東京都西東京市プロテスタントキリスト教会・東京若枝教会

■東京若枝教会メッセージ ■中川伝道所メッセージ

《クリスチャンとは》2019年2月3日 渡邊泰範牧師  

マタイ28:11〜20

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。』」(マタイ28:18〜19)

<はじめに>
 グレート・コミッション!有名な主の伝道のご委託であります。世界教化の大命令であります。キリスト教は全世界にあらゆる手段をもって伝道されていますが、その濫觴(らんしょう)はこの28章18節です。『あらゆる国の人々を弟子としなさい。』と書いてありますが、英欽定訳の欄外には「Christians of all nations.もろもろの国人をクリスチャンとせよ。」とあります。新約聖書にはクリスチャンという言葉はまれであります。三箇所しかありません。この伝道の結果、イエス様の前に出た時、パスするとすれば、それは弟子でなければならないのです。

1、主の弟子たる第一の性格は罪の赦しの恵み

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。
『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」。(使徒行伝2:37〜38)

クリスチャンとは、そして主の弟子たる第一の性格・資格は、悔い改めと罪の赦しの恵みに与ることであります。カルバリの十字架は、私の罪のためです。十字架が自分のものになって、
「心安かれ、なんじの罪赦されたり。」ああ。神様、私の罪を赦してくださった。イエス様の十字架によって救われたと、証しができるのです。

2、主の弟子たる第二の性格は全き服従

「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。・・それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」(ローマ6:3〜4)
 そこで、キリスト者の第二の性格は全き従順、キリストに対する全き服従です。
『神様、あなたの御旨をなさせ給えと明け渡し、手放します。』と、祈る時、聖霊の恵みに与かれるのです。そこで、キリスト者の第二の性格は全き従順、キリストに対する全き服従です。
『神様、あなたの御旨をなさせ給えと明け渡し、手放します。』と、祈る時、聖霊の恵みに与かれるのです。
 イエス様は彼らを弟子とせよ、バプテスマを施して弟子とせよと言われましたが、悔い改めと服従の恵みに与かる事でした。

3、主の弟子たる第三の性格は世よりの聖別

「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。
この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」(ガタテヤ6:14)
 世と自分との間には、十字架が立っている。私も世を十字架につけた。私たちは世から選ばれ、世におる。イエスは、「世より取りたまえと祈らず、しかし、世にありて悪しきに陥らす事なかれ」と、主イエスは祈られる。

《苦しみと従順》2019年1月27日 渡邊泰範牧師  

ヘブル5:8、マタイ16:21〜28

「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び」(ヘブル5:8)

<はじめに>
 キリストの救いに与ったクリスチャンには当然、主から頂ける恵みと同時に試練、困難が与えられる。順風満帆の時は、主に感謝し主を賛美することはたやすい。しかし、主は私たちに試練という学課を与えて、さらに筋金入りの立派なクリスチャンに育て上げるために、「主への従順」を学ばす。

1、神の御子の従順と弟子たちへの要請

 『キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び』(ヘブル5:8)主イエスは父なる神のみこころを成し遂げるため、十字架への苦しみの道を歩まれました。全人類の救いのため、十字架の死に至るまで、父なる神に従いました。 
主は十字架にかかる前に、弟子たちに「主への従順」を要請し、模範を示されました。

『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」
(マタイ26:39)

「この杯なる十字架」にかかることが父なる神のみ心、み旨と知った時、イエスは父なる御心に従いました。 そして弟子たちにも、要請しました。

『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』(マタイ16:24)

2、主の弟子としての条件“自分の十字架を負え”

私たちクリスチャン生涯にとっても、一人一人に主より与えられた自ら負うべき十字架があります。その負うべき自らの十字架を覚え、主よりその荷を負う力を頂いて、死に至るまで忠実に主に従い、信仰生涯を全うさせて頂きたい。

キリストに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負いなさいと勧められています。この意味における自分の十字架とは、神の御旨を遂行するために苦しみ、神と人とのために犠牲になることです。

もっと分かりやすく言えば、自分の十字架を負うということは、これが正しい道だと思われる道を行き、あなたに負わされるものは何でも負うことです。そして、決して顔をしかめないで、だれかに良く思われようともせず、与えられたものを勇敢に負うことです。

