分の罪を正直に認め、悔い改め、十字架と復活のキリストを救い主と信じ、救われる。」教会にとってこれほどの喜びはありません。

2、絶えず祈れ

 主イエスを知り、心に主を抱いている人は、主に祈り、願いを求めるでしょう。
 パウロは「絶えず祈りなさい。」と勧めるのです。
 主イエスは朝、昼、夜祈られました。
一日の中で時を定めて祈ることです。
 クリスチャンの証である、主日礼拝に出席すること、週の半ば、み言葉の学びと祈祷会に出る事、これは生ける主との親しいお交わりであり、祈りの至福の時である。
 聖歌230番、"♪楽しき祈りよ・・悩みてあり日
 ここにて幾たび・・" 何故、祈りは楽しいのか、悩みの中に主が応えて下さるからです。

3、すべての事を感謝せよ

 恩師、本郷善次郎先生が奥様を亡くされた時、大変寂しい想いを経験されました。然し、祈っている時、「わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」(ヨハネ16:32)と、主イエスの十字架に架かる前の心境を教えられ、慰められた。
誰でも物事がうまく進めば感謝することでしょう。
しかし、パウロは「すべての事について、感謝しなさい。」と、勧めています。
私たちの人生には、感謝できない悲しい事がたくさんあります。使徒パウロはキリストを宣べ伝えるため、あらゆる苦難を経験しました。しかし、勝ち得て余りありと言いました。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:35)
 喜び、祈れ、感謝せよ!その秘訣は「キリスト・イエスにある」ことです。

《クリスチャンの喜び》2016年1月31日 渡邊泰範牧師  

ローマ人への手紙5:1〜11

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

<はじめに>
 クリスチャンの喜びは罪が赦され、罪なきものとされる義認信仰から来るのです。信仰によって神に義とされ、神と和らぎを得て神と親しく交われば、当然クリスチャンには喜びが湧いてきます。ローマ書第5章は義とされた者の祝福が溢れています。

1.神の栄光にあずかる希望を喜ぶ  

 私たちの霊的祝福のすべては、キリストの十字架と復活にかかっています。パウロはキリストの贖いを土台として、四つの祝福をかかげています。

1)信仰によって義とされる神の驚くべき恵み
 義認とは罪を赦して義とすることです。主イエスの贖いの十字架によって罪が赦されるということは、過去の一切の罪を棒引きして頂くことです。
クリスチャンは救われたと軽く言うが、信仰によって義とされる恵みである。

2)神に対して平和を得ている
 罪が赦され、義とされた者には「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」  
義認信仰からくる、神との和解による、恵みが与えられる。これは信仰者が神との間に何のわだかりもなく、良心の呵責もなく、恐れなく神に近づき、神と親しく交わる、静穏に満ちた平安の恵みである。

3)今立っているこの恵み
 続いて「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた。」「また」とあるように、信仰義認の恵み、神との平和の恵みに続く恵みです。

4)神の栄光にあずかる希望
「神の栄光にあずかる」とは、キリスト者がこの栄えに与ることを望む心である。
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」(第一ヨハネ3:2)
「キリストに似る」これこそ救いのゴールである。キリスト者の復活、栄化の恵みである。「神の栄光にあずかる」とは、ピリピ3章21節にあるように、私たちの卑しい体が、主ご自身のからだと同じかたちに変えられる時を意味します。

2.患難をも喜ぶ

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(5:3〜4)

 クリスチャンに患難は付き物です。キリスト者が信仰を持ってこの世で生きる時、患難に会うことはキリストによって予告されているのです。

3.神ご自身を喜ぶ

「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(5:11)

 キリストの十字架と復活を起点に信仰義認の恵みから、神の栄光にあずかる全き救いを大いに喜び誇るクリスチャン、そればかりでなく患難をも喜ぶ。
勝ち誇るキリスト者の三重の喜びの頂点は「神を喜ぶ」ことです。未来における神の栄光を喜ぶだけでなく、現在、神ご自身を喜ぶのです。

《主によって喜びをなせ》2016年1月24日 渡邊泰範牧師  

詩篇37篇 1〜40節

「悪事を謀る者は断たれ 主に望みをおく人は、地を継ぐ。」(詩篇37:9)

<はじめに>
 年初めに多くの人は祝福を願い平穏無事を祈る。万民のその祝福の願いに対して生ける全能の主なる神は応える。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」(4節;口語訳)
聖書はずばり、主に喜ばれることをした人に貴方の願いに応えると言われる。

1、主の戒めに従うとき神より祝福を受ける

1)心を悩ますな(1節始)「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな;口語訳」
2)ねたみを起こすな(1節終)「不正を行う者をうらやむな。」
3) 善を行え(3節)「主に信頼し、善を行え。」
4)主を喜べ(4節)「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。」(口語訳)
5)主にゆだねよ(5節)「主が成し遂げてくださる。」
6)耐え忍んで主を待て(7節)
 「悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。」
7)怒ることをやめ、憤りを捨てよ。(8節)
 「腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」
8)悪を行なう者は断ち切られる(9節)
 「しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」

