東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ ■中川伝道所メッセージ

《守られる神》2019年6月30日 渡邊泰範牧師  

詩篇121:1〜8

「主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇121篇8節)

<はじめに>
主なる神を礼拝するため、イスラエルの荒涼とした山を仰ぎながらの旅路は、地上の都上りの歌にとどまることなく、人生航路の歌、“天路の歴程”の歌となりました。行き帰りの旅路を守られるだけでなく、『今よりとこしえまでも守られる。』と、私たちも、この道、一筋に、主に委ねて、歩み行きましょう。

1.わたしの助け天地の創造者
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」(1節)
詩人は懐かしいシオンの山を見上げて、心の中から込み上げるような思いで、天地を造られたイスラエルの神に思いをはせ、歌ったのでしょう。この山とは神殿の建っていたモリヤの山、又は聖きシオンの山を指したと、云われています。これらの山は神の臨在を示してきました。
「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(2節)
巡礼の途上における、険しい小径や淵や谷間、野獣や盗賊の潜む山々を越えての旅の不安や問題のある中で、まさに「私の助け」は「天地を造られた主」から来るのです。
パウロも「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ3:1)と、言われました。
本当の助けは上から、天地を造られた神から来ます。

2.守られる神はまどろむことがない
「見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」(4節)
私たちが困難や危険に遭遇する時、神は私たちを益とするため、善に導くため必要な悩みを与える時がある。
しかし、決して私たちを全く害うことを、許し給わない神の守りをここで詩っています。
詩人は六度も繰り返して「主は、あなたを守る方。」(5節)と告白して信仰に立っています。
すべて神の保護の下に己をおく者は、神の無限の智恵と能力に守られて、旅路における不安解消の秘訣(神の臨在の実感)を得ているのです。
「見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」(4節)
神はまどろむこともなく、寝ずの番をしてくださす。私たちは無防備で眠り込むことがしばしばあります。そんなときにも神は、休むことなく守っていて下さるのです。

3.とこしえまでも守られる神
「主はすべてのわざわいからあなたを守りあなたのたましいを守られる。主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇121篇7〜8節)
礼拝の旅路を守られる主は全ての災いより救い、守って下さるのです。神は特に我らの霊魂を保護して、罪と汚れと永遠の滅亡より守って下さるのです。
現在も、将来も、天の故郷(ふるさと)に帰る日まで守って下さる主を信じ、主を仰ぎ望みましょう。

《罪の赦しと聖め》2019年6月23日 渡邊泰範牧師  

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「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(競灰螢鵐硲機В横院

<はじめに>
 クリスチャンとなった者が必ず通される、心に挑んでくる、内住の罪との戦い、そして信仰により、聖霊の働きによる罪からの解放、即ち、あなたの罪はすでに十字架の血潮によって赦されているという、「罪の赦しの確信」「罪の聖め」の信仰に立ち、導かれて行きましょう。

1、罪の赦しの確信
「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)  クリスチャンの喜びは罪が赦され、罪なきものと宣告される義認信仰から来ます。
「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」(ローマ5:1〜2)
信仰によって神に義とされ、神と和らぎを得て、神と親しく交われば、当然、クリスチャンには喜びが湧いてきます。
クリスチャンは救いの基礎であり、土台である、神に義とされた信仰に立ち続けることです。
罪が赦されるということは、過去の一切の罪を棒引きしていただくことです。
義とされることとは、罪を犯さなかった以前に戻していただき、無罪と宣言、宣告されることです。 
私たちは、ときどき悪魔にそそのかされ、古い罪を思い出し神にもう一度赦して下さいと祈るが、神の方ではそんな罪があったかと、まるでなかったかのように赦されているのです。
人間は自分の罪、他人の罪を忘れないものであるが、神のほうでは全く罪なき者と下さるのです。
クリスチャンは救われたと証ししますが、信仰によって義とされる恵みであります。
義認の恵みは聖化;聖め(きよめ)の恵み、栄化の恵みに成長して行くのです。

2、罪の聖め
「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(汽茱魯唯院В掘
このみ言葉は、イエスの血は罪から聖めてくださると、「聖め」すなわち、心の中に生じる罪、「原罪」から聖めると、言っているのです。
「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。」(ローマ7:19〜20)
パウロはこの心に内住する罪からの開放、即ち「罪からの聖め」を願い、苦しんでいるのです。
聖めの恵みを受けるには、第一ヨハネの1章9節に述べられているように、罪を告白し、罪を悔いて、神の光の前にでるとき、聖霊によって「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」と宣言してくださるのです。

《成し遂げて下さる神》2019年6月16日 渡邊泰範牧師  

詩篇37:1〜6

「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:4、5節)

<はじめに>
 愛読している詩篇37篇はクリスチャン人生の教訓がちりばめています。「若かったころも年老いた今も私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを。」(25)この回想より、ダビデの晩年の作と想われます。
 詩篇37篇は、義人(主の救いに与った人)が今は艱難と窮乏の中にあるが、やがて国を継ぐべき者なので、悪人の繁栄しているのを見て、ねたんだり憤慨したりしてはならない事を教えています。

1、成し遂げて下さる神
あなたの「道」とは、重荷や心配をも含めた身の成り行きのことです。それら一切を、主に委ねることの勧めです。
いつでも私たちの荷を負ってくださる優しい主イエスに任せ、主と共に歩むことです。
将来の人生計画を主に委ね、主ご自身を喜びとし、主に信頼するとき、主は成し遂げてくださるのです。

2、全生涯を守られる主
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23:1)
 ダビデが無情な義父サウル王の仕打ちも、非常の実子アブサロムの仕業に遭っても、『主は私の牧者』
と賛美したように、私たちも一時の試練に負けてはなりません。
 「主は全生涯を守ってあげる」と、若き、悩みの時、私に約束された主のお言葉は真実で、聖霊が働いて、「成し遂げて下さる事」を今も信じています。
 皆様が経済の困難に、体の弱さで悩みがありますか。主ご自身を喜びとし、主に信頼し、委ねる時、主は成し遂げてくださるのです。
 最も、試練のさなかにある時、「いつまでですか」と、主に祈り迫ることもあるでしょう。
 聖徒たちの義はそのまま埋もれてしまうようなことはなく、その光は必ず立ち現れるのです。
 「主はあなたの義を光のようにあなたの正しさを真昼のように輝かされる。」(詩篇37:6)
 いつでも、快く背負ってくださる主のご慈愛とそれを負いきる主の能力を信頼しましょう。 

3、成し遂げてくださる能力なるキリスト
「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)
パウロはいかなる環境の中にあっても、一切の秘訣を心得ていますと、主なるキリストの能力(ちから)を強調しています。
「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(4:19)
私の神であるキリスト・イエスに全面、お頼りする秘訣は、第一に私たちの自己絶望、無能にあります。 
そこに大能の主なるイエスの業が私たちに成就するのです。聖霊の働き、聖霊の恵みに与かりましょう。

《新しく造られる恵み》2019年6月9日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ3:1〜21

「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」(ヨハネ3:3)

<はじめに>
 夜、訪ねて来られた、ニコデモと主イエスとの対話は、新約聖書の中でも最も重要な対話です。ニコデモはイスラエルの宗教的な指導者でした。主イエスは彼の願望を知って「新しく生まれ変わる事とは、キリストを信じ聖霊による」と言われた。 

1、聖霊の働きによる新生の恵み
誰でも、人間的な努力で新しく造り変えられることは難しい。新生の恵みは神を受け入れて、心に主を宿すことにより、与えられる聖霊の恵みです。
それでも多くの人は努力したら何とかなると想っており、努力することが宗教とさえ考える人が少なくありません。
「新しく生まれる」とは人が罪を悔い改め、キリストの贖いの十字架による罪の赦しを信じ、真のクリスチャンになる時、心と性質が全く変化させられることなのです。
人を造りかえることが出来るのは、ただ神のみであります。神の力、聖霊の働きによって、神から来られた神の御子、イエス・キリストを信ずることによって与えられるのです。

2、水と御霊によって『新たに生まれる』
 「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。』」(5節)  
「水」とは、バプテスマのヨハネをもって代表される悔い改めと罪の赦しを意味します。
「御霊によって生まれる」とは、キリストを信じることにより聖霊が注がれ新しい生命(いのち)を獲得することを意味します。
 全ての人は、主イエスによって語られる神の言葉を信じることによって、人は新しく生まれる事ができるのです。神の恵みによるのであって、人間の努力ではありません。
「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、
それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:7、8)