自分自身の重荷を、自分の都合で持ったり持たなかったりもしないことです。人にはおのおの負うべき「自分の十字架」があります。自分の十字架と他人の十字架とは異なるが、神は一人一人に丁度相応しい十字架を授けて下さるのです。主イエスは馬槽(まぶね)の中からカルバリまで、生涯、十字架の道を歩まれました。

主に従う者は、自分の十字架を避けてはならないのです。これを避けて、この世の生に執着する者は、霊の真の命を失うが、犠牲の生涯と殉教的苦しみをいとわない者は命を得るのです。

『自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。』
(マタイ16:25)

《祈りは最高の特権》2019年1月20日 渡邊泰範牧師  

詩編91編1〜16節

「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」(詩篇91:15)

<はじめに>
 祈りとは、三位一体の神と神によって造られた人間との人格的交わりであり、神のかたちに創造された人間の本質的、生命的な行為です。したがって、真の祈りはイエス・キリストの贖いによって救われ、神のかたちに回復され、三位一体の神との契約関係が結ばれているキリスト者においてこそ祈れるのです。

 祈りはキリスト者にとって最高の特権であり、喜びです。またキリスト者の最大の義務であり、重荷です。
祈りの行為には、思いと言葉における神への崇敬、賛美、感謝、悔い改め、嘆願、明け渡し、とりなしなど、すべてが含まれます。
私たちの信ずる神は生ける神なので、私たちが祈る祈りに主なる、全能なる神は生けるキリストのとりなし(私たちの罪を赦し、生ける神との交わりを快復した和解者)によって、祈りは応えられるのです。
祈りは私たちの模範者なるイエス・キリストに学びたい。聖徒は祈りによって造られるのです。

1、主イエスのゲッセマネの祈り

人生に悩みはつきものです。私たちの救い主、イエスさまも十字架にかかる前夜、
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16:33口語訳)
イエス様はこの世界に、生活している間は「悩みがあります。」しかし、「勇気を出しなさい。」と、弟子たちを励まされました。
イエスさまは、弟子たちを勇気付けた後、ゲッセマネの園で、父なる神に祈られました。
「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」(マタイ26:39)
「この杯なる十字架」にかかることが父なる神のみ心、み旨と知ったとき、弟子たちを更に励まし、勇気付けました。
 「イエスはペテロに言われた。『剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。』」(ヨハネ18:11)
主イエスのゲッセマネの祈りは応えられたのです。

2、祈りに応えられる神

詩篇91篇は「主を住まいとする人の幸い」が、どんなに素晴らしいものであるか、主に感謝し、賛美しています。「いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。」(1節)
『全能者の陰に宿る人。』とは、神を人生の拠り所としている人で、全能者に守られているという意味です。
具体的には、主イエスをすべてにおいて認め、当てにし、よりかかってお交わりする人のことです。
『彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。』(14節)「愛している」という語は、愛する者同士が抱擁するさま、または愛する者にすがりついていくという強烈な愛を表す言葉です。一途に神を愛する、そのような者を主は悩みの時に祈りに応えて、必ず助けて下さるのです。

《大切なものは愛》2019年1月13日 渡邊泰範牧師  

マルコ12:28〜34

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。(マルコ12:30)

<はじめに>
 宮におられたイエス様に一人の律法学者が『何が一番大切なのか』と、真剣に求めてきました。私たちクリスチャンにとって、何が一番大切なのでしょうか。
「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(汽灰螢鵐硲隠魁В隠魁

1、第一に神を心から愛すること

 イエスに近づいた律法学者は敵対心を持つことなく、イエスがいろいろな質問に的確に答えられたのを見て感動していました。そこで、律法学者が宮で普段なしている行事の違いを見たのか、イエスに尋ねました。 
「律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。『すべての中で、どれが第一の戒めですか。』」
(マルコ12:28)

 イエス・キリストは言われました。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。』」(マルコ12:29)

 唯一の主である神は、信じる者もその方だけを信じ、神が人生の中心でなければならないのです。
 さらに、イエスは『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(30)と、言われます。
 この命令は、私たちの持っているすべてもって、神様にお答えするということです。
 様々な私たちの生活の中で、神を愛することです。
 
2、隣人を愛しなさい

 第二に優先すべきものは、犠牲を払ってもでも隣人を愛することです。
「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:31)