 詩篇37篇はヘブル語の「いろは歌」です。ダビデがサウル王による不当な迫害下、波乱に富んだ生涯を顧みて、主より教えられたことを晩年、箴言風に語り伝えています。
主題は「救いと滅び」が交互に、並列に述べられています。
主に信頼する者は主に祝福を受け、地を受け継ぐ者(9、11、22、29、34節)となる。そのようなメロデイーが全節に流れています。

2、神は救いの神であるが信じない者は滅びる

1)草のように衰え(2節)「彼らは草のように瞬く間に枯れる。」
2)悪は断ち滅ぼされ(9節)「悪事を謀る者は断たれ主に望みをおく人は地を継ぐ。」
3)悪しき者は暫くして消え去る(10節)
 「しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。」
4)悪しき者の腕は折られる(17節)「主はご自分に逆らう者の腕を折り。」
5)悪しき者は滅び(20節)「主に逆らい敵対する者は必ず滅びる。」
6)主にのろわれた者は断ち滅ぼされる(22節)
 「神の呪いを受けた者は断たれる。」
7)悪しき者の子孫は滅ぶ(28節)「主に逆らう者の子孫を断たれる。」
8)悪しき者の断ち滅ぼされるのを見る(34節)
 「あなたは逆らう者が断たれるのを見る」
9)主に逆らう者は消えうせる(36節)
 「時がたてば彼は消えうせ 探しても、見いだすことはできないであろう。」
10)主に罪を犯す者は滅ぼされ、子孫は断たれる(38節)
 「背く者はことごとく滅ぼされ主に逆らう者の未来は断たれる。」

 神に滅ぼされることは恐ろしいことである。私たちはこのことを思って自ら警戒し、また罪人に警告を与えなければならない。主に罪を赦され、救われた者の道を主は知られ、滅ぼされない。

《主を喜ぶことの力》2016年1月17日 渡邊泰範牧師  

ネヘミヤ記8:9〜12

「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」  
(ネヘミヤ8:10 口語訳)

<はじめに>
 元来、キリスト教は喜びの福音です。救い主がお生まれになった時、「見よ、すべての人に与えられた大いなる喜びを伝える」と天のみ使いは語りました。
 イエス様を信じて救われて父なる神様の恵みが分かりますと、私たちの心の中に大きな喜びがわいてきます。この喜びを体験する人は恵まれたクリスチャンです。

1、事情境遇によらず神を喜ぶ恵み

 人生には喜べない事情境遇が色々と起ってまいります。幸いな日ばかりではありません。そのような試練の中にあっても、クリスチャンは喜ぶことが出来ます。
それは、神ご自身を喜ぶことです。クリスチャンの特権です。
ハバクク3章17節から18節に
「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、
ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。
羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」
(ハバクク3:!7〜18)

 17節には見えるところ全く失望の状況が示されています。ところが、18節の「しかし」は大変、強調する言葉です。
 「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」
何と素晴らしい生涯でしょうか。逆境の中にあっても、神を見上げ、神を信じて喜ぶことが出来るのです。

 神を喜ぶ喜びは聖い喜びです。神を喜ぶ喜びは永遠に続くところの喜びです。神の恵みを想えば思うほど喜びが込み上げてきます。

「私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、
 私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
 ああ、私は床の上であなたを思い出し、
 夜ふけて私はあなたを思います。
 あなたは私の助けでした。
 御翼の陰で、私は喜び歌います。」(詩篇63:5〜7)

この詩は息子アブサロムに反逆されたダビデが、命からがら逃れてユダの所にいた時によんだ詩です。しかし、ダビデは淋しい野にあっても神ご自身を深く思う時、魂は喜びに溢れたのです。

2、主を喜ぶ力の源泉

 喜びの源泉である創造の神、全知全能の神、父なる神はどのようなお方であるか、知らなければ、神を喜ぶことは出来ません。
1)愛である神
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
 愛なる神は独り子をさえも惜しまないで、永遠の滅びに行く私たちを救うために、十字架にかけて下さったのです。それ故、お互いの罪は赦されたのです。
2)慰め主なる神
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」
(競灰螢鵐硲院В粥
 主イエスは聖霊の事を慰め主(助け主)といっています。神様は私たちの中にお宿し下さって、私たちを如何なる悩みの中にあっても慰めに満たして下さいます。
 それ故、神を信じて喜ぶことが出来るのです。

《祝福されたヤコブ》2016年1月10日 渡邊泰範牧師  

創世記32:9〜12,22〜31

「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
(創世記32:26)

<はじめに>
 ヤコブは危機に直面した時、ギレアドの野で独り残って神のみ使いと格闘して祝福された。ヤコブは名の如く「押しのける者」であったが、ヤコブは新しく造り変えられ、『イスラエル』(神の皇太子という意味)という名に変わった。私たちも危機に遭遇した時神に祈り、神に取扱われたい。