主イエスは聖霊の働きをわかり易く「風」に例えられました。人の目には見えなくても、その働きが分かるかです。

3、信仰によって『新たに生まれる』
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
 新生の秘訣はこれです。「自分は罪の猛毒におかされた死ぬべき罪人であると認めることです。そして、十字架の主は、私に代わって呪われた青銅の蛇なる救い主であると信じて仰ぐことです。」十字架!ここに独り子をお与えになったほどの神の愛が現れています。

《天を慕う生涯》2019年6月2日 渡邊泰範牧師  

ヘブル11:13〜16

「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。」(ヘブル11:16)

<はじめに>
エノクは神と共に300年間歩んで、死を見ない
で天に移されました。それは罪の贖い主なるキリストの救いに与った私たちも、やがて終わりの日に、天に携えあげられ、主のみ顔を見て、いつまでも主と共に居ることの約束を表しています。
アブラハムは生涯、地上では旅人(寄留者)として、天幕生活を送り、信仰によりさらに勝れたる天の故郷(ふるさと)を慕い求めました。アブラハムに学び、私たちも天を慕い求めましょう。

1、アブラハムは天の故郷を慕った
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」(16節)
 アブラハムは神の召しに従って、家も家族とも離れ、行く先も知らないで出て行きました。
「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」(ヘブル11:8)
アブラハムはカルデアのウルで、父テラと過ごしていましたが神の召しに従って、家も家族とも離れ、行く先も知らないで出て行ったのです。神は約束の地、カナンにアブラハムを導かれました。
私たちはどうでしょう。私が若い時に神の働き人として召し出され、そして長い月日のあとフルタイムで主の御用に立った時、愛する家続とも別れ、懐かしい葛飾柴又を離れ、塩屋(神戸)の神学校に向かいました。
その年の秋、母は20年の信仰生涯を送って、天に召されました。塩屋を卒業して、今度は全く未知の地方に神は導かれました。

2、アブラハムは天を望む生涯であった
「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私のところから移して、葬ることができます。」(創世記23:4)
 アブラハムは寄留者(仮住まい)、旅人として、天幕生活をしながら、祭壇を築き、神を礼拝しながら旅をしました。
 クリスチャンにとってこの世は仮住まいの者です。

3、天を慕う者は主を愛する人(証し;祈りの回答)
 「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか」(詩篇 73:25新共同訳)
キリストの救いに与かって、クリスチャン生涯の旅をスタートして間もなく、死を見ないで、天に移されたエノクの信仰に魅せられた。
それは、“天を慕う生涯”に導かれた。20代後半、日本ケズウイック・コンベンション聖会に参加する時、
『主よ、私には未だ真に天を慕う心がありません。何が問題なのでしょうか?』と切にお祈りをしました。
すると、主は即座に祈りに応答して下さった。
『あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。』(ヨハネ21:15)と、神の細き声に心が探られた。
 そうすると、主のみこころが拓かれ、『あっ、そうだ! 天を慕う生涯とは、地上で絶えず主を愛し、お従いしていくことだ!』と主の単純明快なご回答に主をおそれながらも、心に深い喜びが湧き上がった。

《福音の純粋性》2019年5月26日 渡邊泰範牧師  

ガラテヤ1:1〜12

「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって」(ガラテヤ1:1)

1、福音の純粋性
 ガラテヤ1章前半は福音の純粋性を力説している。福音とはイエス・キリストの死とよみがえりである。ローマ書と共に福音の大文字と言われる本書にふさわしい、死と甦り(よみがえり)、十字架と聖霊の働きこそは福音である。コリント前書15章には死と葬りと甦りと顕現が最も大切な福音の要旨であると、分かりやすく説明している。
 「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子(キリスト・イエス)のしもべ、に関するものです。」
(ローマ1:2〜3)
 ローマ書の序文には『この福音は我らの主イエス・キリストなり』(文語体)と,キリスト教の福音は“生けるキリストご自身”そのものなのです。
 キリスト教が衰えていると嘆くより、いつでも、私たちは厳然として不変である初めからのもの、キリストご自身の福音に立ち、帰りたい。
 使徒パウロはこの福音を伝えるため、“キリストによって、選び出され、召し出された”と証ししている。(ローマ1:1)
 宣教に召し出された、神の使徒の純粋性を述べています。
 
2、福音を語る働き者の純粋性
 ガラテヤ書には、十字架による自我の磔殺(たくさつ;古き私は十字架と共に死んだこと)によって、
内なるキリストを宿し、新創造(キリストの聖霊によって新しく造られていくこと)となることが記されている。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:19、20)
私たちの心の内には神のことば、すなわち栄光の望みなるキリストを持ち、宣教の目的である、キリストを宣べ伝えるのである。
 私たち、働き人は力を尽くして教え戒め、すべての人を神の前に立たしめるのが目標であります。(コロサイ1:27〜28)
 これは働き人の純粋性が示されている。
「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ1:29)

 『私たちは神と共に働く者』神の同労者であります。

3、一本の聖めの白い線
 ある人が「日本伝道隊の神学校(現在の関西聖書神学校)は日本で一番良い神学校ですからどうぞお祈り下さい。」といわれた。その時、“一本の聖め(ホーリネス)の白い線”という言葉が出たと聞いて、小島伊助先生は事実、本質的に(一番という事ではなく)それでなければ、存在の意義がないと、語られた。

《仕える者になりなさい》2019年5月12日 渡邊泰範牧師  

ルカ22:26

「しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。・・わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。」(ルカ22:26、27)

<はじめに>
 イエス・キリストのご生涯から謙遜を学びたい。主イエスは天における神の御子として、地上における人の子としても、父なる神に服従し、当然受けるべき誉と栄光を、父なる神にすべてお捧げしたのです。主イエスがたびたび教えられたお言葉、
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(ルカ18:14) 
このことは、イエスご自身の生涯において、真実となったのです。
「それゆえ神は、この方(イエス)を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」
(ピリピ2:9)
 私たちもキリストに倣って“謙遜の祈り”をしましょう。
 『父なる神よ、あなたのみ旨により、あらゆる高ぶりを、私に知らしめ、取って下さるように。そして神があなた方の内に深い謙遜の真理(深い主の光に与かり、聖霊に満たされること)に目ざめさせて下さるように。』(アンドリュウ・マーレー)
 
1、イエスのご生涯における謙遜
 「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」(ヨハネ14:24)
 このお言葉は、私たちにキリストのご生涯とみわざの最も深い根源を表すものです。
全能なる神がキリスト、キリストを通してご自分の力強いあがないのみ業を成すことが出来たのは、どのようにしてであったかを語っています。
 すなわち、神がすべてであられるために、主は無きに等しい者であられたという事です。
 主イエスは、父なる神が内にお働きになるために、ご自身の意志を、ご自身の力を全面的に明け渡しておられたのです。
 キリストは、父なる神のみ心に対する全き服従により、神はその信頼をよしとされ、彼のためにすべての事をなし、そしてイエスを高くあげて栄光のうちにご自身の右に座せしめられました。(ピリピ2:9)

2、主のご謙遜に倣う
 主は最後の晩餐で、弟子たちの前で、僕(しもべ)となり、仕える者となり、模範を示されました。
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」
(ヨハネ13:15)
 愛する主に倣いたい者は、他の何者であるより、先ず主が私のすべてとなり、自らは何者でもないことを教えられることです。
ここに真の謙遜の根源があり、本質があります。私たちの謙遜が極めて皮相的であり、弱々しいのは、神の恩寵に満たされていないからです。
 すべてをなさるのは神であること、これに対して私たちの取るべき態度は、自分から何者になろうか、何事かをしようかといった事を、一切しないことです。
自らを神に全く明け渡し、お従いすることです。 
このことを成就して下さるのは、聖霊の恵みです。私たちの内に住み給う、 内住のキリストです。

《死の陰の谷を歩むとも》2019年5月7日 渡邊泰範牧師  

詩篇23:4節

「たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」(詩篇23:4)

<はじめに>

この詩篇23篇1節は「エホバはわが牧者なり。われ乏しきことあらじ。」と、文語訳で親しまれてきました。多くの聖徒は臨終間際にもこの詩篇を愛唱して天に召されて往きました。C・Hスポルジョンはこの詩篇23篇を「天国の田園詩(heavenly pastral)」と呼びました。

また、「小鳥の中のナイチンゲールに相当するものだ。」と言っています。
泣いて夜を過ごす多くの悲しむ者の耳に、この詩篇は心地よく響いて、希望を与え、喜びの朝を迎えさせてくださるからです。
 天国の牧歌と言われるこの詩篇23篇は、『主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。』と、人は神によって罪が赦され、新しく造り変えられてなければ唱えることは出来ません。
 イエス様は羊飼いで、私たち一人一人は迷いやすい羊です。『主は私の羊飼い』と、言えるのは主が贖い主となって、私たちの罪を赦し、神の子として、全(すべ)ての生涯を導きくださるからです。