 私たちは自分の事については本能的に気にかけます。それを他の人にも意識して、愛しなさいと言われるのです。
 隣人を愛するという事は、自分にとっては部外者のような人をも愛する事です。人を偏り見ず愛する事です。神の御子キリストは私たちの罪を赦すために、すべての人の贖いの代価として、十字架上で死なれました。私たちも犠牲をもって、他の人にも愛を注がなければなりません。

3、どうしたらイエスのようになれるのか

主イエスは大切なことは「神を愛すること、また人を愛することに尽きる」と言われます。このことはすべての人類の共通の願望です。でもここに問題があります。人間的な努力では不可能という事です。それは、私たちが主に信頼する時に可能となるのです。

 聖書のメッセージは、「私が何かをするか」ではなく、「主なる神がどういうことをなされたのか」ということです。私たちが神にすべてを明け渡して行くことです。「神を愛し、隣人を愛する」ということは、イエス・キリストが私たちのために全てを成し遂げたという事に立っています。

 キリストの救いを受け入れる時、聖霊によって新しく生まれ変わり、いのちなるキリストを心に宿す者となります。そうして、二つの大切な命令を守ることが出来るのです。(先週の合流礼拝後の夕拝メッセージより)

《キリストを主としなさい》2019年1月6日 渡邊泰範牧師  

コロサイ3:12〜17

「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:12〜16)

1、あなたはキリストと一つの体になったのです

 キリストが私の主であるということとは、キリストを私に対する主権者として認めることです。キリストの救いに与かった者とは『私達の自我がキリストと共に十字架につけられて死んだことを認めると共に、 イエス・キリストと共に甦(よみがえ)った者であることを自覚することです。』

 日常生活の中にこの原理を生かし表わさなければなりません。この原理に適応して生活しなければなりません。神から離れていた時の古い習慣、 古い生活を拒否し脱ぎ捨て去ることです。

 古きものとは、一目して瞭然たる大罪ばかりでなく、どちらかと言えば 微妙な霊的な罪もその中に含まれています。すなわち、不品行、汚れと言ったばかりでなく、貧欲、怒り、憤 り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉が含まれています。

 パウロは言葉を換えて、このことを衣服になぞらえて、「そう言うものは古い衣服でボロであるので、脱ぎ捨ててしまいなさい」と、言っています。そして新しい衣服を着なさいと、3章12節以下に述べています。

「あわれみの心」とはキリスト者の精神です。キリストご自身の霊です。
「慈愛」があります。英訳の聖書では「親切」となっています。 「慈愛」と「あわれみ」はよく似ています。「善良さ」の意味が含まれています。「慈愛」は特殊な場合に限らず、常時、キリスト者に 聖霊によって与えられているものです。

 次にパウロは訓練されたキリスト者の生活に備わってあるべきものとして、「謙そん」をあげています。
 「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」それはキリス卜がつけるべき新しい衣服を完全にまとめ上げる「帯」です。

2、主イエスがあなたの全てとなっていますか

主イエスは真実にあなたの全ての全てとなって、おられますか。主イエスは名目だけの救い主で、実権はあなたが総理大臣となっていませんか。
すべての主権を主イエスに、お返して、『主よ、 どうか、今、あなたに一切、明け渡します。』あなたの自我を主に引き渡しましょう。

《変わらない主のご愛》2018年12月30日 渡邊泰範牧師  

ヘブル人への手紙13:5〜8

「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」
(ヘブル13:8)

<はじめに>
 いまの時代、実に変化が甚だしく、喧噪と悲しさと困惑に満ちています。主ご自身が告げているように、世界、いたる所で「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」(マタイ24:7)戦争、飢饉、地震、迫害、テロが起こることをイエスは述べています。
世がどんなに変わっても、王の王、主の主として来られた、イエス・キリストの愛、救いは変わらないのです。
歴史(history)はキリストの歴史、His Storyと言われています。やがて、主なるイエス・キリストは世を完全に統治される日が来ます。
「私たちの神である主、全能者が王となられた。」(黙示19:6)

1、変らないお方イエス・キリスト

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。」(ヨハネ14:16〜17)
主イエスは一度、私たちを救うために、世に来られ、私たちの罪を赦すために、十字架に殺されたが、復活し、主を信ずる者に、内なるキリストは心に住み、いつも私たちのそばに居られます。
主は私たちを愛して、『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』
(ヘブル13:5)と、約束されています。
あらゆるものは変化します。しかし、主イエスの十字架上で成し遂げられた、我らの罪の赦しの贖いの愛は変わらないのです。