1、ヤコブは独り残って神と会った

 25節に「ヤコブは独り後に残った」とありますように、孤独の場でありました。ヤコブは20年間不在であったカナンの地に今帰ろうとしています。
ヤコブはさまざまな陰謀をもって兄エサウの長子の特権を奪ったので、兄の復讐を恐れました。ヤコブはヨルダンの東、ギレアドのヤボクの渡しに来た時、
「あの方(エサウ)もあなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」(6)と、使いから報告を受けた時非常に恐れたのです。
そこで彼はただ独りになって神に祈りました。

 塩屋の神学校のルーツ、B・Fバックストン先生は
「神様と二人だけになりなさい」と言われました。

 私たちも自分自身を神様に新しく造り変えて頂きたいと願うならば、神と二人になって神に明け渡し、神と取り組まなければなりません。その時神はみ言葉を通して語りかけてくださいます。

2、祝福された場所は争いの場

 「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」(24)
神の使者がヤコブのところにやって来て、ヤコブと争い、格闘(別の訳;組打ち)したのです。

 神はヤコブを完全に屈服させて、彼の傲慢と偽善、自己依存を打ち砕こうとしたのです。全能の神ですら、内にあるものを全く打ち砕くことは容易でなく、争いは激しくなっていったのです。

 パウロが言いましたように「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」(ガラテヤ2:19)という場(神体験)に、容易に私たちを近づかせないのです。私たちに危機が迫った時神に祈ることです。

3、祝福の場は屈服の場です

 神よりみ言葉を頂いて、聖(きよ)められ、祝福を受けるには、自らの肉性を神に明け渡す(自らを神の主権に委ねる)事です。
「するとその人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』」(26)とあります。ヤコブは神に執拗に迫って、神と組打ちした時、腿のつがいがはずれました。
ヤコブはもはや神に抵抗をやめて、その人にすがりつきました。彼の傲慢は砕かれ、自ら進んで、自分の敗北を認めました。
ヤコブは神に祝福され、名前が『ヤコブ』(押しのける者という意味)から、『イスラエル』(神の皇太子という意味)に変わりました。ヤコブは神から新しい性質を与えられただけでなく、新しく造り変えられました。

《人生の土台》2016年1月3日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書7章24〜29節

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:24)

<はじめに>
 主イエスは「山上の説教」(クリスチャン像を描く)を終えるにあたり、あなたの人生を岩の上に建てるか、それとも砂の上に建てるか、二者択一を迫られます。私たちの人格も人生も、主イエスの弟子として建てあげられていかなければなりません。

1、創造的な人生

 創造的な人生とは、私たちが神ご自身のご性質に与(あずか)ることです。聖書は神が人をご自身の像(イメージ)に創造されたと記されています。その像は人の罪によって破壊されたもののその跡は残っています。神は創造者なるお方ですから、私たちも創造的な本性に立ち返り、主イエスの十字架の贖罪の恵みに与って神の御心に従って生き、新しく造り上げられていくことです。
 
2、人生の土台の選択、岩の上か砂の上か

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」(7:25)

主イエスは砂の上に家を建てた人を愚かな人と譬(たと)えています。
イエスさまの言葉を聞いても自分に当てはめず、関係ないと自分の思いを優先して生きて行く人のことです。もう一人は、イエスさまの言葉を聞いて行う人を岩の上に建てた賢い人と譬えています。
人生には試練の嵐が襲いかかります。試練は千差万別ですが、死ぬということは、みんな同じです。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
と、記されています。
この二人の建てた家に襲ってきた試練も困難も同じでした。材質、外観、場所、環境、襲った自然災害も相違ありません。違いは、一方は岩を土台とし、他方は砂地を土台としていたことです。

 未曾有の東日本大震災でデイズニーランド近くの浦安では、液状化現象で新築の家が軒並み大きく傾きました。海を埋め立てた造成地区のため土壌が砂地だったからです。

3、人生に決定的なものをもたらす要素

 この譬えに出てくる二種類の人たちは、主イエスのお言葉を聞く機会を平等に与えられていました。しかし、聞いた人は、それぞれ異なる選択をした。その選択が決定的なものになったのです。

 この譬えについて、教会に集う人々にもついても言えます。同じ説教を聞き、同じ聖書を持っていながら各人各様の選択をする。そして、それが人生に決定的なものをもたらすのです。決定的な事とは、一方の家は暴風雨にも立ち続けることが出来るのに、もう一方の家は倒れてしまい、しかも『ひどい倒れ方』(27節)と記されています。

 聖書は全体を通して、すべての選択の中で、主イエス・キリストに対する選択の態度ほど重要なものはありません。
このことは今の世における人生を決定づけるだけでなく、来るべき世における生も決定するのである。
私たちは主の言葉を聞いて、信仰を働かせ、み言葉に服従して行う者となりたい。

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