1、死の陰の谷を歩むとは
 そういうわけで、臨終の時は「死の谷」ではなく、「死の陰の谷」なのです。死はその本質を取り除かれ、死の陰だけが残っているからです。
 主が復活したように、死んでも『よみがえりの恵み』に与かっているからです。
死とは、私たちクリスチャンが人生という旅をして行く時、その道筋のかたわらに立っているような存在です。死は一通過点にすぎません。
 天の光が死の上を照らし、私たちの人生の道筋に陰を投げかけているだけです。
背後に光が存在していることを喜びましょう。
死の陰は私たちを滅ぼすことは出来ません。そうですから、恐れないようにしましょう。
『たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。』
 魂が悲しみでいっぱいになる時も主は元気づけられます。主は心身の回復を与え、休息の喜びを与えてくださいます。魂が罪に汚れる時、主はそれを潔められます。『あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。』義なる神は懇ろに導かれます。

2、主はすべての恐れを取り除いてくださる
「たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」(詩篇23:4)
筆舌に尽くしがたい喜びを与えるこの聖句は、死の床に臥す多くの人々に口ずさまれ、暗く落ち込んだ心を明るくする力となってきました。
私たちが弱っているとき、『主が共にいて守ってあげるよ』と慰めてくださるのです。
クリスチャンの晩年は、生涯全体で最も平安な時であることが非常に多いのです。
それまでの生涯で得たものよりも多くの喜びと主の知識を獲得してきたからです。人生の暴風雨に遭っても、私たちの愛する主なるキリストがいと近くおられますので、恐れることはありません。
臨終近くなった聖徒を、主の導きを得て、たびたび訪問してきました。甦りの信仰が与えられて、共に賛美して別れたことが多いことでした。

《お言葉を聞き行う者》2019年4月28日 渡邊泰範牧師  

マタイ7:24〜29

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(マタイ7:24)

<はじめに>
 主イエスは「山上の説教」を終えるにあたり、
私たちに、尊い人生の選択を迫ります。人生は建築であると言われます。誰もが一回限りの人生を歩んでいます。人に代わってもらうわけにはゆきません。

 尊い人生の選択とは、イエス・キリストのお言葉と、私たちの想いのどちらを選ぶかという事です。
 イエスさまが語られる時、必ず二つのタイプがあります。ここでは賢い人と愚かな人です。
 主が権威をもって、語られた結果、人はいずれかに選別されます。   
 一人は、イエスさまのお言葉を聞いても、自分に当てはめず、関係ないと、聞きっぱなしの人です。
 もう一人はイエスさまのお言葉を聞いて行う人です。
 この二種類の人が家を建てましたと、イエスは分かりやすく、幼子に視聴覚教育を以て、教えるように、一人は地面を深く掘り、岩の上に自分の家を建てました。もう一人は砂の上に建てましたと、絵に描いたように話されます。
人生には試練の嵐が襲いかかります。平成の年も多くの大地震、洪水が押し寄せ、多くの人が犠牲となりました。その悲しみは今もぬぐえません。
受ける災難、試練は千差万別ですが、人は誰でも一度死ぬと言うことは、みんな同じです。
 「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
この二人の建てた家に襲ってきた、試練も困難も同じでした。材質、外観、場所、環境、襲った自然災害も相違なかったのです。
 違いは、一方は岩を土台とし、他方は砂地を土台したことです。
 「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」(7:25)
 東日本大震災で、関東も甚大な被害をこうむりました。家から15キロ余り、離れたウオルト・デイズニーランド近くの浦安では、液状化現象で新築の家が、軒並み大きく傾きました。それは、海を埋め立てた造成地区のため、土台が砂地だったからです。

◆ おことばを聞いて、行う者と行わない者との違い
人生の試練の日に違いは明るみに出るのです。
一方は、それでも倒れませんでした。もう一方はひどい倒れ方なのです。
それは、この世限りのものと、主の救いを受け入れ、信じて、永遠のいのちに与かっているものとの違いです。
創造主なる神の愛を一杯頂きながら、神を無視した人生は悲しいものです。
 これらの事は、教会に集う人々にも言えると、ジョージ・B・ダンカン(ケズウイック コンベンション講師)は適用しています。
 「同じ教会に出席し、同じ説教を聞き、同じ聖書を持っていながら、各人、各様の選択をします。そして、それが人生に決定的なものをもたらすのです。」
 聖書は全体を通して、すべての選択の中で、主イエス・キリストに対する選択の態度ほど重要なものはないと強調しています。

《復活のキリスト》2019年4月21日 渡邊泰範牧師  

使徒行伝1:3

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」(ヨハネ11:25)

<はじめに>
死んでも生きる。世に、これ以上の福音はありません。私たちは、主が私たちの罪のために十字架にかかられたことを喜びます。しかし、一番喜ばしいことは、主が私たちのために甦られたことです。
主が甦ったことにより、死が滅ぼされ、神のみ国が開かれたのです。

1.死から甦ったキリスト
「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」(コリント第一の手紙15章3、4節)

この聖書の箇所ほど、誰にも分かるように、簡潔にキリスト教の福音の真理を記しているところはないと想います。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」(ローマ6章4節)
主を信ずることにより、自分の考えで生きてきた古き私たちは死んで、新しい命に与ったのです。

2.甦ったキリストは誰に現れたか 
『聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、・・ケファに現れ、・・十二弟子に現れ・・その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れ・・その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れ・・そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。』(汽灰螢鵐硲隠機В粥腺言瓠

イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを四十日にわたって彼らに現れ、最後にコリントの手紙の作者、パウロ自身に復活の主が現れたことを、貴重な文献のように記していることに感謝しています。
実は、甦った生けるキリストは、今も信ずる者に現れるのです。
「あなたの全生涯を導き、守って下さる!」と、主が直接、私にも現れて語り下さり、『主の臨在の恵み』に与かった経験は今も鮮やかです。

3、主を見ずして信ずる者は幸いなり
「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)

私たちは甦られた主を目で見ることは出来ませんが、主は弟子、トマスに『見ないで信じる人たちは幸いです。』と言われました。
甦ったイエスが弟子たちに現れた時、トマスは彼らと一緒にいなかったからです。
八日後、主イエスは甦った事を信じなかったトマスに現れました。彼は主を礼拝し、信じました。何という主のご愛でしょうか。

「『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスはイエスに答えた。『私の主、私の神よ。』」(ヨハネ20:27〜28)

《受難のキリスト》2019年4月14日 渡邊泰範牧師  

イザヤ53:1〜12

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。」(イザヤ53:5)

<はじめに>
イザヤ書はイザヤとは「主の救い」という意味の如く、極めて福音的です。特にこのイザヤ書52章13節から53章12節は「しもべの歌」と呼ばれ、新約聖書以上にメシヤなる、イエス・キリストの贖罪死(私たちの罪を赦すために、キリストが身代わりとなって、私たちの罪の罰を受けて十字架にかかって死んだこと。)について明らかに述べています。

◆受難のキリストと人の不信仰
『私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。』(イザヤ53:1)

イザヤの内にいます聖霊はここに嘆き訴えられます。多くの預言者たちが、今に至るまでしばしば宣べ伝えてきたこの救い主、イエスを人々は信じなかった。
受難週にキリストの苦しみを覚えることは大変恵まれます。私たちが尊い救いに与った感謝がこみ上げてきます。
私たちがこの主のご愛に応えて、主のみ旨にお従いして行く時、主が受けられた苦しみは力となり、慰めとなります。
『彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。

彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。』(イザヤ53:2〜3)

主のしもべ、イエス・キリストは人々が想像していたように天より栄光をもって降臨されないで、芽生えのように柔らかに、弱々しい赤子として一人の婦人のお腹からお生まれになりました。
“ひこばえ”とは若枝(わかえだ)のことで、古木の幹から柔らかい若枝がひょっこり出てくることをいいます。ユダヤは一旦、切り倒され、ローマの属国となりましたが、民はひこばえ(樹株)のようにそこに残っていて、悲哀の人、イエスはダビデの裔より生まれた事を示しています。

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。』(イザヤ53:4)