2、救い主、イエスを信じ、心に迎えよう

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)
主イエスを信じる者が救われるのです。しかし、信じない人にとっては何の力もありません。
イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37、38)
イエス様のところに来て、信ずる者は、渇きが癒されるだけでなく、イエス様が命となって、流れ出るように、満たされると約束しております。

3、私たちの指導者は死んでも、主は居られる

「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。」(ヘブル13:7)
すばらしい信仰の指導者、牧師、教師、先輩がおりました。しかし、みんな死んでしまいましたと、聖書は告げています。
しかし、彼らを導き、彼らを用い、彼らを祝福なさった、イエス・キリスト様はきのうもきょうも、いつまでも変わらず、今も生きて、ここに居られることを、強く語っています。

《クリスマスの詞(ことば)》2018年12月23日 渡邊泰範牧師  

ルカ2:11、汽謄皀藤院В隠機▲ラテヤ4:4、汽撻謄蹌院В横

<はじめに>
 今年もクリスマスがめぐって来た事は、実に感謝なことです。何回、迎えても喜びと感謝が増して来ます。私は58回目のクリスマスを迎えました。 
私たちの救い主の誕生は、宇宙最大の犠牲を払っての世紀のプレゼントです。クリスマスの日にあらためて、クリスマスの詞(ことば)・クリスマスの意義を確認してみましょう。

1、ご誕生

 クリスマスの第一の詞は主イエス・キリストのご誕生である。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
このみ言葉はかの夜、ユダヤの野にあった羊飼たちの頭上にもたらせた、クリスマスのメッセージでした。
今、数は少ないかも知れないが、良心の呵責なく、外からの誘惑を退け、内心の罪の力にも打ち勝ち、死の恐れもなく、永遠を望んで奉仕する一群が世界に存在するのは、この救い主の誕生の賜物である。
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)

2、ご来臨

 主のご誕生と共に用いられる詞はご来臨と言うことである。
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
(汽謄皀藤院В隠機
『主は来られた』という語を新約聖書には案外、多く書かれています。主はお生まれになったばかりでなく、来られたのである。クリスマスの第二の詞はご来臨である。
これは受肉降誕前の主なるイエスの先在性を示すものです。クリスマスといえば、処女降誕が問題になりますが、主の先在性が信じられれば、これはむしろ当然の事で、普通の生まれたかたこそ不合理となります。
神はイエスに母をお与えになったが、父は神自らが父となられたのです。世に来られた主イエスは、
私たちに父を示し、私たちを父のみ国(天国)へ招くため、私たちの罪を赦すために、十字架に死んだのです。

3、ご派遣

 主イエスは勝手にこの世に来られたのではない。父に遣わされて来たのである。クリスマスの第三の詞はご派遣である。
「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(ガラテヤ4:4)又、主イエスは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)などと言われました。
ヨハネの福音書には父に遣わされた主のみ姿が明らかに現れています。そして、主は「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」と言われて、ここに私たちの使命が明らかになっています。

《あなたの魂はどこに》2018年12月16日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音2章1〜12節

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」(マタイ2:1)

<はじめに>
 人生は出会いによって決まると言われます。神との出会いによって私たちは永遠の命が与えられ、人生は祝福されます。はるばる星を頼りに救い主イエスの誕生を尋ね、求める東方の博士たちの出会いのドラマがここにあります。

1、救い主イエスの誕生を尋ね求める東方の博士

 新約聖書の冒頭では、人の方から救い主なる「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねています。
東方の博士たちは救い主の出現の時、特別の星が現れるという預言、「ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、・・」(民数記24:17)に示唆を受けていたのか、熱心に星の出現を待望していました。

 一方で、救い主なるお方は今日も「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と、私たちを招いておられるのです。

2、罪を犯したアダムに呼びかける主なる神

旧約聖書の初めでは、罪を犯し神を恐れて身を隠すアダムに、主なる神は「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけておられます。

 しかし今、この二つの捜索劇の話は、また別な響きを与えています。
『人よあなたはどこにいるのか』と、目に見えざる主なる、生ける神はこのクリスマスに際して、私たち一人一人に呼びかけています。
黙想する心に、この二つの質問は実は一本となって響いて来ます。
「自分の魂は、一体、どこにいるのか」、「自分の信仰状態はどうなのか」と、真摯な自問自答をする事こそ、このクリスマスを守る有意義な態度でありましょう。このことは、今日あなたにとって、キリストはいずこにいますや!キリストを心に迎えたい。

3、博士たちは救い主に会い、喜び、礼拝する

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10)博士たちの燃えるような求道心はついに、星に導かれ、
メシアなる救い主、キリストに出会って、喜び溢れ、救い主を礼拝しました。
「家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(11)
礼拝とは、キリストご自身を拝することです。礼拝とはキリストに黄金、乳香、没薬をささげることです。
黄金はキリストが王として来られたことを意味します。乳香はキリストが芳しい香りを放つ祭司を表します。 
没薬はキリストが私たちの身代わりとなり、私たちの罪のため、死なれた贖いを表します。
キリストこそ私たちを罪から救い、愛をもって治めてくださる王です。私たちも心の扉を開いて、王なるキリストを拝もう。(黙示録3:20,21)

《メシヤ時代の夜明け》2018年12月9日 渡邊泰範牧師  

ルカ1:1:5〜25

「御使いは彼に言った。『恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。』」(ルカ1:13)

<はじめに>
 人生百年と言われるこの時代、老人いかに生くべきかは大きな問題です。 ユダヤの王ヘロデの時代に、ザカリヤという年老いた祭司がいました。彼の妻はエリサベツで、二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていました。
 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。(5〜7節)
 ザカリヤ、エリサベツ夫妻には子がなく、社会的には「恥ずかしい思いがありました。」(25節)

1、主の使い『喜びのおとずれ』を告げる

「御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせ(あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。)を伝えるために遣わされたのです。」(ルカ1:19)
「見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
(ルカ1:20)

 彼らの目には、今の時代と来るべき時代とがあまりにもかけ離れていたのでしょう。まして、その時代の先駆者(バプテスマのヨハネは救い主イエス『世の罪を取り除く神の子羊』を紹介した。)がよりによって、わが家から生まれるなどとは、どうしても信じられなかったのでしょう。

 要するに、「ザカリヤは御使いに言った。『私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。』」(18節)
 その老人意識が新しい事件の告知と、新しい時代の胎動を信じさせないのです。

2、年老いたザカリヤ、エリサベツご夫妻に与えられたバプテスマのヨハネについて

 彼自身については「ぶどう酒も強い酒も飲まない。」ナジル人です。
(民数記6:3、士師記13:7)

民族との関係では、イスラエルの多くの子らを、彼らの神、ヤーウエに立ち返らせる、回復者です。(17節)

 神との関係では、「主イエスの前ぶれを」するエリヤです。彼は文字通りのエリヤ再来を待望していたユダヤ教的では、エリヤではありませんが、「エリヤの霊を示します。」、進んで受け入れるなら、この人こそ、来るべきエリヤ(霊的な意味での)なのです。

 み使いガブリエルはメシヤ降誕をマリヤにもたらした人物です。まことの強さと力は、メシヤなる救い主イエスを信じる信仰によって、神から来ます。

 この力を受けない人は「私はもう年寄りです。」と、固執して、神の新しいみ業を認めようとしません。この精神的な固さ、心の老化現象こそ、神のみ業にブレーキをかけること、しばしばです。
(12月4日の東京若枝教会 聖書研究祈祷会メッセージ要旨より)

《足を洗われたイエスの愛》2018年12月2日 渡邊泰範牧師  

ヨハネによる福音書 13;1〜35

「ペテロはイエスに言った。『決して私の足を洗わないでください。』イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」(ヨハネ13:8)

<はじめに>
 イエスが十字架にかかる前夜、イエスは自らしもべとなって弟子たちの足を洗いました。ここで重要なことを学びたいのです。ペテロはいかなる態度をとるべきでありましたでしょうか。それはただ「受ける。」ということなのです。
 何の資格も、権利も、功績もないものに与えられる、神の愛、神の恵み、それが神の『恩寵』というものです。罪の赦しの恵みもその通りです。恩寵の前に、私たちのとるべき態度は「感謝して受ける。」こと以外に無いのです。

1、主は弟子たちを極みまで愛された

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」
(1節;極みまで・・愛し給えり;下線部分、文訳)