まことにキリストはご自身の罪の結果として、このような状態になられたのではなく、全く私たちの罪のために苦しみを受けられたのです。
その苦しみは私たちの肉体の病いと患いまでも引き受け、癒されました。
しかし、ユダヤ人はイエス・キリストを、律法を破る者、神を汚す者、国を乱す者とした。ああ、私たちは盲者であり、嘆かざるを得ない。
受難のキリストの苦しみに与るには、キリストの如く、神に叩かれ、捨てられ、人々に十字架にかかった意味をさえ、全く理解されず、誤解される思いに浸ることです。
すなわち、キリストのように迫害され、誤解され、一言も弁護しない経験をする時、聖霊はあなたの心にキリスト像を鮮やかに映し出します。そして聖霊によりキリストの愛に満たしてくださいます。

『彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。』(53:7)

《明日のこともわからぬ生命》2019年4月7日 渡邊泰範牧師  

ヤコブの手紙4:13〜17

「あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」(ヤコブ4:14)

先週の4月3日(水)の東京若枝教会の祈祷会から帰宅した時、家内が「驚かないで下さい。いましがた範子(私の妹)さんが心筋梗塞で亡くなりました。」と言われ、哀惜の念に絶えなくなりました。

1.人のいのちは霧のように消えて行く 妹の突然の死をとおして、主イエスが語るメッセージを静かに深く想いました。

『自分のいのちのことで心配したり・・あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。』(マタイ6:25〜27山上の説教より)

有名な宗教改革家マルチン・ルーテルはある時、友達と一緒に歩いていると、雷が落ちて、友達が即死しました。
その厳かなことがルーテルの心を非常に動かし、人間の生命(いのち)というものは何と儚いものであるか真剣に考えました。
そしてルーテルは、修道院に駆け込んで、「どうしたら私は救われるだろうか。どうしたら永遠の命を頂く事が出来るであろうか。どうしたら神の恵みに、主の救いに与かる事が出来るであろうか。どうしたら死から救われ、永遠の命を得ることができるであろうか」と真剣に考えるようになりました。

そして、ルーテルは「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)という聖書のみ言葉によって本当の解決を得たのです。
永遠の命、主の救いに与かるには、行いではなく、信仰によって、救われることを知ったのです。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ3:16)
主なる、全能の神さまが分かった人は、神の前にへりくだって、神さまのみ心ならこのことをしようと、教えられるのです。
「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」(ヤコブ4:15)

人生はやがて消えて行く霧にすぎないからです。

2、復活の希望があります

私たちは日々、忙しい生活を送っていますと、「自分の命がどうなるのか」という厳かな、最も大切な問題に対して一生懸命、真剣に考えようとしません。
そこで、神さまは「よく考えなさい。あなた方の命がどうなるのか」と言われるのです。ダビデは神さまだけがお頼りすべきお方であると分かりました時、自分の罪が示されてきました。
「私のすべての背きから私を助け出してください。私を愚か者のそしりの的としないでください。」 (詩編39編8節)

お互い、イエスの十字架を仰ぎ見て、私の救い主と、信じる時、自分の罪は赦され、永遠の命が与えられます。そして、イエスさまが死から甦ったように、私たちも復活の望みが与えられております。死んでも天国に行けるのです。私たちは明日のことも分からない身なのです。神さまに望みを置きましょう。

《喜べ、祈れ、感謝せよ》2019年3月31日 渡邊泰範牧師  

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「「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 すべてのことにおいて感謝しなさい。」(汽謄汽蹈縫隠機В隠供腺隠検

この聖句がクリスチャンの愛唱聖句であると同時に、主が願っているクリスチャンの聖められた姿です。「キリスト・イエスに在って」とありますから、イエス様と親しく、交わって、いつも祈り、主のみ心を知り、魂に喜びをを得ていると、如何なる時も主に感謝な生活が出来るのです。

1、常に喜べ

♪“やすけさは川のごとく”聖歌493番の作詞者、ホレイシオ・スパフォードは莫大な財産を持つシカゴの名士であり、だれからも尊敬される熱心なクリスチャンでした。
しかし、そんな彼を、理不尽な苦難が次々と襲いました。息子の病死。シカゴ大火災による財産の喪失。スパフォードは、現代のヨブのようでした。 「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)

苦難はこれで終わらず、彼は、1873年、一足先に英国に向かった妻アンナから一通の電報が届きました。そこには、たったひとこと。“Saved Alone”(一人だけ生き残りました)妻と娘たちを乗せた船が海難事故で沈没。アンナは奇跡的に救助されたが、4人の娘は、冷たい海に呑み込まれてしまいました。

しかし、その苦難の中で、スパフォードは神の約束の光を見ました。

それは、「娘たちとは、やがて天国で再会することができる!」という希望でした。
こうして、不朽の名作「やすけさは川のごとく」が誕生したのです。
悲しみの多い人生にとって、常に喜ぶとは何でしょうか。ダビデは主に申しました。

「わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇40:8) 私たちの恒久的な喜びとは、主のみ心を行う事です。主イエスこそ、み父のみ心に従い、それを喜びとし、楽しみとしたのです。

2、絶えず祈れ 祈りとは、三位一体の神と神によって造られた人間との人格的交わりであり、神のかたちに創造された人間の本質的、生命的な行為です。

祈りは、キリスト者にとって最高の特権であり、喜びです。また、キリスト者の最大の義務であり、重荷です。
私たちの信ずる神は生ける神なので、私たちが祈る祈りに主なる、全能なる神はキリストのとりなし(私たちの罪を赦し、生ける神との交わりを快復した和解者)によって、祈りは応えられるのです。
如何なる時にも祈れるクリスチャンは、主は私たちの歩みを、み言葉を以て、み心を示し、導かれるからです。
主の絶えなる臨在の導きこそ、祈りの秘訣であり、祈りの楽しさです。

3、凡ての事を感謝せよ 「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(汽謄汽蹈縫隠機В隠検
凡てのことを感謝の出来るクリスチャンは、主に在って、絶えず救われている事を喜び、主と共に歩み、絶えず祈る人こそ、感謝の生活が出来るのです。

《あなたの道を主にゆだねよ》2019年3月24日 渡邊泰範牧師  

詩篇37:5

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)

<はじめに>
 人生の計画を主に委ね、主に信頼するとき、主は成し遂げてくださると、詩篇の記者は経験を述べています。本編は、義人(主の救いに与った人)が今は艱難と窮乏の中にあるが、やがて国を継ぐべき者であるから、悪人の繁栄しているのを見て、ねたんだり憤慨したりしてはならない事を教えています。

1、あなたの道を主に委ねよ(主の大いなる教訓) あなたの重荷や心配をも含めた身の成り行き、一切の道を主に委ね、主に信頼する時、主があなたの願いを成し遂げてくださる。主の戒めに従う時、祝福されます。

悪を行う者に腹を立てるな。(1節始;心を悩ますな。口語訳)
不正を行う者にねたみを起こすな。(1節終)
主に信頼し善を行え。(3節)
主を喜べ。(4節)「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
主に委ねよ。(5節)『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』
主を待ち望め(7節)「主の前に静まり耐え忍んで主を待て。その道が栄えている者や悪意を遂げようとする者に腹を立てるな。」
憤りを捨てよ(8節)「怒ることをやめ憤りを捨てよ。」

2、救いと滅び 滅ぼされることは恐ろしいことです。私たちはこのことを思って自ら警戒し、神に敵対する人に警告を与えなければならない。

草のように衰え(2節)「彼らは草のようにたちまちしおれ青草のように枯れるのだから。」
悪は断ち滅ぼされ(9節)「悪を行う者は断ち切られ、主を待ち望む者彼らが地を受け継ぐからだ。」
悪しき者は暫くして消え去る(10節)「もうしばらくで悪しき者はいなくなる。」
悪しき者は滅びる(20節)「しかし悪しき者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消え失せる。」
人の歩みは主によって確かにされる(23節) 『主はその人の道を喜ばれる。』
悪しき者の子孫は滅ぶ(28節)「主は義を愛し主にある敬虔な人をお見捨てにならない。・・悪しき者どもの子孫は断ち切られる。」
主に背く者はことごとく滅ぼされる(38節)

3、人の歩みは主によって定まる 「主によって人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」(詩篇37:23)
人の歩みは何とも定まりのない千鳥足のようです。主によって導かれ、確かにされなければ、到底、聖なる目的地に近づくことは出来ません。

あなたの道を主に委ね、主に信頼して行くとき、主はみ心を成し遂げてくださるのです。 私たちが共に歩んでくださる主の手に導かれるとき、人の歩みは確かにされます。そのように歩む者を主は喜んでくださるのです。 「その人は転んでも倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。」(詩篇37:24)聖徒も、つまずいて倒れることがあります。けれども、起きあがれないほど倒れ伏すことはないのです。