 イエスさまは父なる神から出て神に帰ることをご存知でした。しかし、主は「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(4節)と、あります。
実に神の御子、父なる神から万物の主権者として任せられた、主なるお方がしもべのお姿となられたのです。 
この時の弟子たちは一体どのような態度をとっていたのでしょうか。弟子たちはお互いの中で、一番偉いのは誰か?ということについて激論を戦わせていたのです。(ルカによる福音書22:24〜30) 
そこでイエスは「あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。」(ルカ22:26)と言われました。

 この最後の晩餐の席は借用したものですから、彼らを家に招いた主人役という方はいません。もし主人がいましたら、うやうやしく、主イエスと弟子たちを迎え、塵埃にまみれた足を洗ってくれたでしょう。しかしこの場合、招かれたのではありませんから、足を洗ってくれる人はいません。しかし彼らは、「誰が偉いのか」と口論していたのです。

2、主が弟子たちの足を洗った教訓

主が弟子たちの足を洗った点について三つのことを学びましょう。

1)驚くべきことに、主権者、王なる最も力あるお方が、最も弱き者の如く、奴隷の如く、僕(しもべ)となられた事です。(3節)

2)この主の行為をめぐって起こった論争です。シモン・ペテロの番になって、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」(6〜7節)
 いまや、主の諭により傲慢なペテロは一旦は拒否しましたが、諭され、主に足を洗って頂きました。

3)主の模範に倣(なら)うことです。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
(ヨハネ13:34節)

 弟子たちに示された主のご愛と、しもべとなられた主のご謙遜を深く、生涯学びましょう。

《天を慕う生涯》2018年11月25日 渡邊泰範牧師  

ヘブル人への手紙11:13〜16

「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」(ヘブル11:13〜16)

<はじめに>
♪“旅人(たびびと)なるこの身にとりて 慕わしきは天(あま)つ故郷(ふるさと)、 
 救い主に まみゆるまでは 心満たすものはあらじ。”
この聖歌の如く、お互い「天を慕う生涯」を送りたい。

 エノクはいつも神を見るごとく、神の存在と神の評価を基準に神の報いを信じ、神と共に300年間歩みました。そしてエノクは死を見ないで天に移されました。その事は罪の贖い主なるキリストの救いに与った私たちも、やがて終わりの日に天に携えあげられ、主の顔を見て、いつまでも主と共に居ることの約束を表しています。

 アブラハムも生涯、地上では旅人として天幕生活を送りました。信仰により天の故郷(ふるさと)をあこがれたアブラハムに学び、私たちも天を慕い求めましょう。

1、アブラハムは天の故郷を慕った

「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。」
(ヘブル人への手紙11:16)

 アブラハムはカルデアのウルで父テラと過ごしていましたが、神の召しに従って家と家族とも離れ、行く先も知らないで出て行ったのです。神は約束の地、カナンにアブラハムを導かれました。
私たちはどうでしょう。神の命令とあるならば親しい家族と離れ、全く見知らぬ土地へ向かうことが出来るでしょうか。そこに神への信仰の冒険と忍耐が必要です。

 私は若い時に神の働き人として召し出され、そして長い月日のあとフルタイムで主の御用に立ちました。懐かしい柴又を離れ、塩屋の神学校に向かいました。家に居る愛する家内と母と愛犬3匹とも別れました。大変つらかったのですが、今学んでいるアブラハムの信仰に導かれて、家を出ました。家内に泣かれました。脳梗塞の母の面倒を看て貰っていましたので、申し訳なく思いました。すべての生涯を神のみ手に委ねました。

2、天を慕う者とされた我ら―その理由

1)我らはキリストと共に甦らされた者
「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ3:1)

2)先立ち行きし聖徒が天におる
「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。」(黙示録7:14〜15)

3)天に我らの住まいが備えてある
「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」(ヨハネ14:2)

 私たちには天に永遠の住まいがあります。キリストがこの世を去って天に昇られた一つの目的は、私たちのために天に住まいを備えるためでした。

《人生最高の目的》2018年11月18日 渡邊泰範牧師  

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「そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。」(競灰螢鵐硲機В后

<はじめに>
 人生最高の目的は『主を喜ばせる生涯』です。このメッセージを恩師、本郷善次郎はこよなく愛しました。それは私たちの肉体はテントのように壊れやすいのです。本郷師は医者になるために岡山大、医学部で勉強してましたが、在学中に医学生が突然、二人召されるという出来事がありました。そこで先生は主に献身したのです。

 この世の生涯は旅です。アブラハムは地上では旅人として、天幕生活を送り、信仰により天の故郷(ふるさと)を慕い求めました。そのように私たちも天を慕い求める者でありたい。

1、 見えないものに目を注ぐ

「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(競灰螢鵐硲粥В隠検

 キリストの救いを受けた者と受けない者との違いは、永遠の命をもっているかいないかであり、大変厳粛なことです。
ヨハネ伝3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。神さまの最大の賜物は永遠の命です。

 私たちをお造りになった全能の神から離れている生活は、この世の富、この世の名誉に目が注がれやすいのです。しかし、神さまが分かってきますと目に見えないものに目を注ぐようになります。それは目に見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

 パウロはこの5章に何を望んでいたのでしょうか。
「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。」
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 これは主イエス・キリストがもう一度再臨される時、生き残っている聖徒、即ち、主を信じキリストの救いに与っている者が新しい栄光の体に変えられる時なのです。また、死んだ聖徒が新しい栄光の体(栄化)に復活する時です。この肉体にある間は弱さを感じ、いろいろの重荷を負ってうめく事もあるでしょう。

 けれども神さまは私たちのために、永遠の住まいを備えて下さいました。そして2節に「私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。」とありますように、パウロは速く栄光の体に与りたい、復活の体に与りたい、と一生懸命願ったのです。 
 
2、主に喜ばれる生活

 現実の地上生活で、まだイエス様がおいでにならない今は、どのようにあるべきでしょうか。9節にパウロは「肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。」(競灰螢鵐硲機В后

 これがクリスチャンの最高の目的です。生きることも死ぬることも、たいした問題ではなかったのです。リビングバイブルでは、「私たちの目的は何をするにも、いつも主に喜ばれることです。」と訳しています。

《義に飢え渇く者の幸い》2018年11月11日 渡邊泰範牧師  

マタイによる福音書 5章6節

『義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。』(マタイ5:6)

<はじめに>
 義とは神のご本性である正義です。神の義がこの世を支配しています。これに逆らって平安だった人は一人もいません。義とはまた救いの同義語で、不義なる私たちを神が罪なしと認めて下さること、そして義なる者とされて生きることです。

 飢え渇きはつらいことですが、神に渇くことが人間であることの証しなのです。そこに、いのちの水が心から湧き上がり、神との人格的な交わりが始まります。それは、やがて永遠的な充足に繋がるのです。

 山上の説教の四番目の祝福、「義に飢え渇く者の幸い」はキリストの福音をすべて総括する最も注目すべきものであり、全ての人に適用できる、もう一歩進んだキリスト者の姿です。

 聖書は、幸福とは直接求めるものではなく、いつでも神を求めた結果、与えられると教えています。もし、私たちが真に幸福になりたいと願うなら、義に飢え渇くことです。幸いや幸福、経験を第一に置いてはなりません。そうではなく神の祝福(幸福)は、義を求める人々に神が与えて下さるのです。

1、義とされることの意味

使徒パウロはローマ人への手紙で、「信仰による神の義」について語っています。
「すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(ローマ3:26)

義とは神の本性である正義です。義はまた、「イエスの十字架は私の罪を赦すために、死んでくださった」と、信ずる者を罪なしと認めてくださることを意味します。

 義に飢え渇いている人とは、罪から解放されたいという願う人であります。なぜなら、罪は私たちを神から引き離すからです。キリスト者は罪からの解放を願うだけでなく、次に、義に飢え渇くとは積極的に、聖なる潔くなりたいと願う者です。キリストを内に宿し、神と共に歩む人こそ、『義に飢え渇いている者』が願っている神との関係です。キリスト者とは罪が赦され、死から解放され、聖霊によりて歩む者です。

2、飢え渇く者に与えられる、満ち足れる恵み

『義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。』(マタイ5:6)

 このように「義に飢え渇く」人は幸いであり、幸福であります。神に祝福されるべき者です。『その人は満ち足りるからです。』と、彼らは望んでいたものが神より与えられ、大いなる喜びと平安に満たされます。
これは、義に飢え渇く者に与えられる、神よりの賜物です。これが主なる、神の恵みの福音です。

人は自分で自分を義に飽きたらせ、満ちたらせることは出来ません。神が求めている態度は、あなたが神を必要としていることを、知るということにつきます。私たちはキリストご自身の義によって義とされるのです。キリスト者は飢え渇いていると同時に、満たされている人であります。

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