《今あるのは神の恵み》2019年3月17日 渡邊泰範牧師  

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「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、」(第一コリント15章3〜4節)

<はじめに>
聖徒パウロは福音とは、「十字架と復活だと力説しています。」 殉教、真近に迫ったパウロは復活の主イエスに会ったことをアグリッパ王に証しをしています。この恵みこそ奉仕の原動力です。

1、十字架と復活こそ福音の真理

 『私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。』とパウロは単純、明快に言われる。
 キリスト教の福音の真理は「十字架と復活」です。
私たちの罪が赦されるだけでなく、主イエスが復活したごとく、私たちの死ぬべき肉体が、二度と死なない(朽ちない)体によみがえるのです。
 「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」
(第一ペテロ1:3)
 主の弟子ペテロは私たちも復活の恵みに与かることを「生ける望みを持つ」と、言われました。

2、パウロは復活のキリストに出会った

 パウロはキリストの弟子たちを迫害している時、復活の主イエスに会った。それからキリストの証人となりました。
「彼が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」(使徒行伝9:5)
 「主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」
(使徒行伝9:15)
 パウロは復活のキリストは誰に現れたか記している。ケパに現われ、それから十二弟子に現われ、その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現われ、・・そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)にも、現われてくださったと、何回も証しをしています。
 生ける主イエスは私たちにも現れたのです。

3、今あるのは神の恵み

 「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」(汽灰螢鵐硲隠機В隠亜
 神の恵みとは、愛を受ける値打ちのない者に対して、神様が愛を傾けて、愛して下さることです。何の功(いさお)のない者に、愛して下さることなのです。
私は心の渇きから、真実と清さを求めていた、高校3年の秋、一枚のキリスト教の講演会のビラを入手して、集会に出かけて、キリストに出会った。
 その集会で、初めて神様は私のすべてを知っていて下さることを知り、心が神様の愛に包まれました。 
“♪いつくしみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて、あわれむ”この素晴らしい賛美を知り、心から歌ったのです。

《聖霊の宮なる体》2019年3月10日 渡邊泰範牧師  

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「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(汽灰螢鵐硲供В隠后

<はじめに>
 肉体は聖霊の宮なのです。元来、身体はあなた方のものではないのです。多くの人は肉体の意味をここまで知らないために、自分の思いのままに扱っているのです。コリントの町は不道徳な町でしたので、教会の中にもいかがわしい者もいるほどでした。

1、人は霊と体を備えています

 神は私たちに肉体を与えると共に、魂をも備えられました。これは人間が万物の霊長とあると言われるゆえんです。
 私たち人間は考える力、知る力をもっています。これは私たちの霊性に属する部分で、意識する力です。霊は見えない世界を意識し、又これを愛します。神を知り、神と交わり、また神の生命(いのち)を与えられるのもこの霊です。
 主イエス様が私たちの身代わりとなって十字架に磔(つ)けられ、すべての罪を赦して下さったことは、魂を聖めて下さるだけではなく、体をもきよめて下さったのです。
パウロは全き聖めについて祈っています。
 「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」
(汽謄汽蹈縫 5:23)

2、聖霊の宮なる体

 コリントは当時の世界中で最も不道徳な町であり、不潔はその極に達していました。淫らな行いは、キリスト者の中にさえも入りこんできたのです。
 そこでパウロはコリントの信者に、『あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮である』ことを、『知らないのですか』と諭しています。
 もし、このことを信じ、自覚したら、二度と身体を汚すことをしなくなるでしょう。神の宮は神聖であり、自分の体は神の宮であり、これを清く保たねばならないと思うでしょう。
 神が求めておられることは、自分の体がどんなに神聖なものであるかを周囲に示すことです。

3、私たちの肢体を神にささげなさい

 「また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」
(ロ−マ 6:13)
 私たちの肢体は武器として戦いのためにあります。私たちがこの世界におる間は戦いであり、この世界には戦いが絶えないのです。真実と偽りの間に、聖きと罪の間に、神とサタンとの間に戦いがあるのです。
 これは大戦争であり、終わることがないし、どこの国にも、どんな生活にもあります。
 そこでパウロは私たちの肢体は「武器」であると教えています。そこでパウロは『あなたがたの手足を不義の道具(武器;口語訳)として罪に献げてはいけません。』と警告しています。
 決して悪魔にそれを用いさせて、私たちの内に宿る聖霊を憂えしめてはならないのです。

《苦難も伴うキリスト者》2019年3月3日 渡邊泰範牧師  

ヨハネ16:25〜33

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

<はじめに>
キリスト者は必ず戦いがあることを覚えなければなりません。キリストの福音を信じて、栄光の御国に入るまで、私たちは自己中心の世から選び出されたので、世は福音に反抗するのです。しかし、信じて、主を愛する者に住まわれる、慰め主なる聖霊の力によって、絶えず勝利を与えられるのです。

1、クリスチャンには苦難が伴う
 「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、『私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない』と語った。」(使徒14:22)
 私にこのお言葉が深く臨んだのは、塩屋の聖書神学校1年生の時でした。実習先の教会の奉仕中、脚立が外れて、腰を強打し、生涯、バンドを占めるようになりました。
しかし、慰め主なる聖霊は、『私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない』と語ってくれたのです。
 
2、苦難をも喜ぶ

1)苦難を喜び、練られた品性を生み出す
「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」(ロ―マ5:3〜4)
世に勝利するクリスチャンの特徴は『苦難をも喜ぶ』ことです。
聖め(きよめ)に関する有力な書物、『心の潔き者』(サンダース著;英国)があります。著名な聖徒たちの生涯を研究した結果、到達した結論は真実なる聖徒の特色の一つは「喜びに満ちていること」でありましたと、ポウロ・リースが紹介しています。

2)キリストと共に受ける苦難と栄光
「私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ロ―マ8:17〜18)
 聖め(聖化)の結論は栄化の恵みです。キリストと苦難を共にする私たちにキリストと栄光を共にする朝が共に待っています。

3)苦難に勝るキリストの愛
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ロ―マ8:35)
 この世で何がキリストの愛から引き離すものでしょうか。パウロは「死にさらされるような」試練に遭っても、キリストの愛を疑うどころか、むしろキリストの愛を深く体験したのです。
「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。・・  
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ロ―マ8:37〜39)
 主と一体なる、私たちは圧倒的な勝利者です。

《恵み深い主に感謝せよ!》2019年2月24日 渡邊泰範牧師  

詩篇103篇1〜22節

「わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103篇2節)

<はじめに>
 詩篇103篇は最も美しい詩篇といわれています。ダビデの晩年の作と想われます。『すべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし』と、主の「聖なるみ名」と主の「すべての恵み」を賛美しています。
受けた恵みを喜ぶ以上に、恵み主なる主ご自身を喜ぶことはさらに肝要なことです。

1、主のご性質と主の恵みを賛美する  

「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。」(詩篇103篇1節)

 詩人はまず、全霊、全身をつくして、心の底より神を賛美しています。小畑進先生(詩篇霊解書の著者)は五臓六腑、四肢五官をもって、ほめたたえよと表しています。詩人はその理由として個人的経験において、いかに神の恵みを豊かに受けたことを示しています。(2〜5節)
103:2 わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
103:3 主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし、
103:4 あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、
103:5 あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。

2、神の選民に対する神の赦罪の恵み を賛美する

103:7 主はご自分の道をモーセにそのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。
103:8 主はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。
イスラエルに対する神の赦罪の恵みと正義の裁きについて、神がモーセに表した同じ恵みと力を賛美しています(6〜13)。

3、人間のはかなさに対する神の優しい愛顧の賛美

103:14 主は私たちの成り立ちを知り私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。
私たちが土のちりから出た創造の秘密を知りたもう主の主権を仰ぐと共に、ちりにすぎないものを、軽んぜられるのではなく、そのはかなさ、脆さゆえに、一層、いと惜しんでくださる主を賛美しています。

4、神を畏れる者に対する真実と憐れを賛美する

103:17 しかし、主の恵みはとこしえからとこしえまで主を畏れる(新共同訳)者の上にあり主の義はその子らの子たちに及ぶ。
神はご自分が選んだ者をお捨てにならないのです。
万物の創造者、所有者、支配者である神が天の父として愛し続け、赦し、最善の物を備え続けて下さるのです。  
新しく、私たちが十字架の救いによって義とされたことを感謝し、恵みを数えて天の父を仰いで、賛美する者とならせて頂きましょう。
スポルジョン(20年間、詩篇を学ぶ)は詩篇を賛美する教会賛美は数千あるが、聖書を理解するところの賛美は、この詩篇103篇で十分であると記しています。

《神に祝福されたヤコブ》2019年2月17日 渡邊泰範牧師  

創世記32:9〜12,22〜31

「ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。・・その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:26〜28)

<はじめに>
 キリスト教は単なる宗教ではありません。生ける神の子キリストとのお交わりです。
人生において、重い病い、困難な問題、霊的な苦しみ、試練が襲って来る時こそ、神は、私たちを神に近づかせ、祈らせ、私たちを取り扱われます。
私たちの悩み、困難な場こそ、神の祝福に与るチャンスです。ヤコブは自分の弱さを教えられ、神に祈り、神に取り扱われて、神に祝福された者となりました。

1、ヤコブが祝福された場所は孤独の場でした

 29節にヤコブを「その場で彼を祝福した。」とあります。第一に祝福された場所は24節、「:ヤコブはひとりだけ、あとに残った。」とありますように、神に取り扱われる場所は、神と二人だけになる、孤独の場です。 
神に出会っ場所は、輝く星空の下、ギレアドの野でした。ヤコブは名の如く、押しのける者でした。 
さまざまな陰謀をもって兄エサウの長子の特権を奪い、全て横領したのです。
それ故、兄のエサウの復讐を恐れてカナンの地からメソポタミヤに逃れました。
それから20年ほど経ったので、もう兄エサウの怒りもとけただろうと想い、ヤコブは故郷に帰ろうとしました。
ところが、ヤコブがヨルダンの東、ギレアドのヤボクの渡しにまで来たところ、そこに兄エサウのもとに先に使いに出した者が戻ってきました。
「あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」(32:6)と知らせを受けました。
それを聞いて、ヤコブは非常に恐れ、想い悩みました。エサウは忘れていなかったのです。
そこで彼はただ独りになって、神に祈りました。

2、神が祝福された所は、争いの場でした

 「ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘(別の訳;組打ち)した。その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。」(創世記32:24〜25)
ヤコブは独り後に残り、神のみ使と相撲を取るように、組打ちし、夜明けまで格闘しました。

3、祝福の場は屈服の場です

 神はヤコブを完全に屈服させようと、彼の傲慢と偽善、自己依存を打ち砕こうとしたのです。ここは無条件に明け渡す場です。
「ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。」
(創世記32:25)
ヤコブが神の使者に必死に抵抗している間に、ヤコブの腿のつがいにさわったので、それがはずれたということは、彼が打ち砕かれたことを意味しています。
 ヤコブはもはや抵抗をやめて、その人にすがりつきました。彼の傲慢は砕かれ、ヤコブは祝福されました。

《主の美しきを仰ぎ見ん》2019年2月10日 渡邊泰範牧師  

詩篇27:4

「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

<はじめに>
 ダビデがアブサロムの反逆の時に歌った詩であるとの説があるが、彼が患難の真只中にあって、堅く神を信頼して、勝利の確信に燃えて、歌い上げています。これは心の底からの希望の歌であり、試練のときに全能の神の御腕によりかかる術(すべ)を知った者にふさわしい歌です。(スポルジョン)
 小畑進先生はタイトルを14節のみ言葉をもって、「待ち望め」と題しています。
                                            
1、主を心のうちに宿した人の経験(1〜3節)

1節、神は真理を示す「光」でいまし、罪と敵より救う、「救い」でいますと共に、全き道を歩ませる「命のとりで」でいます。
それゆえ、わたしは恐れることがないことを再三言っています。『だれを私は恐れよう。』
大胆なこの問いかけは、現在のみならず未来をも見通しています。神が味方ならば、だれが私たちに敵しえよう、現在も、未来も。 

3節、臆病者の心は、困難そのものよりも実体のない想像上の困難によって、より多くの苦しみの原因を作ってしまいます。しかし、信仰は勇気を支え、震えをぬぐい去ってしまいます。
『たとえ私に対して陣営が張られても私の心は恐れない。』キリストの栄光とは、実にキリスト御自身がわたしの中に住まわれる(ガラテヤ2:20)、ということです。

2、キリストのうちに住む者の結果(4節)

「私のいのちの日の限り主の家に住むことを。」(詩篇27:4)
詩人ダビデは主の美を仰ぎ、その聖前に住む一事を求めます。神の臨在の聖前での生活を求めることに専念します。『わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。』(口語訳)
ダビデは神の宮を見たがっていたのではなく、神の宮でヤーウエなる主を礼拝し、主の美しさを瞑想したかったのです。
美の原語は柔らかさ、愛、喜びなどを含みます。
ダビデはヤーウエなる主を恋人のように慕ったのです。『これ、ヤーウエの美を眺め、その宮の中にて思い耽(ふけ)らんためなり。』(4節、青木澄十郎の直訳)

3、主のうるわしきを見、その宮で尋ね極める恵み

 祈りにおいて神に近づく姿を表しています。ダビデは一生涯、神とお交わりを持つために、主の家に住み、神の恵みを仰ぎ見つつ、神と共に生きることを一つの願いとしました。パウロも言っています。
『兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、ただ、この一事に励んでいます』(ピリピ3:13)
このことは、私たちの心からの願いであり、父なる神の天の家、私たちの魂の安息所を思い焦がれることです。 
そこに永遠に住むことが許されれば、この地上のあわれな生活が幸福であろうと不幸であろうと、少しも問題ではありません。

《クリスチャンとは》2019年2月3日 渡邊泰範牧師  

マタイ28:11〜20

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。』」(マタイ28:18〜19)

<はじめに>
 グレート・コミッション!有名な主の伝道のご委託であります。世界教化の大命令であります。キリスト教は全世界にあらゆる手段をもって伝道されていますが、その濫觴(らんしょう)はこの28章18節です。『あらゆる国の人々を弟子としなさい。』と書いてありますが、英欽定訳の欄外には「Christians of all nations.もろもろの国人をクリスチャンとせよ。」とあります。新約聖書にはクリスチャンという言葉はまれであります。三箇所しかありません。この伝道の結果、イエス様の前に出た時、パスするとすれば、それは弟子でなければならないのです。

1、主の弟子たる第一の性格は罪の赦しの恵み

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。
『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」。(使徒行伝2:37〜38)

クリスチャンとは、そして主の弟子たる第一の性格・資格は、悔い改めと罪の赦しの恵みに与ることであります。カルバリの十字架は、私の罪のためです。十字架が自分のものになって、
「心安かれ、なんじの罪赦されたり。」ああ。神様、私の罪を赦してくださった。イエス様の十字架によって救われたと、証しができるのです。

2、主の弟子たる第二の性格は全き服従

「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。・・それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」(ローマ6:3〜4)
 そこで、キリスト者の第二の性格は全き従順、キリストに対する全き服従です。
『神様、あなたの御旨をなさせ給えと明け渡し、手放します。』と、祈る時、聖霊の恵みに与かれるのです。そこで、キリスト者の第二の性格は全き従順、キリストに対する全き服従です。
『神様、あなたの御旨をなさせ給えと明け渡し、手放します。』と、祈る時、聖霊の恵みに与かれるのです。
 イエス様は彼らを弟子とせよ、バプテスマを施して弟子とせよと言われましたが、悔い改めと服従の恵みに与かる事でした。

3、主の弟子たる第三の性格は世よりの聖別

「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。
この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」(ガタテヤ6:14)
 世と自分との間には、十字架が立っている。私も世を十字架につけた。私たちは世から選ばれ、世におる。イエスは、「世より取りたまえと祈らず、しかし、世にありて悪しきに陥らす事なかれ」と、主イエスは祈られる。

《苦しみと従順》2019年1月27日 渡邊泰範牧師  

ヘブル5:8、マタイ16:21〜28

「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び」(ヘブル5:8)

<はじめに>
 キリストの救いに与ったクリスチャンには当然、主から頂ける恵みと同時に試練、困難が与えられる。順風満帆の時は、主に感謝し主を賛美することはたやすい。しかし、主は私たちに試練という学課を与えて、さらに筋金入りの立派なクリスチャンに育て上げるために、「主への従順」を学ばす。

1、神の御子の従順と弟子たちへの要請

 『キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び』(ヘブル5:8)主イエスは父なる神のみこころを成し遂げるため、十字架への苦しみの道を歩まれました。全人類の救いのため、十字架の死に至るまで、父なる神に従いました。 
主は十字架にかかる前に、弟子たちに「主への従順」を要請し、模範を示されました。

『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」
(マタイ26:39)

「この杯なる十字架」にかかることが父なる神のみ心、み旨と知った時、イエスは父なる御心に従いました。 そして弟子たちにも、要請しました。

『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』(マタイ16:24)

2、主の弟子としての条件“自分の十字架を負え”

私たちクリスチャン生涯にとっても、一人一人に主より与えられた自ら負うべき十字架があります。その負うべき自らの十字架を覚え、主よりその荷を負う力を頂いて、死に至るまで忠実に主に従い、信仰生涯を全うさせて頂きたい。

キリストに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負いなさいと勧められています。この意味における自分の十字架とは、神の御旨を遂行するために苦しみ、神と人とのために犠牲になることです。

もっと分かりやすく言えば、自分の十字架を負うということは、これが正しい道だと思われる道を行き、あなたに負わされるものは何でも負うことです。そして、決して顔をしかめないで、だれかに良く思われようともせず、与えられたものを勇敢に負うことです。

自分自身の重荷を、自分の都合で持ったり持たなかったりもしないことです。人にはおのおの負うべき「自分の十字架」があります。自分の十字架と他人の十字架とは異なるが、神は一人一人に丁度相応しい十字架を授けて下さるのです。主イエスは馬槽(まぶね)の中からカルバリまで、生涯、十字架の道を歩まれました。

主に従う者は、自分の十字架を避けてはならないのです。これを避けて、この世の生に執着する者は、霊の真の命を失うが、犠牲の生涯と殉教的苦しみをいとわない者は命を得るのです。

『自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。』
(マタイ16:25)

《祈りは最高の特権》2019年1月20日 渡邊泰範牧師  

詩編91編1〜16節

「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」(詩篇91:15)

<はじめに>
 祈りとは、三位一体の神と神によって造られた人間との人格的交わりであり、神のかたちに創造された人間の本質的、生命的な行為です。したがって、真の祈りはイエス・キリストの贖いによって救われ、神のかたちに回復され、三位一体の神との契約関係が結ばれているキリスト者においてこそ祈れるのです。

 祈りはキリスト者にとって最高の特権であり、喜びです。またキリスト者の最大の義務であり、重荷です。
祈りの行為には、思いと言葉における神への崇敬、賛美、感謝、悔い改め、嘆願、明け渡し、とりなしなど、すべてが含まれます。
私たちの信ずる神は生ける神なので、私たちが祈る祈りに主なる、全能なる神は生けるキリストのとりなし(私たちの罪を赦し、生ける神との交わりを快復した和解者)によって、祈りは応えられるのです。
祈りは私たちの模範者なるイエス・キリストに学びたい。聖徒は祈りによって造られるのです。

1、主イエスのゲッセマネの祈り

人生に悩みはつきものです。私たちの救い主、イエスさまも十字架にかかる前夜、
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16:33口語訳)
イエス様はこの世界に、生活している間は「悩みがあります。」しかし、「勇気を出しなさい。」と、弟子たちを励まされました。
イエスさまは、弟子たちを勇気付けた後、ゲッセマネの園で、父なる神に祈られました。
「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」(マタイ26:39)
「この杯なる十字架」にかかることが父なる神のみ心、み旨と知ったとき、弟子たちを更に励まし、勇気付けました。
 「イエスはペテロに言われた。『剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。』」(ヨハネ18:11)
主イエスのゲッセマネの祈りは応えられたのです。

2、祈りに応えられる神

詩篇91篇は「主を住まいとする人の幸い」が、どんなに素晴らしいものであるか、主に感謝し、賛美しています。「いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。」(1節)
『全能者の陰に宿る人。』とは、神を人生の拠り所としている人で、全能者に守られているという意味です。
具体的には、主イエスをすべてにおいて認め、当てにし、よりかかってお交わりする人のことです。
『彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。』(14節)「愛している」という語は、愛する者同士が抱擁するさま、または愛する者にすがりついていくという強烈な愛を表す言葉です。一途に神を愛する、そのような者を主は悩みの時に祈りに応えて、必ず助けて下さるのです。

《大切なものは愛》2019年1月13日 渡邊泰範牧師  

マルコ12:28〜34

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。(マルコ12:30)

<はじめに>
 宮におられたイエス様に一人の律法学者が『何が一番大切なのか』と、真剣に求めてきました。私たちクリスチャンにとって、何が一番大切なのでしょうか。
「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(汽灰螢鵐硲隠魁В隠魁

1、第一に神を心から愛すること

 イエスに近づいた律法学者は敵対心を持つことなく、イエスがいろいろな質問に的確に答えられたのを見て感動していました。そこで、律法学者が宮で普段なしている行事の違いを見たのか、イエスに尋ねました。 
「律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。『すべての中で、どれが第一の戒めですか。』」
(マルコ12:28)

 イエス・キリストは言われました。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。』」(マルコ12:29)

 唯一の主である神は、信じる者もその方だけを信じ、神が人生の中心でなければならないのです。
 さらに、イエスは『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(30)と、言われます。
 この命令は、私たちの持っているすべてもって、神様にお答えするということです。
 様々な私たちの生活の中で、神を愛することです。
 
2、隣人を愛しなさい

 第二に優先すべきものは、犠牲を払ってもでも隣人を愛することです。
「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:31)

 私たちは自分の事については本能的に気にかけます。それを他の人にも意識して、愛しなさいと言われるのです。
 隣人を愛するという事は、自分にとっては部外者のような人をも愛する事です。人を偏り見ず愛する事です。神の御子キリストは私たちの罪を赦すために、すべての人の贖いの代価として、十字架上で死なれました。私たちも犠牲をもって、他の人にも愛を注がなければなりません。

3、どうしたらイエスのようになれるのか

主イエスは大切なことは「神を愛すること、また人を愛することに尽きる」と言われます。このことはすべての人類の共通の願望です。でもここに問題があります。人間的な努力では不可能という事です。それは、私たちが主に信頼する時に可能となるのです。

 聖書のメッセージは、「私が何かをするか」ではなく、「主なる神がどういうことをなされたのか」ということです。私たちが神にすべてを明け渡して行くことです。「神を愛し、隣人を愛する」ということは、イエス・キリストが私たちのために全てを成し遂げたという事に立っています。

 キリストの救いを受け入れる時、聖霊によって新しく生まれ変わり、いのちなるキリストを心に宿す者となります。そうして、二つの大切な命令を守ることが出来るのです。(先週の合流礼拝後の夕拝メッセージより)

《キリストを主としなさい》2019年1月6日 渡邊泰範牧師  

コロサイ3:12〜17

「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:12〜16)

1、あなたはキリストと一つの体になったのです

 キリストが私の主であるということとは、キリストを私に対する主権者として認めることです。キリストの救いに与かった者とは『私達の自我がキリストと共に十字架につけられて死んだことを認めると共に、 イエス・キリストと共に甦(よみがえ)った者であることを自覚することです。』

 日常生活の中にこの原理を生かし表わさなければなりません。この原理に適応して生活しなければなりません。神から離れていた時の古い習慣、 古い生活を拒否し脱ぎ捨て去ることです。

 古きものとは、一目して瞭然たる大罪ばかりでなく、どちらかと言えば 微妙な霊的な罪もその中に含まれています。すなわち、不品行、汚れと言ったばかりでなく、貧欲、怒り、憤 り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉が含まれています。

 パウロは言葉を換えて、このことを衣服になぞらえて、「そう言うものは古い衣服でボロであるので、脱ぎ捨ててしまいなさい」と、言っています。そして新しい衣服を着なさいと、3章12節以下に述べています。

「あわれみの心」とはキリスト者の精神です。キリストご自身の霊です。
「慈愛」があります。英訳の聖書では「親切」となっています。 「慈愛」と「あわれみ」はよく似ています。「善良さ」の意味が含まれています。「慈愛」は特殊な場合に限らず、常時、キリスト者に 聖霊によって与えられているものです。

 次にパウロは訓練されたキリスト者の生活に備わってあるべきものとして、「謙そん」をあげています。
 「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」それはキリス卜がつけるべき新しい衣服を完全にまとめ上げる「帯」です。

2、主イエスがあなたの全てとなっていますか

主イエスは真実にあなたの全ての全てとなって、おられますか。主イエスは名目だけの救い主で、実権はあなたが総理大臣となっていませんか。
すべての主権を主イエスに、お返して、『主よ、 どうか、今、あなたに一切、明け渡します。』あなたの自我を主に引き渡しましょう。

《変わらない主のご愛》2018年12月30日 渡邊泰範牧師  

ヘブル人への手紙13:5〜8

「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」
(ヘブル13:8)

<はじめに>
 いまの時代、実に変化が甚だしく、喧噪と悲しさと困惑に満ちています。主ご自身が告げているように、世界、いたる所で「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」(マタイ24:7)戦争、飢饉、地震、迫害、テロが起こることをイエスは述べています。
世がどんなに変わっても、王の王、主の主として来られた、イエス・キリストの愛、救いは変わらないのです。
歴史(history)はキリストの歴史、His Storyと言われています。やがて、主なるイエス・キリストは世を完全に統治される日が来ます。
「私たちの神である主、全能者が王となられた。」(黙示19:6)

1、変らないお方イエス・キリスト

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。」(ヨハネ14:16〜17)
主イエスは一度、私たちを救うために、世に来られ、私たちの罪を赦すために、十字架に殺されたが、復活し、主を信ずる者に、内なるキリストは心に住み、いつも私たちのそばに居られます。
主は私たちを愛して、『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』
(ヘブル13:5)と、約束されています。
あらゆるものは変化します。しかし、主イエスの十字架上で成し遂げられた、我らの罪の赦しの贖いの愛は変わらないのです。

2、救い主、イエスを信じ、心に迎えよう

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)
主イエスを信じる者が救われるのです。しかし、信じない人にとっては何の力もありません。
イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37、38)
イエス様のところに来て、信ずる者は、渇きが癒されるだけでなく、イエス様が命となって、流れ出るように、満たされると約束しております。

3、私たちの指導者は死んでも、主は居られる

「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。」(ヘブル13:7)
すばらしい信仰の指導者、牧師、教師、先輩がおりました。しかし、みんな死んでしまいましたと、聖書は告げています。
しかし、彼らを導き、彼らを用い、彼らを祝福なさった、イエス・キリスト様はきのうもきょうも、いつまでも変わらず、今も生きて、ここに居られることを、強く語っています。

《クリスマスの詞(ことば)》2018年12月23日 渡邊泰範牧師  

ルカ2:11、汽謄皀藤院В隠機▲ラテヤ4:4、汽撻謄蹌院В横

<はじめに>
 今年もクリスマスがめぐって来た事は、実に感謝なことです。何回、迎えても喜びと感謝が増して来ます。私は58回目のクリスマスを迎えました。 
私たちの救い主の誕生は、宇宙最大の犠牲を払っての世紀のプレゼントです。クリスマスの日にあらためて、クリスマスの詞(ことば)・クリスマスの意義を確認してみましょう。

1、ご誕生

 クリスマスの第一の詞は主イエス・キリストのご誕生である。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
このみ言葉はかの夜、ユダヤの野にあった羊飼たちの頭上にもたらせた、クリスマスのメッセージでした。
今、数は少ないかも知れないが、良心の呵責なく、外からの誘惑を退け、内心の罪の力にも打ち勝ち、死の恐れもなく、永遠を望んで奉仕する一群が世界に存在するのは、この救い主の誕生の賜物である。
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)

2、ご来臨

 主のご誕生と共に用いられる詞はご来臨と言うことである。
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
(汽謄皀藤院В隠機
『主は来られた』という語を新約聖書には案外、多く書かれています。主はお生まれになったばかりでなく、来られたのである。クリスマスの第二の詞はご来臨である。
これは受肉降誕前の主なるイエスの先在性を示すものです。クリスマスといえば、処女降誕が問題になりますが、主の先在性が信じられれば、これはむしろ当然の事で、普通の生まれたかたこそ不合理となります。
神はイエスに母をお与えになったが、父は神自らが父となられたのです。世に来られた主イエスは、
私たちに父を示し、私たちを父のみ国(天国)へ招くため、私たちの罪を赦すために、十字架に死んだのです。

3、ご派遣

 主イエスは勝手にこの世に来られたのではない。父に遣わされて来たのである。クリスマスの第三の詞はご派遣である。
「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(ガラテヤ4:4)又、主イエスは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)などと言われました。
ヨハネの福音書には父に遣わされた主のみ姿が明らかに現れています。そして、主は「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」と言われて、ここに私たちの使命が明らかになっています。

《あなたの魂はどこに》2018年12月16日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音2章1〜12節

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」(マタイ2:1)

<はじめに>
 人生は出会いによって決まると言われます。神との出会いによって私たちは永遠の命が与えられ、人生は祝福されます。はるばる星を頼りに救い主イエスの誕生を尋ね、求める東方の博士たちの出会いのドラマがここにあります。

1、救い主イエスの誕生を尋ね求める東方の博士

 新約聖書の冒頭では、人の方から救い主なる「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねています。
東方の博士たちは救い主の出現の時、特別の星が現れるという預言、「ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、・・」(民数記24:17)に示唆を受けていたのか、熱心に星の出現を待望していました。

 一方で、救い主なるお方は今日も「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と、私たちを招いておられるのです。

2、罪を犯したアダムに呼びかける主なる神

旧約聖書の初めでは、罪を犯し神を恐れて身を隠すアダムに、主なる神は「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけておられます。

 しかし今、この二つの捜索劇の話は、また別な響きを与えています。
『人よあなたはどこにいるのか』と、目に見えざる主なる、生ける神はこのクリスマスに際して、私たち一人一人に呼びかけています。
黙想する心に、この二つの質問は実は一本となって響いて来ます。
「自分の魂は、一体、どこにいるのか」、「自分の信仰状態はどうなのか」と、真摯な自問自答をする事こそ、このクリスマスを守る有意義な態度でありましょう。このことは、今日あなたにとって、キリストはいずこにいますや!キリストを心に迎えたい。

3、博士たちは救い主に会い、喜び、礼拝する

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10)博士たちの燃えるような求道心はついに、星に導かれ、
メシアなる救い主、キリストに出会って、喜び溢れ、救い主を礼拝しました。
「家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(11)
礼拝とは、キリストご自身を拝することです。礼拝とはキリストに黄金、乳香、没薬をささげることです。
黄金はキリストが王として来られたことを意味します。乳香はキリストが芳しい香りを放つ祭司を表します。 
没薬はキリストが私たちの身代わりとなり、私たちの罪のため、死なれた贖いを表します。
キリストこそ私たちを罪から救い、愛をもって治めてくださる王です。私たちも心の扉を開いて、王なるキリストを拝もう。(黙示録3:20,21)

《メシヤ時代の夜明け》2018年12月9日 渡邊泰範牧師  

ルカ1:1:5〜25

「御使いは彼に言った。『恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。』」(ルカ1:13)

<はじめに>
 人生百年と言われるこの時代、老人いかに生くべきかは大きな問題です。 ユダヤの王ヘロデの時代に、ザカリヤという年老いた祭司がいました。彼の妻はエリサベツで、二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていました。
 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。(5〜7節)
 ザカリヤ、エリサベツ夫妻には子がなく、社会的には「恥ずかしい思いがありました。」(25節)

1、主の使い『喜びのおとずれ』を告げる

「御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせ(あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。)を伝えるために遣わされたのです。」(ルカ1:19)
「見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
(ルカ1:20)

 彼らの目には、今の時代と来るべき時代とがあまりにもかけ離れていたのでしょう。まして、その時代の先駆者(バプテスマのヨハネは救い主イエス『世の罪を取り除く神の子羊』を紹介した。)がよりによって、わが家から生まれるなどとは、どうしても信じられなかったのでしょう。

 要するに、「ザカリヤは御使いに言った。『私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。』」(18節)
 その老人意識が新しい事件の告知と、新しい時代の胎動を信じさせないのです。

2、年老いたザカリヤ、エリサベツご夫妻に与えられたバプテスマのヨハネについて

 彼自身については「ぶどう酒も強い酒も飲まない。」ナジル人です。
(民数記6:3、士師記13:7)

民族との関係では、イスラエルの多くの子らを、彼らの神、ヤーウエに立ち返らせる、回復者です。(17節)

 神との関係では、「主イエスの前ぶれを」するエリヤです。彼は文字通りのエリヤ再来を待望していたユダヤ教的では、エリヤではありませんが、「エリヤの霊を示します。」、進んで受け入れるなら、この人こそ、来るべきエリヤ(霊的な意味での)なのです。

 み使いガブリエルはメシヤ降誕をマリヤにもたらした人物です。まことの強さと力は、メシヤなる救い主イエスを信じる信仰によって、神から来ます。

 この力を受けない人は「私はもう年寄りです。」と、固執して、神の新しいみ業を認めようとしません。この精神的な固さ、心の老化現象こそ、神のみ業にブレーキをかけること、しばしばです。
(12月4日の東京若枝教会 聖書研究祈祷会メッセージ要旨より)

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